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Yukie Kudo(工藤雪枝)Profile(未だ未完成ですが...徐々に加筆いたします。沢山書くことがあるも面倒くさがりや故)

国際ジャーナリスト、評論家、ノンフィクション作家、元ニュースキャスター、元拓殖大学客員教授、元横浜国立大学非常勤講師 
(1965年3月14日北海道生まれーその後転勤族ーこれまでの所、東京在住が人生の7割。米国ニューヨーク州。ロンドン、パリ、その他全国各地に在住。故に故郷がある方々が羨ましい私は悲しき「根無草」)高校時代に英検一級を全国一位で合格。それ以前にも中学時代から高松宮杯などの英語スピーチコンテストにて入賞。TOEIC960点。塾にも行かず、予備校にも行かずに独学で、米国から帰国して半年で、志望校でもなかったのに(個人的にはコミュニケーション理論を専攻したかったのでそれを提供していた大学たるICUか上智に行きたかったという何を学びたいかで志望校を決めていたわ私。しかし高校教師の「脅迫」的圧力に屈して、東大法学部進学過程に現役合格。防衛庁・防衛省オピニオンリーダー、日本戦略研究フォーラム政策提言委員などを歴任。ロンドンのロンドン大学経済大学院(LSE)にて修士号を取得。フランスの国立高等防衛研究所(IHEDN)を最優秀の成績でDiplomaを得る。)

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趣味は、クラシック音楽、バレエ、オペラ、舞台劇術観賞、サッカー観戦。フィギュアスケート観戦、どれもかれこれ40年にわたる趣味で、世界中のほとんどのクラシックホール及びオペラハウスは訪れている。故に昨今の羽生結弦君とか浅田真央さんとかからフィギュアスケートファンになったりした人々と一線を隠したいという変な自負をなかなか捨てきれない年増女。昨今はそれに貧困女子的要素も加わり、(何故ノーベル賞レベルの経済や金融学を学んでいてこうなったのかは、意味不明。)また幼少期の困った存在に過去回帰しそうになるのを必死でくいとめなければとの思いでNOTEを始めたのです。でもアカウント開設してから最初の記事執筆まで何故か一年!同時並行のアメブロは最新更新は、もうかなり前。そのような何だかやる気とか欲がなさ過ぎる私を変えるためにも、皆様、何卒宜しくお願い申し上げます!

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(上記は私が2歳の頃、幼少期からしばらくの間は、実に情けない子供で、内気で神経質で敏感なるどうしようもない子供。最近の流行り言葉的に言えば「残念なる」出来事多数。恥ずかしいエピソードは多々あるものの、特筆すべき良き点が実に少ない故に割愛(笑)。まあ、上記の写真のようなアホみたいな我、2歳頃の寝顔を観れば、私自身の「困ったちゃん時代」の幼少期は説明不要かもー苦笑。しかし多くの方々におかれて、我が情けなくも実に「残念なる」幼少期を知らず、私は努力しなくとも大丈夫な天才とか、全く事実とは異なる美しき誤解をしてくださる方々も多いので、本当は私においても面白く、珍体験的エピソード多数、披露したくてたまらないのですー笑ーでもその我が人生の裏歴史はまず表歴史をご理解して下さったあとで是非とも披露したいと思います!)

さて、北海道からサケのように流れつつもその後、北海道には戻らず北海道から4歳時に離れ、幼稚園二つ、小学校四つに通い、その後、転勤先で通っていた岡山県立津山高等学校3学年時(私は全く歌を知らないのですが、どうも有名らしいBzの稲葉君とは同級生。そう言ったら、某友人から、「今でも連絡できるならしてみたらいいよ、きっと食事ぐらいおごってくれるんじゃない?」とか言われました。とほほ)1982年、AFS財団プログラム留学生として、米国ニューヨーク州に一年間留学。米国留学中は体育会に所属しながら、数学クラブや学校代表のクイズ番組出演者にも選ばれ、特に数学クラブではニューヨーク州だったか、全米だったかどちらか忘れましたが、個人のトップスコアにて単独優勝。多いに充実した米国生活をエンジョイし帰国したのが1983年7月。元の高校に編入したものの、逆ホームシックみたいに「アメリカに帰りたい〜」とボーッとする無為なる日々を過ごしていたところ、留学前には東大模試を受けても全国二桁内には入っていたのに、なんとなくコミュニケーション学を勉強するために、ずっとICUか上智に行きたかった私。

