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伝統文化に関わる人たちは「助けろ」と言う前に、社会に貢献するべきですよね

私は今まで

「伝統工芸の職人を救え!」

とか

「日本の伝統を担う人々を救え!」

という、色々な伝統系業界の内側や関係者からの主張に、伝統工芸に関わる当事者でありながら、どうも違和感を感じていました。

現状を維持するだけでもキビシイキビシイと、いつもグチり倒しているわたくしではありますが「助けてもらうのが当然」のような態度は取った事はありません。それは違うと思うからです。

しかし、違和感は感じるものの、その違和感へ焦点が合っておらず、ハッキリした理由は分かりませんでした。

ところが、先日、工房構成員と話をしていて「あ、コレか?」と発見したのです・・・

単純に、伝統系の人たちは当たり前の事をやっていないだけではないのか?

私が具体的に分かるのは呉服業界の事だけですが、

それは、

【普通の社会人で、自分の仕事に関する事で世の中の人々にサポートして欲しい!と思うなら、まずは、先に自分が社会に貢献するべきなんじゃないの?少なくともその姿勢を見せるべきなんじゃないの?】

【何かを企画してやったとしても、楽屋ウケ的なことしかやっていないから届かないんじゃないの?】

という単純な話が、違和感の正体なのかな?

という事です。

もちろん、いろいろな事情で、やりたくても出来ない事だらけだ・・・という所も無くはないわけですが(それはどの業界でもそうですしね)しかし、業界人たちの多くはいつも「理解の無いだれかのせい」にしているわけです。誰というのは、別に特定はされていないので、誰かのせいにするための誰か、です。

(逆に、消えゆく文化を残そうと頑張る事や、新しい文化を作って行こうとリスクを抱えて突っ走る事で世の中に利益を与えても「でもそんなの、自分たちの好きでやっている事なんだから、苦労があっても自分たちだけで解決しろよ、オレたち関係ないし。オレたちを巻き込むなよ」と利益だけ取られて支援も評価も無し、という環境も同時にありますが、それと今回の話題は微妙に違う事なので、今回はその方向の話はしません)

どうも、伝統系の人たちは、伝統系の事をやっているだけでエライという自己評価がある気がします。

確かに、長い修行期間があり、独立後も生活はほぼ出来ないような業界ですから、そこに属して活動しているだけでもエライだろ、と思う気持ちは分かります。

しかし、その苦労自体は他人の利益と何の関係も無いわけです。

親が子を助けるような「無条件での愛情と支援を受けるのが当然」という態度はあまりにも不遜で、それで何かイヤなニオイを感じ取られてしまう。なぜなら、現状、事実としていわゆる日本の伝統系の文化の殆どが、日常生活に無くても困らないからです。

そんな社会の状態なので

「自分は日本の伝統工芸系の事をやっているのだから、社会から援助してもらうのが当然。それは無くなってはいけないものだからだ」

という不遜な態度が匂ってしまってはいるものの「まあ、伝統的なことをやっているのはエライよね、自分じゃ出来ないしね・・」と、社会の人々からかなり大目に見てもらえているので、直接的な反発を受ける事なくスルーで済んでいる感じでしょうか・・・

伝統工芸系の人たちが、社会に向けて何かやったとしても、キチンとしたものではなく、助成金を消費するための内輪ウケ的なものに終始してたり、昔から存在する一部の人のみに利益が行くような形になっていて、成果どころか、その文化的活動が一般社会の人たちに向けて良い影響を与える事が出来ず、可視化されていない事が多い気がします。

「こいつら面白いから、ずっと観ていたい。だから支援しよう」

と思ってもらえていないのに、伝統だから助けろなんて、それはかなり無理があります。

だから、まずは、小さくても良いから、とにかく社会へ貢献する事、面白い事を社会に提示する事、コイツらがいた方が社会が面白いと思ってもらう、それが始まりなのではないかな、と思います。

実際に社会の役に立つ事をする。

一般社会の人たちは、当たり前に社会に貢献して初めて存在を認めてもらえるわけなのに自分たちが伝統系の事をやっているというだけで助けろ、なんてそんなムシの良い要求をして、それで支援がもらえないと「文化を分かってないヤツラ」と蔑む、そんな伝統の界隈の人たちが胡散臭いと思われるのは当然なわけです。

で、実際にアクションを起こして頑張って、どうやっても社会に貢献する事が出来なくなったらそれはその文化の寿命が来たという事だから仕方がないという事になります。

それと、これだけ壊滅的に縮小傾向だと

「その界隈全てを助けろ」というアバウトな主張は、その界隈に詳しくない一般社会の人たちからすれば「具体的にどうすれば支援になるのかが分からない」わけだから現代は「面白い個人へ支援するスタイル」になるのが自然だと思います。

もちろん、商業との親和性が小さい分野の文化的な事や科学の事で、先端の事をやる場合は、最初から社会に貢献する事はむづかしい。そういう基礎研究には支援が必要だと思いますが、それだってキチンとしたプレゼンがあって、初めて予算が組まれるわけです。

昔ながらの事を今まで通りやり続けているだけで伝統だから助けろなんて、しかも、内輪ウケ的な事ばかりで一般社会の人々に教えてやる的な上から目線の態度では「ああ、それは大変ですね、その伝統は残すべきですね」と言ってくれても実際の支援のアクションは起こしてもらえないのは当然ではないかと思います。

まだ、楽屋ウケの楽屋に集まっている人の数が、それなりにいる状態では、規模が小さくてもそれなりに回りますが、それを下回ると、もう手のつけられない程に急速に消えて行く方向になるのでしょうね。

私のような底辺だと、コツコツと自分の毎日を正直にSNSなどで紹介して行くぐらいの事しか出来ないのですが・・・それでもネットの時代によって、小さい声も多少、社会に届くようになったのですから、本当にありがたい事です。

それと、一見良さそうなイベントをやっても、現実的にその伝統系の業界の未来へのためにならず、個人的な利益誘導で終わってしまうものも散見されますし、例えば「あの、クラウドファウンディングで資金を集めたイベントって、結局どうなったの?」とか「助成金をじゃぶじゃぶ使って、結局あそこだけが潤っているだけじゃないの?」なんて状態だと良くありません。

まあ、だからといって、私のような者には何かを大きく動かす力はありませんから、自分に出来る事をコツコツやって行くしかないので、そうして行く所存であります。

ただ、作り手がアクションを起こすのはリスクもあります。

例えば、誰かが「どう考えても業界の未来を見据えれば変えなければならない事」を変えようとすると、旧体制、あるいは「普段は、私たちは変わらなければならない」と言っている人で、中身は全く旧体制な人たちからの総攻撃を浴びて潰されます。

かといって、そういう人たちが業界の殆どを牛耳っていて、かつ、市場そのものがそこに押さえられている場合は「他に良いものを打ち立てて誘導しようにも不可能」という事になります。

まあ、そうなると、上に書いたような「文化の賞味期限」によってその文化は寿命、というのではなく「中の人たちの腐敗によって伝承不可能になり、消える」という事なわけですが、いつも思い知るのは「人は過去を向いて後ろ向きに歩いている」という事です。


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