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私は子供の頃から、美術団体の展示会や展示物が苦手で、それは大人になっても変わりませんでした

・・・はい。

私は、小学生の低学年の頃から、いわゆる芸術分野や工芸分野のものに興味があったので、HNKの美術番組や日曜美術館、その他テレビで芸術家の生涯の番組があると良く観ておりました。

そこでは色々な美術団体が「大正義」で、そこに入選する事が社会に作家として認められる第一条件である、という風に扱われておりました。

身の周りに美術関係者や詳しい人のいない子供の頃の私は、とりあえず何でもメディアで観たものを信じるしか無いので、そういうもんなんだ、なんだか油絵で日展というのに入選する事はドエライ事らしい、と信じておりました。実際、そういう事だったようですし。

で、中学生になり、ある程度ひとりで電車に乗って博物館や美術館なんかに行けるようになると・・・中学生は特に公共美術施設は無料!の事が多いですから割と頻繁にそういう所に出かけておりました。高校になると、水道橋が最寄り駅だったので、神田の古本屋街は近いので良く行きました。少し足を伸ばして、竹橋の近代美術館、銀座の画廊などを徒歩でぐるぐる歩くのです。お金の無い高校生ですからね。

上野の東京国立博物館や東京都美術館などにも、もちろん行きます。シーズンになると「〇〇展」といういわゆる美術団体の展示会が沢山開催されますので、そういうものも観るのです。

それらを観ると、どうもテレビで解説されていた「とても高度かつ現代的な作品が飾ってある」・・・はずの「〇〇展」の展示品や、その雰囲気が「うーん、なんか違う・・・」という感想を持ってしまうのです。高度な芸術家の作品というよりは、お稽古臭がするというか・・・

例えば「伝統〇〇」や「民藝系」の団体展の出品作品が、東博や民藝館の収蔵物と“質”が違う。根っこが同じで現代性がある、というのではなく、私には「別物」に観えたのです。戸惑いました。「え?なんか、言ってる事とやっている事が違いますよね?」と少年の私は感じたわけです。

なんだか、縦に(伝統に)繋がっていないのに横方向に(人間関係によって)似たような作品ばかりで、お師匠さんの作品と弟子の作品が殆ど同じなものが多い・・・師匠と同じフォーマットを使うけども、違うキャラクターが色濃く出ているのなら分かりますが、違うテーマの作品を作っていても、手法や方向性が同じ過ぎる。とにかく、師匠の模倣な感じです。それがまるで創作上の良心かのように。

職人仕事の面が強い分野の発表会ならそれも理解出来ますが、団体展の作品は、創作的オリジナリティを重視する芸術家や工芸作家である事、そこを評価するらしい・・・うーん?でもそうなってないですよね?と、やっぱり矛盾を感じるのです。

それに、なんだ?この独特のこもった感じ・・・「この範囲の個性は許可するけども、これから外れるのは許さなれない!」という感じです。なんだか、校則の厳しい学校みたい。こういうのじゃないと「この場」ではダメなの?とにかく、あの独特の「厳しい校則に真面目に従っている優良生徒感」に強い違和感を持ちました。(もちろん、当時はこのように明快に言葉には出来ませんでしたが)

「オレの才能や勉強が足りないから良いところが分からないのかな?じゃあやっぱり、オレには才能が無いんだなあ・・・」と思ったりもしましたが、やっぱり納得行かないのです。「言ってる事とやっている事が違う」・・・そうは思っても、美術関係を学ぶ場も知り合いも無い少年の私は、とりあえず一応、そういう物を理解出来るように勉強、研究を続けました。

中学3年から高校生ぐらいになると、自分で絵を描いて小さい公募展などに出したりもしましたが、そこで入選ぐらいはしている自分の絵が飾られているのを観て、全体を見回すとやっぱり「何か違うなあ・・・」と違和感が湧きます。

そういう公募展は、なぜか審査員として名を連ねている先生も出品していて、その審査員さんたちが主たる賞を受賞しているのを見ると「これは審査員同士で賞を与え合っているんだろうなあ」と思いましたし、その先生がたの画塾の生徒さんたちが主に入選以上の賞を受賞しているのは、大人の事情があるのね、と当時何も知らずにただ絵を描いていた私にも分かるわけです。そういえば、習字の先生が審査員で呼ばれて行っても、この人とこの人に入れて下さいっていうメモが回ってきてその人たちに入れるのよ(笑)なんて言ってたなあと思い出したり。

私は、都立工芸高校デザイン科を出て、そのまま就職したので(その後色々な職業を経験します)社会人経験が大卒の人たちよりも長いわけですから、そんなこんなで23歳ぐらいにはもう、そういう「〇〇展」のようなものには完全に興味を失いました。もちろん、美術団体に所属はしていても個人単位では素晴らしい仕事をされている人がいらっしゃいますから、そのような個人には尊敬を持っていましたし、今も尊敬しております。

とにかく、私は青年の頃にはもう、ああ、オレにはああいうの絶対に無理、日本の創作を知りたいなら、東京なら東京国立博物館があるじゃん、民藝系なら民藝館があるじゃん、それに最先端のものなら実際に社会の経済という荒波を泳いでいるあらゆる創作品があるじゃん、という結論になりました。日本には、そういう素晴らしいものが沢山あるのだから、どこかの誰かに翻訳してもらって教えてもらう必要は無い。自分で直接観て学べば良いじゃん、と思ったのですね。

