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不安はおまじない

杞憂という言葉がある。
昔々の中国で、「杞」の国の人が「空が崩れ落ちてくるのでは」と非常に恐れ「憂」いたことから「そんなことありえな~い」の意味として生まれた言葉だ。

この「杞憂」のエピソード、どうも他人事とは思えない。

先日、幼い頃から「お気に入りのぬいぐるみの首が取れたらどうしよう」などと先のことを考えては恐怖する子供だったことをnoteに書いた。

私には、いつか必ず起こるが今ではない(かもしれない)ことを随分前から恐れ憂う思考回路が埋め込まれている。
何故そうなったのか、今回は詳しく分析できないが、叱られずいい子に、平穏無事に過ごすために、起きてはまずいこと、起こしてはまずいことを自分に叩き込むべく、反芻する癖があったのかもしれない。特に子供の頃は経験の積み重ねもないので、過去に照らし合わせて安心することもほとんどなかっただろう。自力では不安が解消できないので、モヤモヤしたものは全て母に打ち明け、心の安定を保とうとしていた。そう、つい最近になるまで。心配性を直そうと本も何冊か読んだ。

20代30代になり、仕事をするようになってから気付いたことがある。
それは、私が「不安だ」「もしこうだったらどうしよう」と強く不安に思うことほどほぼ起こらず、むしろ、全く不安に思っていないことほど一大事として降りかかってくるということだ。(しかもこれは心身ともに疲れている時、PMS期間の時に起こりやすい気がする)
面白いもので、不安で仕方なく事実そうなった時のことはほとんど覚えておらず、不安で仕方なかったが杞憂に終わったことのほうはよく覚えている。
思い出すのは、例えば次のような仕事のシーン。

一本の内線がかかってくる。相手は焦っていて、早口でまくしたててくる。「はい」を5回も連続で言う。申し訳ないが、その余裕のなさがおかしくて笑えてしまい、内線を置く時「ハイハイハイハイハ~イ」と相手の口真似をしながらおどけて電話を切った。

しかし次の瞬間、途端に不安感が襲ってくる。口真似が向こうに聞こえていたのではないかと。「私は真剣だったのに!それを口真似するなんて!」と、相手がオフィスに怒鳴り込んでくるところまで想像する。口から出た言葉はもう取り戻せないと分かっていても、どうしようどうしようの堂々巡り。仕事が終わり帰路についても、夕ご飯を食べても、お風呂に入っても、まだ不安。不安が甘える子猫のようにまとわりついて離れない。翌日、相手と何の変哲もない平穏なやりとりをするまで…
ああ、何事もなかった。やっぱり不安に思っている事ほど起こらない。

不安はある種のおまじない。不安に思えば思うほど、それが起こる確率を下げられる(と思っている)から「不安でなければ不安」の悪循環に陥っていく。

しかし、不安でいることほど疲れるものもない。
快晴の空をどんなに高く飛んでいたとしても、自分で自分を地面へ叩き落さなくてはならない。その落下のエネルギーは相当なものだ。まるで不安のないことが罰であるかのように。

昨日、こんな短歌を詠んだ。

「不安じゃないと不安な君へ」などと上から目線で詠んだが、その実「君」というのは自分自身のことであった。青空はいつもあるとは限らない。曇天のこともあれば雨模様のこともあるだろう。けれど、梅雨明けの空に不安を浮かべた私にとって、8月1日の青空の端っこは、まぎれもなく希望の象徴だった。
翌日の今日、不安は昨日より少しマイルドなものになっている。この不安が的中するのか、それともまた単なる杞憂で終わるのかは、時間が経たないと分からない。分からないから仕方がないと割り切れたらよいのだが、それには私の人生経験がまだまだ足りないようだ。
そんな折、安野モヨコの漫画『鼻下長紳士回顧録』を読み終わった。

漫画の中で見つけた次の一説。

あんたが言うことなんて私とっくに想像したわ だから全く絶望しない

つまり、想像可能なことは絶望につながらない。私が今抱えている不安は、的中するにせよしないにせよ、想像可能な範囲にとどまることだ。
本当に怖いのは、全く想像もできないこと。
私の想像力も大したことはない。そう思う事で、ため息は少し減るだろうか。

今日も空は青い。

🍩食べたい‼️