しかし、帰国後は一時的ですが、漢字も忘れ、日本語も忘れ、一時的に成績が下がった私に対して(本当に17歳で一年日本語喋らないとそうなります)担任教師の「工藤が東大法学部にいかなければ今後わが高校から留学生は出さないと職員会議で決まった」との「強迫的」圧力に屈し、後輩においての有意義なる機会を潰してはならぬと決意するに至る。しばらく会えなかった我が母が懐かしさ故に絡まってくるのを排除すべく高校の正門から歩いて30秒の場所の離れに下宿し、半年間の勉強で、1984年東京大学文科一類(法学部進学コース)に現役合格し日米二つの高校を卒業。しかし、その下宿期間に、2月ぐらいには全国の東大模試でも一桁二桁成績に戻っていたので、以前から開催されていた真面目なる「朝まで生テレビ!」ではなく「朝まで哲学論議!」という勉強には関係ないような、しかし真面目なる哲学勉強会を頻繁に私が下宿組連中の幹事として主宰した結果、自分は一応東大文科一類に現役合格するも、哲学会のせいで、多くの友人たちが浪人するハメになったかもと少々反省しています。

米国の留学先高校の卒論は「真珠湾の実相と、原爆投下の真実の理由」。いかにも海外で闘ってきたかのようなグレタ・トーンベリさんの如き、妥協をしない留学生であったものの、一躍、人気者であった故に幼少期の何もできない内気なる性格を大いに、変えるような機会となる。また数学クラブで全米だか、ニューヨーク州でトップ成績を収めた時も「大したことないわよ、日本人の高校生って皆これぐらいできるわよ」と外交官的日本人アゲアゲ発言を意識し(日米貿易摩擦の最中でもありましたし)未だに、我が米国人の多くの知り合いは日本人に対して美しき誤解をしています。

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(上記は人気者あるいは物珍しがられただけなのか、それ故に多くの米国人のメッセージで一杯の我が卒業写真集)

その後1988年東京大学法学部卒。在学中は、1985年日本航空主催のアジア・環太平洋国際学生シンポジウムのパネリストを務める。昔から航空力学などに凝っていた私においては、憧れの滝田あゆち様(日本航空)にお目にかかれたこと、不幸なJAL123便の事故がシンポジアム期間中に起きたことなど、実に言葉にできない体験でもありました。

また全国学生論文コンテスト、ダイヤモンド社主催のものに応募して2回優勝。また産経新聞主催の全国論文コンテストに一回優勝。さらに外務省主催全国学生論文・討論コンテストにて外務大臣賞を受賞してASEAN5カ国の外交官アテンド付きの副賞旅行。そういうとカッコよく聞こえますが、最初の訪問地マニラにて、地元の人々と大いに屋台村みたいなところで交流するもフィリピンの方々が日本人などこない場所故に喜んで次々と御馳走してくださるままに食べた結果、本来お腹を崩す傾向のある私は、いきなりお腹をくだし、常にトイレの場所を気にしなければならなかったという情けないおまけ付き。

また、駒場時代はESSのディベート、スピーチ全国コンテストで多々優勝。本郷時代は、東京大学法学部法律相談所に所属し、ボランティアで法律相談を行う。アルバイトは家庭教師、英語教師、そして、落ちこぼれ専門の塾講師として、「教える」巧さに気づく(これも自分自身が己の勉強法を考えてきた故の知恵かも)。家庭教師にては、全くやる気のない小学6年生を半年で偏差値20上げて到底無理と思われた志望校に入学させるにおいて、東進なんとかという彼女が、かつて通っていた塾の先生からも感動される。また落ちこぼれ塾においては、学生たる私に対して「落ちこぼれ専門塾」の女性経営者から、「工藤先生にはまいりました。」と経営権の譲渡を大学4年時にオファーされるも、辞退するに至る。

(上記動画は、わが趣味にてやっておりますYou Tube動画にての東大時代。テーマは5月。模擬裁判の変てこりんメークで出てくる私と懐かしきわが友。肖像権などの問題は、yukiakudo@aol.comこまでメールされたし)

