見出し画像

週末はいつも山小屋にいます#4前編 【船形山/山頂避難小屋】

「今年も船形山に登るのか」
 登山用品店「ビヴァーク」のマスターがコーヒーを差し出しながら私に訊いた。
 3月11日のことを言っているのだとすぐに分かった。
「そうですね。実はこの前、氷上山に登ってきたんです」
「ああ、陸前高田の海が見えるからか」
「そうです。でも、やっぱりそこに有希がいるようには思えないんです」
 私は受け取ったコーヒーを一口すすった。
「船形山は二人の思い出の山だもんな」
 マスターがにやりと笑う。私もつられて笑った。
 ここは有希が子供の頃から父親に連れられて通っている店で、マスターは有希の父親の後輩にあたる。有希の父親も登山家だった。

 私が登山を始めたのは三十六歳の時。その頃、私は特に趣味と呼べるものがなかった。システムエンジニアという仕事が面白かったのもあるが、多少仕事にも余裕ができてきて、そろそろ何か趣味を持ちたいと思って始めたのが登山だった。登山なら一生遊べるのではないかと思ったのだ。

 私は早速、量販店でセールになっていた登山靴を買い、仙台市民の憩いの山といわれる泉ヶ岳に登った。無事に登頂し、登山の苦しさと爽快さを知った。これなら続けていける、そう思った。しかし問題は下山だった。
 靴が合わなかったのか、両足の小指が擦れて痛かった。さらにかかとにも靴ずれができてきた。
 岩に腰掛け、登山靴と靴下を脱いでみると、どちらも皮がむけていた。絆創膏も何も持って来なかったことを後悔しているところに、通りかかったのが有希だった。
 彼女はすぐにザックから絆創膏とテープを出して、患部をしっかりと保護してくれた。
「靴が合わないんですね。サイズが合っても足の形が合わないということもありますから」
 もし買い替えるならここに行ってみると良いですよと言って、彼女が教えてくれたのが、この登山用品店「ビヴァーク」だった。
「有希に聞いてきたって言ってもらえれば、少しは安くしてくれるかも。フフ。それじゃ」
 そう言い残して有希は小走りのようなペースで登って行った。スラッと伸びた足が印象的だった。

 翌日、私は仕事を早めに切り上げ、言われた通りにこの店にやってきた。さらに言われた通りに有希の名前を出すと、入り口のドアに取り付けた鈴が鳴り、有希が入ってきたのだ。
「あ」
 お互いにそう言って顔を見合わせた。
 私はマスターに登山靴の説明を受けながら、何足も履かせてもらい、これならという一足を買った。そしてマスターの出してくれたコーヒーを飲みながら、私たちは山の話をした。と言っても、登山を始めたばかりの私は、知らない世界の話に相槌をうつだけだったが。

 それから私はどこかの山に登ると、必ずこの店に顔を出した。そしていつものように有希に会うことができた。
 私が登ってきた山の話をすると、マスターと有希が、
「それじゃ、次はここに登ってみたら?」
と、次の山を勧めてくれる。そして登って、また報告に来る。それが私の生活のパターンになっていった。
 そして秋も深まってきたある日、私は有希に登山に誘われた。
「そろそろ船形山のブナの森が黄色く染まる頃なんですよ。一緒に行きませんか?」
 少し戸惑う私に、マスターはニヤッとしながら言った。
「行ってくると良いよ。だけど、有希ちゃんについていけるかな?」

 その週末、有希に指定された升沢コースの登山口、旗坂野営場で待ち合わせた。
 船形山は広大なブナの森が広がる山で、山形県側からは「御所山」とも呼ばれて信仰の対象になっている。深い山域は地元の登山者にも人気が高い。
 登山道はやや急な登り坂で始まり、ゆっくり行きましょうと言うわりには、先を歩く有希の足取りは軽く、私との差は少しずつ開いていった。そして20mくらい離れると有希が立ち止まって待っていて、私が追いつくという繰り返し。
 有希の歩き方は、急いでいるわけでもなく、むしろゆっくりと歩いているように見えるのだが、軽やかで重力を感じさせない。不思議だった。
 そして有希は常に楽しそうだった。うっすらと笑顔を見せながら歩いていた。
「ほら、この辺からもうだいぶ黄葉してる」
 私は有希に追いついて玉のような汗を拭いながら、あたりのブナの森を見渡した。秋が深まって黄色くなった葉っぱは、太陽の光を通して輝いていた。
 微かな風に揺れるブナの葉、生命力を感じる太い幹、森が生きていることを全身で感じ取ることができた。
 有希は目を閉じて、大きく両腕を伸ばしながら深呼吸をした。
「んー、気持ち良い。ブナの森って大好き」
 私は有希のその横顔を眺めながら、なんとも言えない幸福感に包まれた。
 何度も有希を待たせながら、昼過ぎになってようやく私たちは登頂した。秋晴れの下、どこまでも山々が見渡せた。
「あれが蔵王、手前が雁戸山、大東岳。あっちの奥が朝日連峰で、あの大きいのが月山ね。あ、鳥海山も見える。そして北の方が神室連峰、虎毛山、そして栗駒山」
 頂上から見える山を、ひとつずつ私に教えてくれる有希。私は頷きながら、山と有希の顔を交互に眺めた。少し紅潮した頬に流れる汗が綺麗だった。

