【スパイ尾崎秀実とは?】風見章 近衛文麿の関係を分かりやすく‼
スメドレーと出会いゾルゲとつながり満洲国でスパイ活動。
コミンテルンに正式登録され本格的に日本でスパイ活動。
陸軍の計らいで尾崎とゾルゲは表裏でつながる。
雑誌【中央公論】を発表し近衛文麿と接触。
近衛と尾崎は固定メンバーで交流会を何度もおこなう。
日本の情報は尾崎によりソ連に大量流出。
ゾルゲ事件後尾崎秀実の関係書類は持ち去られた。
尾崎秀実の歴史的役割は日米戦への扇動。
共産主義者の風見章とも親友。
尾崎秀実とゾルゲの関係しか語られないが近衛文麿とも親密。
尾崎秀実は日本をスパイし日米戦と敗戦に大きく関わる。
スパイ尾崎秀実とは分かりやすく
学生時代牛場友彦・松本重治と出会い自称共産主義者
明治34年4月に東京で生まれ台湾で育ちました。
その後東京へいき第一高等学校を卒業し東京帝国大学法学部を卒業。
学生時代に牛場友彦と松本重治と出会う
東大大学院で共産主義へ変貌。
朝日新聞入社・スメドレー・ゾルゲと出会いソ連のスパイ活動
大正15年朝日新聞社・社会部に入社
草野源吉の偽名で社会主義者の研究会、出版労働組合などに所属。
昭和2年12月に上海支局に転任。
上海で中国共産党幹部など共産主義者や左翼学生グループとつながる。
同時に日本の共産主義者の指導も担当
共産主義運動へ資金提供。
アメリカ人女性ジャーナリストのアグネス・スメドレーと出会う。
中国共産党と通じている
アメリカ世論を反日で燃え上がらせていた
国民党の暴露情報を尾崎秀実に流す
ソ連のスパイ【リヒャルト・ゾルゲ】と通じている
尾崎秀実の恋人
尾崎秀実はスメドレーの紹介でソ連のスパイ【ゾルゲ】と出会う。
スメドレーと共にゾルゲグループに加入。
尾崎秀実は国際的な共産主義活動家へ
満洲国でスパイ・コミンテルン会議参加・満州事変で帰国
昭和7年1月の帰国まで支那各地、満州国で日本軍の動きを調査していた。
尾崎秀実帰国後跡継ぎは日本新聞聯合(れんごう)社山上正義(やまがみまさよし)
新聞聯合社上海支局長は松本重治(第一高、東大の同期)
昭和3年6月には張作霖爆殺事件(ちょうさくりん)。
8月にはコミンテルン第6回会議。
コミンテルン第6回会議内容
ソ連防衛
中国革命を念頭に「帝国主義戦争を内乱へ(敗戦革命へ)」
戦争を通じて革命
昭和6年9月満州事変。
昭和7年4月中国共産党がソビエト政府名で日本に宣戦布告。
昭和7年尾崎秀実に上海事変で帰国命令。
支那スパイ持続・日本でスパイ開始・コミンテルン正式登録
帰国後も朝日新聞大阪支部で支那におけるスパイを持続。
スメドレーとも密会・文通。
昭和7年6月ゾルゲと再会。
ゾルゲの要請により日本でのスパイ活動を開始
ソ連共産党員
ソ連軍中将級の階級
ナチス党員と偽り活動
昭和9年10月朝日新聞社に新設された東亜問題調査会の支那専門家として招待。
[東亜問題調査会]
東アジアの問題を広く調査し朝日新聞の活動に貢献。
あわせて国策に協力するのが目的。
東亜問題調査会メンバー
会長 緒方竹虎
主要メンバー 尾崎秀実
大陸経済専門家
政治研究家
外務省情報部員
陸軍関係者
産業界
文化会代表
ソ連問題専門家
尾崎秀実は東亜問題調査会という情報ルート入手。
昭和10年夏尾崎秀実はコミンテルンに正式登録
支那出張・ヨセミテ会議出席・支那分析家として高評価
昭和10年末頃に朝日新聞の支那視察記者団として支那に渡る。
支那各地の実力者の取材内容を発表。
昭和11年2月には同級生の牛場友彦紹介で蠟山政道中心の近衛文麿を囲む会に加入
昭和11年8月太平洋問題調査会第6回ヨセミテ会議に支那問題専門家として加入
尾崎秀実は共産主義者の西園寺公一(さいおんじきんかず)と船で親友になる。
[太平洋問題調査会]
国際金融資本・国際共産主義者の集まりで日本を日米戦に追い込む組織。
尾崎とゾルゲはこの頃から陸軍関係者(武藤章など)と親しく積極的に工作を仕掛けていた。
武藤は昭和14年9月陸軍省の最重要ポストである軍務局長へ。
武藤(騙されて)は陸軍内にゾルゲに情報提供を命じる
日本事情をゾルゲに伝えるため朝日新聞経由で尾崎を付き人へ(裏と表でつながる)
ゾルゲはナチスの通信員という立場。
昭和11年12月尾崎は雑誌【中央公論】を発表。
スターリンは蒋介石の暗殺を望んでない
