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少年と月 著:ユキヒロ

分厚い雲で覆われている灰色の夜空を見上げながら、少年は問いかけました。
「ねぇ、今日はどこへ行ってしまったの?」

この街には年の暮れになると長い長い雨季が訪れます。
それまでの晴れ続きが嘘のように雨の日が続くのです。
少年の名はハミルといいます。
ハミルはひとつ前の雨季が過ぎ去ってからこの街で暮らしはじめたため、雨季を経験するのは初めてでした。

ハミルが探しているのは夜空に浮かぶ1つの月です。
ここで暮らすようになってひと月が経とうとしていた頃、ハミルはその月と出会ったのでした。

「なんて悲しそうな顔をしているんだ」
ハミルは部屋の窓に寄りかかりながら夜空に浮かぶ月を眺めて、自然とそう呟いていました。
するとどこからともなく声が聴こえてきたのです。
(悲しそうな顔に見えるかい?)
ハミルは予想もしていなかった出来事に動揺を隠せません。
「月が話した...」
(誰が月は話さないと言った?)
「だって月は月じゃないか」
(そう。月は月さ。私は月さ。けど話す)
「わかったよ。月は話す。それでいいだろ?」
ハミルは半ば投げやりにそう言いました。
(ああ、それでいい。それで、私の質問に対する答えは?)
「質問?」
(そうさ。私が悲しそうな顔に見えるかい?)
「あぁそのことか。うん。見えるよ。とても悲しそうだ」
(そうか。ねぇ、私と話をしないかい?何でもいい。私は君と話をしたいのさ)
「別にいいよ。けど、何を話せばいい?」
(何だっていいさ。そうだなー、じゃあまずは君の話をしておくれ)
「僕の名前はハミル......」

その夜から毎晩ハミルは月と話をするようになりました。
ハミルの話、月の話、街の話。
色んな話をしました。
ある日の晩はこんな話を。

「ねぇ、月。聞いておくれ。僕には僕がよくわからないんだ」
(よくわからない?)
「そうさ。僕は産まれてからずっと僕がわからない。心が空っぽなんだ」
(心が空っぽ?)
「そうさ。僕には僕が何が好きで何が嫌いで何がしたいのか全くわからない」
(君は毎日働いているじゃないか)
「うん。けど僕は働いているだけなんだ。働きたいかはわからない」
(君は何がしたいんだい?)
「わからない。きっとわからないままなんだ」
(わからないのはいけないことなのかい?)
「わからない。けど最近わかりたいって思うんだ。何故だろう月と話しているとそう思うんだ」

そしてある日の晩はこんな話を。

「今日はすごく良いことがあったんだ」
(へぇ。どんなことがあったんだい?)
「街で素敵な歌を耳にしたんだ」
(それは良かった)
「とても素敵な歌声だったなー。とてもキレイな人だったんだ。ブロンドのショートボブで耳に蝶々のピアスをしていて。あぁ、名前はなんだろう」
(へぇ。君はそうやって目を輝かせるんだね)
「目を輝かせる?」
(そうさ。今君はものすごく良い顔をしているよ。君はその人に恋をしちゃったのさ)
「恋?このワクワクするような弾む気持ちが恋なの?」
(そうさ。人は恋をしてそして愛を知る。人は愛を知る前から愛を持っているのさ。愛には色んな愛がある。恋をして知る愛もあれば、育くむ愛もある。他人から急に与えられる愛もある。知らないうちに君が誰かに愛を渡していることだってあるのさ)
「愛。よくわからないけど、僕が誰かに何かを与えることができるなら。それが愛というものだったらいいなと思うよ」