 それから私たちは一緒に山に登るようになった。
 秋の深まった蔵王や月山という名山、大東岳、神室岳という仙台近郊の山々。その間、私たちはお互いのことを話した。仕事のこと、子供の頃のこと、友達のこと、そして有希の父親が二年前に五十八歳の若さで亡くなったこと。
 子供の頃の有希は、登山家だった父親に、毎週のように山に連れて行かれていた。中学、高校は部活動で忙しく、一緒に登ることはなくなっていたが、社会人になってから、また一緒に登るようになったという。
「その頃からね、本当に山が面白くなったのは」
 その後、有希は山にのめり込み、地元でも厳しいことで知られる山岳会に入会。クライミングや沢登りなどにもチャレンジしていた。
 そんな充実した山行を重ねている時、父親が癌に冒されていることがわかった。
 闘病中、一度だけ一緒に船形山に登ったという。
「父はやっとの思いで登ったんだけどね、喜んでた。だから、特別なのよね、船形山は」
 それから数ヶ月後、有希の父親は息を引き取った。
 その後、有希の足は山に向かなくなってしまった。山岳会も辞めた。山に登った後に、父親に報告するのが楽しみで登っていた、そう気がついてしまったのだ。
「俺も心配してさ、何度も山に誘ったんだけど、ダメだったね」
 その頃を思い出して、ビヴァークのマスターは言う。
「それがさ、しばらくぶりに店に顔を出したんだよね。マスター、これから泉ヶ岳に登ってくるって」
 この話になると、有希は「なんでだろうね」と言って笑ったが、そこで私は有希と出会うことができたのだ。

 2023年3月11日早朝。私は残雪の船形山、升沢コースの登山口に車を止めた。高気圧に包まれ、空は晴れ渡っていた。昨日の夜に降ったらしい新雪が、薄っすらと古い雪の層を覆っている。
 私はパスケースに入れた有希の写真を確認して、ザックのポケットに入れた。
 そしてスノーシューを履いて、しっかりとベルトを締める。このスノーシューで、どれだけ有希と雪山に登っただろうか。
 有希を思い出しながら歩く。このスノーシューもだいぶくたびれてきたが、不具合が出るとビヴァークのマスターがしっかりと直してくれる。いつまでもこの相棒と歩きたい。
 太いブナが立ち並ぶ雪の中を登る。時々、頭上から風に吹かれて昨日降った新雪が舞う。それが太陽の光を反射して、キラキラと宝石のように光る。
 こんな世界があるなんて、登山を始めるまでは考えもしなかった。

「なに言ってるんですか、雪のシーズンこそ山登りですよ」
 一緒に山に登り始めたのが秋だったので、私は冬が来るのが残念だった。雪が降れば山登りはできない。有希に会えなくなる。そんなことを考えていた時、有希がそう言ったのだ。
 雪山に登るなんて、かなりの上級者がすることだと思っていたが、有希に言われるままにこのスノーシューを買い、私が最初に登った山、泉ヶ岳に登った。
 真っ白な世界は想像以上に美しく、新雪を踏み締める感触が楽しかった。ラッセルをしながら登るのは体力的にキツかったが、頂上には想像以上の絶景が待っていた。
 足元から続く雪原の先に、冬の澄んだ空気で浮かび上がった仙台市街、そしてその向こうの太平洋には、くっきりと行き交う船が見える。
「ね、雪がない時と全然違うでしょ」
 有希はまるで自分の手柄を自慢するかのような顔で言った。
 それから私たちは、冬の間も一緒に山に登った。蔵王の真っ白になったお釜を眺めた時は信じられない思いだった。まさか自分の足で、この雪の中を、ここまで来ることができるなんて。

 そして年が明けてニ月の最後の日曜日。
「見せたいものがあるの」
 それが何かを言わずに、有希は私を雪の船形山に誘った。
 先頭を交代しながら、スネの半分くらいまで雪に埋まりながら頂上を目指した。それはかなりの運動量で、私はすぐに息が上がって立ち止まった。
「焦らないで大丈夫。ゆっくり行きましょう。時間はあるから」
 有希にそう励まされながら、一歩一歩雪を踏み締めていく。樹林帯が終わり、広い雪原になると、頂上の小屋が見えた。
「あれよ、あれが見せたかったの」
 そう言うと、有希がスピードを上げた。私は息を荒げながら後を追った。
「ほら、これよ。お菓子の家みたいでしょ」
 有希の指差すところには、秋に登った時に見た船形山山頂避難小屋があった。しかしその様子は、厳しい東北の冬の1500mの世界で一変していた。
 四方に付いた雪が固まり、さらにその上に何層もの雪が固まるといった具合で、小屋はモコモコとした雪の塊で覆われていて、それはまさにお菓子の家だった。
 私たちは小屋に入って、緑色の薪ストーブに火をつけた。パチパチと薪がはぜる音が聞こえてくると、ようやく小屋の空気が暖まり始めた。
 有希と並んで薪ストーブの中の炎を眺める。時々開けて、薪をひっくり返す。
 今しかない。でもこの一言を口にしたことで、私たちの関係は終わるかもしれない。もう一緒に山に登ることはできなくなる。それでも私は、もうこのままではいられない。大きくなる鼓動が有希に伝わってはいないか。
 私は冷静を装いながら、体ごと有希の方に向けて、意を決して口を開けた。
「好きです、付き合ってほしい」
 ほんの3秒くらいだったと思う。だけどその3秒がひどく長く感じられた。
 有希は薪ストーブを眺めていた時と同じ笑顔のまま、しかし少し拗ねるような口調で言った。
「もう、遅いんだから」
「え?」
「もっと早く言ってくれると思ってた」
 そう言うと有希は目を閉じた。
 私は、そっと有希の唇に自分の唇を重ねた。
 外では雲が流れて、青空が顔をのぞかせていた。

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?