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遺跡的すまいの継承

丸山町南住宅 昭和30年(1955) 東京都文京区

 2016年、不動産のウェブサイトで賃貸物件を探していたのが、この住宅との偶然の出会いであった。築年数は60年を超えるが内部はきれいに改修されており、周辺環境を含め破格の好物件であると感じた。残念ながら2019年で建て替えとなるのだが、この住宅ですごした時間はとても得難い経験となった。建て替えによって失われる可能性があるこの価値について、何かしらの記録を残すべくこの文章を書くことにした。

 この建物は日本の鉄筋コンクリート造の集合住宅としては初期の時代のものであり、DKタイプの間取りの元祖である51C型に近いプランである。自分の住んだ住戸は改修によって1LDKとなっていたが、ほぼ原型のままの住戸もいまだに残されている。4階建てでエレベーターは無く、階段室型なので1フロア2住戸のユニットが東西に連なっている。全住戸南北に面して窓があり、南側は全面バルコニーというつくりである。

 なにより贅沢なのは、南北ともに樹木が植えられ緑地帯で囲まれていることだろう。特に南の庭は、都内でも珍しいほどゆったりとしたスペースを確保している。丸山町南住宅はもともと8棟あったが、坂の上の平地に建つ6棟は既に建て替えられ、坂の途中の2棟のみがそのままの姿で残されている。斜面地ということで、余剰のスペースが多くなったことも豊かな環境をつくる一員だったと言えるだろう。

 文京区には多数の起伏があるが、JR大塚駅から、後楽園へと続く千川通りはその名の通り川を暗渠化した道路であり、その両側には川に削られてできた河岸段丘の地形が残っている。小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科付属植物園)においては、段丘の地形に沿ってまとまった緑地が姿を見せるため、かつての自然の風景を想像することができる。この住宅も千川通りの低地に張り出したような段丘の斜面地に建てられており、敷地内の多数の樹木によって周囲にささやかな緑地の風景を提供している。周りは密集した戸建ての住宅地であるので、坂の途中に建つこの建物からの眺め、は南北共に開けたすばらしい眺望である。

 敷地内の庭には夏みかん、柿、ビワ、などの実のなる樹木が多数生えており多様な植生に季節の移り変わりを感じることができる。その自然の恵みを分けあうことで、普段あまり顔を合わせることのない住民同士にささやかな交流が生まれることがある。下の階に住んでいるおばあさんは古くからの住人で、昔から庭の手入れに通っている植木屋さんに頼んでこれらの果実を手に入れているそうである。手作りの夏みかんジャムや柿をいただいたことがあり、絵手紙を返したということもあった。

 実のなる樹木があると、さまざまな小鳥が寄ってくる。窓から観察しているとスズメ、ヒヨドリ、シジュウカラ、メジロなど、さまざまな鳥を見ることができる。休日朝寝坊したときなどに、鳥の声で目が覚めるというのはなんとも気分がいいものである。

 このような暮らしの場をつくるのは、建物が建つ前提条件によるところが大きい。地形もさることながら、ゆったりした庭や、自然石で舗装されたアプローチ、そして全住戸が南北に面する建物配置によって基本的な住環境のポイントがきちんと確保されている。建物そのものは機能的でありながらも清々しいほどシンプルだ。古い建物なので高断熱・高気密などとは無縁であるが、南に日当たりの良い広い窓があり、北側にも窓があるので風通しも非常に良い。 建物の作りはシンプルであるが、ある種の不便さを楽しめる者にとっては周囲の環境と日常生活をつなぐ豊かな生活の容れ物である。

 当然のことながら、現代の東京の住宅事情を考えればこのような好条件を新たに生み出すことは大変難しい。昔からの住民に聞いた話では、丸山町南住宅はRCの住宅等があまりない時代に建てられた「最新鋭の住宅」であり、当初は官僚や弁護士といった職業の人々が暮らしていたそうだ。団地整備が始まる昭和30年代には、周囲から羨望の眼差しを向けられるような建物であったのだ。都市の過密が今ほどではない時代の新鋭建築ということで実現した好環境である。しかし、60年を超える歳月により建物の取り巻く時代は変化していった。輝かしい最新鋭の住宅は、しだいに古びた建物、昭和の香りを漂わせる遺物といった見方をされるようになっていった。これは表面的な不動産の価値基準では、建物単体の経年劣化が環境という普遍的な価値よりも重視されているからといえる。そのおかげで私にとっては破格の条件と感じられたわけなのだが、建て替えを迎え、現在の市場の価値観のままではこの環境を保持することは難しいだろう。

 このような状況を傍観していては、無分別な都市開発へ加担しているといえなくもない。現在のRC造の法定耐用年数は47年と決められている。以前、築50年以上の大学図書館を耐震改修したが、構造的な補強を加える方法は色々ある。改修にはお金がかかるが、この建物の設備や内装の多くはすでに改修され生活に大きな支障はなかった。 環境を継承するという観点から考えれば単純な改修や建て替えだけではない方法が見つかるかもしれない。

 丸山町南住宅には、周りの住宅地とは違う不思議な存在感がある。これは、その土地の地形や歴史を含む環境の総体が、風景として可視化されているからではないだろうか。

遺跡を保存するように、環境の総体としてすまいの普遍的な価値を継承していくことが、結果として市場を含めた都市の価値を高めていくことになるのではないかと思う。失われてゆく価値を継承するきっかけとなるよう、表層的な論理では捉えきれない要素を可視化していきたい。


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