蔣介石の生存や抗日統一民族戦線(打倒日本で国民党と共産党が統一)の誕生
西安事件のことを正確に予測
予測的中で支那分析家として高評価。
【中央公論後の尾崎】
雑誌の座談会で共産主義者の風見章とよく面会
昭和12年4月近衛文麿の昭和研究会に参加
昭和研究会の支那問題研究会(3年尾崎の指導下)会長に就任
昭和研究会の中心人物になる
昭和14年6月尾崎は満鉄東京支社調査部に嘱託として就任。
近衛文麿に認められる
[満鉄東京支社調査部]
関東軍(満洲国)の情報部という位置付けでほとんどが共産主義者・左翼運動家
満鉄東京支社調査部の尾崎はスパイし放題
政治・経済・外交の情報を入手
関東軍・支那軍の情報入手
満鉄のすべての情報入手
昭和14年秋近衛文麿の軽井沢の別荘【草亭】で交流会。
メンバー
近衛文麿
西園寺公一
尾崎秀実
牛場友彦
松本重治
蠟山政道など
【交流会のテーマ】
日本の政治は一体どういう形でなされるべきか
尾崎は友人に話した内容から第二次近衛内閣を確信し利用した
今の貧弱な政治理念ではやがて投げ出す
結局は切り札は近衛だよ
東亜新秩序を社会主義に切り替える
ソ連・中共とはもちろん連携
近衛が成し遂げるとは思っていない
近衛は次政権のはしごにすぎない
尾崎秀実と風見章は親密な関係
昭和14年正月第一次近衛内閣総辞職直前の出来事。
風見章の4千円(現在価値2千万円)の支援で【支那研究室】を設立。
昭和14年4月尾崎は神皇正統記を書いたという小田城を見学旅行。
メンバー
尾崎秀実
近衛文麿
西園寺公一(さいおんじきんかず)
牛場友彦など
昭和16年8月尾崎は対ソ動員を調査。
「尾崎が目的を達成できるように」
風見章は尾崎秀実を励まし内閣書記官長となってからは大変支援。
風見章と尾崎秀実は革命という志同じ仲間
昭和15年日華基本条約の原本などをゾルゲに流す。
昭和16年2月荻窪(おぎくぼ)の近衞邸宅「荻外荘(てきがいそう)」で固定メンバーで交流会。
テーマは対米問題と支那問題。
ゾルゲ事件と尾崎秀実の言葉と証言
昭和16年10月15日尾崎秀実次の罪状で逮捕。
治安維持法違反(スパイ法)
国防安保違反
軍機保護法違反
軍用資源保護法違反
18日にはゾルゲ逮捕。
昭和19年11月7日尾崎秀実・ゾルゲともに死刑。
【尾崎秀実の残した言葉】
天皇が軍・財閥・地主を持つ社会制度(天皇制)の解体で天皇の存在自体は許される。
各国で共産革命が達成し計画経済になれば平和な人類社会に変貌する。
【尾崎の証言】
近衛はソ連が嫌い
近衛は対英米戦よりも対ソ連戦を選ぶ
風見章については無能とののしっていた
陸軍の名前は出てこない
尾崎は最後まで陸軍に責任を押し付けようとした。
そして風見章のことは守り抜く。
陸軍のことは書かれていませんでした。
おそらく陸軍によって抹消をされている。
ゾルゲ事件の関係書類が持ち去られた
尾崎秀実の弟【尾崎秀樹(ほつき)】は仲間たちと組織結成。
尾崎・ゾルゲ事件真相究明会
尾崎伝編纂委員会(へんさんいいんかい)
しかし日本共産党に妨害。
尾崎秀樹「関係書類を持ち去られた。」と証言。
近衛文麿と尾崎秀実の関係は親しい間柄
近衛文麿と風見章からの信頼は厚く以後ゾルゲ・尾崎を通じてソ連に筒抜け。
昭和12年11月から朝飯会にも参加
昭和13年7月尾崎は朝日新聞を退社。
風見章・牛場友彦の紹介で第一次近衛内閣の嘱託就任
【近衛内閣嘱託での尾崎の役割】
支那事変処理
遂行についての調査報告
国民再組織問題
尾崎は首相官邸へ毎日出勤し機密情報と接触。
情報はソ連・中国共産党に毎日流出。
【首相官邸に出入りしていた人物】
尾崎秀実
近衛文隆(文麿の息子)
松本重治
首相官邸出入だけでなく近衛文麿の那須の別荘に呼ばれ文麿と交流を深める
尾崎に【提携先にドイツと英米どちらが正しいか?】と質問し研究を依頼。
近衛文麿は尾崎秀実の志と才能を利用
昭和16年11月に尾崎逮捕後助けることはしない。
戦争責任回避のため尾崎がいると不都合(近衛の戦争革命に加担がばれる)。
尾崎秀実はほとんどの情報源をおさえている
朝飯会
昭和研究会
満鉄調査部
朝日新聞社
同盟通信社
陸軍将校
陸軍記者倶楽部
企画院
国際共産主義者
尾崎秀実の役割は歴史的役割と狙い
扇動者
中国の共産化
日本の共産化するための環境整備
ソ連防衛
支那事変を利用する
蔣介石政権と日本を疲弊させる
日本を日米戦に追い込む