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推しは「推し」つけるためのものではない

先日、初めて推し(贔屓)のお笑い芸人を生で見たという記事を書いた。

記事の中で「生で推しを見たはずなのに、全くその実感が残らなかった」と書いた。

何故そんなことが起こったのか。
実は、書きながらも理由について思い当たる節はあったのだが、触れることに躊躇いがあった。

日を追うにつれ整理がついてきたので、今回記事にしてみる。

生で推しを見たはずなのに、全くその実感が残らなかった理由。
それは、生で見た推しの漫才のネタが、私の中ではいまひとつに感じられるものだったことにモヤモヤしていたからだと思う。

なお、前述の記事でも少し触れたように、「ネタが面白い芸人は」と聞かれたら(勿論推しにも面白くて好きなネタはいくつかあるが)推し以外の芸人の名前を挙げると思う。
でも「一番好きな芸人は」と聞かれたら、必ず推しの名前を挙げる。

推しの漫才、コント、Youtube、ロケでの振る舞い、容姿・・・
全てをこの世の一番と考えられるのでなければファンとは言えない、という意見もあるのかもしれないが、私の考え方とは異なっている。
この件については誤解を招くかもしれないため、稿を改めることにしよう。

すごい人たちなのに。面白い人たちなのに。
本当はもっとできるはずなのに。
その姿をなぜこの貴重な機会に見せてくれないのだろう。

舞台上にいる生身の推し自身ではなく、その先にあるはずの「もっと面白いはずの完璧な推し」を見ようとしてしまっていた。

当時のこの態度について、今私は大いに反省している。

それに、ちょっと話しは変わるけれど、私が推しに対して「本当はもっとできるはずなのに」と思ってしまった態度は、病気療養から復職して以前よりも小さな部署で細々のんびり働く私のことを、母が私のいないところで「本当はもっと能力があるはずなのに、小さな部署で誰でもできるような仕事をしているみたいで」と言って残念がったという話しと驚くほど共通点が多くて、気付いた時はぞっとしてしまった。

母と同じことはしたくないと常々思っていたのに。

人は、他人の今現在の「ベスト」を、たった一言で「ベストでないもの」にすることができる。

失ったもの、今ここにないものばかりに理想を置いて、現状から目を背けてしまうこと。
それは変化のために必要なエネルギーとなり得るが、時に残酷さをも帯びる。

推しは「推す」ものであって、決して願望を「推し」つけるためのものではない。

一番ひどい言い方をしてしまうなら、推しのネタの良しあしも、進退も、勝ち負けも、喜怒哀楽も、何なら人生も、ファンの思い通りにはならないし所有物にもなりえない。
たまたま生まれた時代が交錯して出会えただけの他人同士。礼は尽くしたい。
確かに、時にはそれ以上のつながりが生まれるものではあるけれど。

目の前で起こることを四季の移ろいのように見守り、できるだけ末永くエールを送る。
もし推しが自分の好みと異なるものを提供してきたら、無理せずそっと離れて、少ししたらまた戻ってきてもいい。
「こんなものが良いなんてみんなおかしい!」とか、逆に「推しの面白さが分からないなんてみんなおかしい!」とか、周囲の直接攻撃にまわるような態度だけは取らないようにしたい。

🍩食べたい‼️