同時に私にて、法律相談所の五月祭定例模擬裁判の弁護士役体験(テーマは脳死)や、本来、親族が医師か法曹関係者(検察)や大学教授が多かったので、一人で、大学の授業の合間に東京高裁の刑事法廷をしばしば傍聴。いつ行っても、容疑者側に哀れみを感じ、共感したりする私の性格において、法曹職は諦め、また当時交際していた相手が通産官僚だった故に、その激務を実際に知るにおいて、当初の我が目的に反して「女性が男性化しなくてはやっていけない官僚。だったら男子に枠を譲った方がいい」と思い、入学時の希望であった通産官僚志望を諦め、仕事と家庭の両立が可能そうであると誤解した外資系企業ーJP モルガン投資銀行、そして後にマッキンゼーに就職(ロンドンオフィスと東京オフィス)。

その後、数年外資系金融関連の仕事をした後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(ロンドン大学経済大学院、通称LSE)に留学し、経済学修士号を取得。経済学の分野でも金融論、主にブラック・マートン・ショールズなどを研究。また後に、パリのフランス国立高等防衛研究所(IHEDN)にて首席でディプロマを取得。

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(上記写真は英国の留学時代の頃)

JPMorgan(JPモルガン投資銀行)McKinsey&CO(ロンドンオフィス・東京オフィス)にて、毎日午前2−3時までヘロヘロに働き「これなら、通産官僚と変わらない。それどころかもっとタフ」と国家公務員試験を受けなかったことを後悔していた頃、マッキンゼーの同僚友人が「雪枝さんには向いてる!」とテレビ朝日のキャスタオーディションに彼女が内緒で、勝手に応募したのです。私においては彼女のメンツを潰す訳にはいかない、どうせ受かる訳なき「枯れ木も山の賑わいよ」なる気分でオーディションを受けたらなんと高倍率にもかかわらず合格。それをきっかけに、メディア界にフリーランスとして転職。テレビ朝日「CNNデイブレイク」のメインキャスター兼コメンテーター他、テレビ朝日、NHK,日本テレビ、BBCなどで報道番組の企画、取材、制作、出演などにかかわりつつ、国際的にはBBC,CNN、ABC, NBC, CBS,AP,REUTRES,などと幅広く仕事をすることになる。

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(上記の写真はスイス、ジュネーブのロイター通信にて)

また「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日系)、「報道2001」(フジテレビ系)BBC英国、BBCワールド、CNNのコメンテーターとしての出演も多く依頼がくるようになり、対外的に日本に対する誤解を解くことに懸命になる。1992年からメディア界に入ったタイミングは、貿易摩擦、PKO、先の大戦の史実などなど実に日本への反感も強き時代であったと思う。

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(上記写真は米国のCBSテレビNY本部の夕方ニュースのキャスター、ダン・ラザーと)
英国や米国に在住中、日本に対する誤った報道や、認識が多いことをきっかけとして、国内外のうち、対外発信をしていこうとあっさり金融の世界から方針転換。また、は客員教授として主にメディアリタラシーの講義を担当。同時に、正しい日本の対外メディア発信のために日本人ながら日本外国特派員協会(FCCJ)の報道委員として、様々なイベントの企画・実行を行ったり、自身でも国内外のメディア(論壇、紙媒体)の執筆なども行ってきた(「国際版ニューズウィーク」、「VOICE」「月刊文藝春秋」「中央公論」「SAPIO」「正論」「週刊ダイヤモンド」。連載では「産経新聞ー誌面批評」「ダイヤモンド社ZAI」「セキュリタリアン」(防衛庁)、「ELLE JAPON」「婦人公論」など。著書、「特攻へのレクイエム」(中央公論新社2001年、文庫化、2004年、11版まで増刷)「検証・靖國神社問題」(PHP)、「国を愛するということ」(モラロジー研究所)など。