子供の頃から、世の中で権威とされている芸術作品や美術工芸に、何となく感じていた違和感は大人になっても違和感のままであり、大人の事情などの面を考えても、やっぱり自分は「その部分で、自分に嘘は付けないなあ」と思ったわけです。

私は自分が好きな創作をいつもするために創作を生業にしたいと思いました・・・結局したわけですが、なのに「どうして実際にリスクを背負って何処の馬の骨とも知れぬ私の作品を購入して下さるお客さまではなく、別に審美眼があるとは思えない審査する人に気に入ってもらうために自分の創作を彼らに合わせなければならぬのか?」そこが、本当に無理でした。

それは私にとっては時間と労力とお金の無駄ですし、何より創作に変なクセや色が付く危険があります(←これは実はとても重要な事です)実際、新規参入で生業にするには「出品用の作品」を制作する経済的余裕は無いのです。創作する事しか収入源の無い、かつ無名の人間にとっては、作品はすべて売り物です。それを全て売り尽くしても生活はどうにか出来る程度なのですから。

いわゆる美術団体系の作品で、工芸の分野で言えば、時代遅れで、奇形的に技術だけが浮き出ているような作品や、逆に工芸“作家”という事で職人技術がないがしろにされている工芸作品など、それらは団体の方向性によって変わりますが、そういうものの価値観が私には全然分からないのです。どうして日本の伝統を謳いながら、デザインやアート分野では30〜50年前に流行った古臭くなったものを態々チョイスしたようにすら思える古臭い図案の作品を毎年毎年作り続けているのか、さらに、師匠のそれを模倣した弟子の作品の数々・・・それは結局、それ以外のものを作ると入選出来ないから・・・だから昭和30年代の入選作の図録と、令和の入選作の図録の内容に違いが無いように観えるのです。昭和時代に流行った価値観に中途半端に固定されたままなのに「日本の伝統をやっているとし、創作としての工芸を主張している」のに非常に矛盾を感じました。

私は若い頃から自分の人生をそのような事に費やすつもりはありませんでした。

私は高校を卒業してから、大手のファッションメーカーに就職し、紳士靴下部門のデザイン室に配属されましたが、その会社の方針やデザイン室長のセンスや日常の創作的な姿勢が、私には全く理解出来ませんでした。私自身に、全くキャリアも実績も無いのに、そこは譲れないのです。耐えられない。ですから半年でその会社を辞めてしまいました。会社の方々や推薦で入れてくれた学校には申し訳無いと思っておりましたが、どうしても耐えられなかったですね。全く迷惑なガキです。

ですから、創作する人として独立したばかりの若い頃、お客さまから「〇〇展とかチャレンジしないの?」とか言われると苦笑するしかありませんでした。「チャレンジってなんだよ?」・・・また、お客さまのなかでもそのような美術団体に所属する作家さんだったりする事もあり、色々話をした後に「わたくし、〇〇展の会員ですの。△△先生に習っておりまして」などと言われたり・・・彼らはマウントを取ろうとしてそんな振る舞いをするわけですが、私はそこで「はい・・・?そうなんですか・・・いえ、私はその先生の事を存じておりません・・・すみません」「△△先生を知らないなんて!呆」という感じで全く興味を示さないでいると、私は失望されて相手にされなくなるので、助かりました。

世の中においては、権威は大きな信用です。しかし、それは本質の品質を約束しません。なぜなら人は、信じたい幻想を作り出し、共有する事で連帯する特性がありますから、その権威は、本質的な良し悪しとは関係が無いのです。

ですから、そのような権威を得たい人がそうする事に、私は全く批判はありません。人間は社会的動物ですから、そのような方向に行く事が必要な人もおります。それは悪い事ではありません。私は弟子に、自分が必要と思うならそういうものを得る努力をしろ、と言っております。

こういう姿勢だと「オマエは〇〇展に入選する実力が無いから、そういう負け犬の遠吠えのような事をほざくのだ」と言う人もおりますが、私はそういう人には

「あなたは、あなたの事を全く知らない土地に行き、作品の力と自分の人間力だけで20万とか100万円の布を売る事が出来ますか?私は最初からそうで、今もそうですが・・・」

と言いますが、それに反論出来る人はいません。

私には、学歴も修行歴も所属も受賞歴も無いのですから。

もちろん、認めない自由はありますから、それでも認めない人や無かった事にする人、罵倒して来る人も多いです。

基本的に、人は作品自体の評価よりも「その人が権威を持っているかどうか」・・・その権威自体が重要であって作品はどうでも良いのです。権威と近づき自分の社会的立場が優位になる事が第一優先事項です。自分の感覚と頭で作品を観る人は少ないものです。これは美術・工芸系の業界人であっても同じです。

人間は社会的動物ですから、そのような人が殆どなのは当然で、だからといってそういう人たちが劣っているわけではないのですが、創作面・文化面としては残念な事です。

そして、そういう人ほど、自分は権威など関係無く、物事を正しく観る人間なのだ、と主張しますし、純粋な芸術というものがあると主張します。

ともかく、作品を売って食って行こうとする場合にそのような美術団体の会員にならなくてもやって行けない事はないと、若い人たちに知ってもらいたいですね。その団体の哲学に全面的に同意している、その団体にいる師匠に心酔しているなどの事情があるならともかく、所属があると自由な作品を作りにくいですし、その団体独自のクセがどうしても自作に入り込んで来ますし、社会から「〇〇会の人」という色眼鏡で観られる事になります。何よりも自由な発言が出来なくなりますから、自分の創作人生にとっての優先順位を良く観察すると良いかと思います。


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