この街が雨季に入る前の晩、ハミルと月はこんな話をしていました。

「ねぇ、月。君は昼の間何をしているの?」
(私は月さ。月はずっと月をしているのさ)
「けど僕には君の姿が見えない」
(そりゃあそうさ。昼の間は太陽が元気に働いているからね)
「その間月はどこにいるの?」
(私はずっとここにいるのさ。いいかい君。君に見えているものが君の世界さ。けどそれが世界の全てではないのさ。君が見ていないところで君への想いが育まれていることもあるのさ。いつかの晩、君が目を輝かせながら蝶々のピアスについて私に話していたようにね)
「そうだね。けどやっぱり僕は月と話をしたいな。月と会って話をするのが好きなんだ」
(好き。君はもう何が好きなのかを自分でわかるようになったんだね)

そして翌日の晩から雨季が訪れました。
月と話をする夜を失ってから、ハミルの頭の中は月のことばかりになりました。
月のことばかりを考えて何も手につかないほどです。
月はどこへ行ってしまったのだろう。
月は大丈夫なんだろうか。
月に嫌われてしまったのだろうか。
そんなことばかりが頭の中をグルグル駆け巡るのでした。
数週間が経ち、その夜も月と会えないハミルはベッドに入り眠ることにしました。
ベッドの中でハミルは今まで月としてきた数々の話を思い出しました。
ある日の話は心を温かくし、ある日の話は枕を涙で濡らしました。
そしてハミルは気付きました。月に沢山の愛を貰っていたことを。
その翌日、雨季の季節は終わりを告げました。

「やぁ、月。久しぶり」
(やぁ、久しぶり)
「君は月だね」
(そうさ、私は月だ)
「うん。君は月だ。話す月だ。僕に沢山の愛を与えてくれた月だ。そのことにようやく気付くことができたよ。ありがとう」
(私は悲しそうな顔に見えるかい?)
「いいや。とっても晴れやかな顔をしているよ」
(そうだろうね。私の顔は君の顔なんだ。わかるかい?君は今幸せなんだ。悲しそうな顔をしていたあの頃とは違って君は愛に溢れている)
「そうだね。僕は今幸せなんだ。君はあの日僕の悲しそうな顔を見て、話しかけてくれたんだね。それからずっと僕を見守っていてくれたんだね」
(そうさ。けど少し違うのさ)
「少し違う?」
(そうさ。君も私に話してくれた。沢山私に話をしてくれた。私と会えない間私を想っていてくれた。私は月さ。長い長い年月の時を刻む月さ。私だって寂しい時はある。君はそんな私に愛を与えてくれたのさ)
「そうか。僕も愛を与えられたんだね」
(そうさ。君はもう愛を知って自分を知っている。自分が何をしたいかも知っているのさ)

「ねぇ、月。たぶん今日が最後なんだね?」
(そうさ。今日が最後さ)
「うん。今日が最後だ」
(寂しいかい?)
「うん。寂しいよ。月は寂しいかい?」
(寂しいさ。けど嬉しくもあるのさ)
「嬉しい?」
(そうさ。あの頃の君とは違う今の君が、これから何を想い何を選び何を愛していくのか。それをこれから見守るのがすごく楽しみなのさ)
「そうだね、月。僕は僕がしたいことを知っている。僕は僕の好きな人を知っている。僕は僕としてこれからも生きていくんだ。月、本当にありがとう。僕と話してくれてありがとう。僕に寄り添ってくれてありがとう。僕を愛してくれてありがとう」

その返事はありませんでした。
ハミルの見上げる夜空には、まん丸とした月が大きく輝いています。
しばらくの間ハミルはその月をじっと眺めました。
涙で濡れた頬をそっと押さえながら、ハミルは笑顔で月を眺めていました。
やがて冷たい風を肌で感じると、ハミルは小声で最後の言葉をかけてから窓を閉めてベッドへ歩いていきました。


それから沢山の月日が経ちました。
月は今日も時を刻みます。
嬉しい時も寂しい時も、くるうことなく時を刻みます。

「ねぇ、パパ。あの大きく光っているのは何?」
「あれは月さ。僕がアンナを愛する気持ちを教えてくれた、かけがえのない友達さ」

父親と幼い我が子の会話を微笑みながら見守っているアンナの耳には、青い蝶々のピアスが輝いていました。

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