2003年には日本を代表して、それぞれ米国、フランス政府に招聘されて、IHEDNのファシリテーター(パリ)、日米通商通行条約150年を記念しての全米(ワシントンDCからハワイのホノルルまで)を日米を代表して一人で行う。前者は楽しかったものの、米国での我が体重よりも重い、スーツケースを一人で抱えて、1日に3回ぐらい、テーマも異なる講演、時には朝食会、時にはノースウェスタン大学で一コマ講義、CSISでのパネル、など実に満身創痍。特に、フランク・シナトラ?の歌”I left my heart in San Francisco"?ではないが、サンフランシスコでは、「サクラ?」のように用意されていたのか、暴力的に泣き叫ぶ中国系アメリカ人との尋常ならざる対決の夜の講演の後、一人、ルームサービスもなく、昼に買っておいたパスタの残りを、コーヒー用のマドラー二本を箸の代りとして食した時には、日本という国を背負う悲壮感と孤独感と、あの無力感は今でもしみじみと辛く思い出すぐらいである。メディアに入って、大手テレビ局などの中途採用オファーも断り一人フリーランスとして基本的に事務所にも属さず、激務をこなす毎日で、全く仕事以外にプライベートとか、自分の心身を犠牲にする毎日でした。

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(上記写真はパリのIHEDN)

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(上記写真は、FCCJにてフランス女優のレスリー・キャロンの通訳を担当)

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(上記はシカゴでの講演)

これまで出演した主なテレビ・ラジオ番組(私なりのポリシーとして番組の中で取材交渉、企画、編集などもできるだけ担当するのが私の仕事の仕方。結果として取材相手の交渉や、企画や、編集や、翻訳、テロップ付け、時にはロンドンなどの「我が得意分野」でのホテルのお得なブッキングまでやってきた過重労働。でもそうすることでのみ、正確な情報を正しく伝えることができると考えてきた為)

「CNNデイブレイク」(テレビ朝日系)「くらしの経済」(NHK総合) 「日曜スペシャル」ー価格破壊、またプラザ合意など経済関連の番組(NHKーBS1)「NNN24ニュース」経済関連番組(日本テレビ系)「ニュースステーション特集」ーWTO特集、英国ロイズ保険組合特集、(テレビ朝日系)「トップインタビュー」(朝日ニュースター)「ジャーナル8」(朝日ニュースター)ブルームバーグ(トップニュースアンカー)など

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(上記の写真は上から「CNNデイブレイク」「報道2001」ー安倍晋三先生と 「朝まで生テレビ!」)

コメンテーターとしての出演

「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日)「報道2001」(フジテレビ)「土曜一番花やしき」(フジテレビ)「めざましテレビ」(フジテレビ)「ニュースの森」(TBS)「ジャスト」(TBS)「皇室アルバム」(TBS)「たけしのテレビタックル」(テレビ朝日)「スーパーJチェンネル」(テレビ朝日)「スーパーモーニング」(テレビ朝日)「こんにちは2時」(テレビ朝日)「雅子妃殿下ご成婚特別報道番組」(テレビ朝日)「ダイアナ妃ご葬儀特別番組」(日本テレビ)「BS朝」(BS朝日)「ほね・骨・本音」(BSー1)「美女とやじ馬」(テレビ埼玉)「ワイド!スクランブル」(テレビ朝日)「THE・サンデー」(日本テレビ)「皇室スペシャル」(日本テレビ)

ラジオ番組(ゲストとしての出演)

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「竹村健一の世相を斬る」(文化放送)「金美齢氏・コリーヌ・ブレ氏とっ工藤雪枝の対談」(文化放送)「ミッキー安川ずばり」(ラジオ日本)「岩国哲人の凛として日本」(ラジオ日本)。加えて大学時代に「地球はまあるいよ」ー千倉真里さんDJのゲストとして。

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(上記は英国のBBCスタジオにて)
海外のテレビ・ラジオ関連の出演

米国CBS「モーニングニューズ」米国CBS「48HOURS」米国NBC「夜のメインニューズ」米国ABC「夜のメインニューズ」英国BBC「BBCワールドニューズ」英国BBC「BBCラジオ」

インタビュー・対談など

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上記の写真ではカバーできないほど多くの方々にインタビューさせていただき、また、同時に論壇での対談を行うも今現在写真が、手元にない方々も多いのですが、ざっと挙げてみますと、サッチャー元英国首相、中川昭一先生、安倍晋三先生、瓦力先生、高市早苗先生、鳩山由紀夫先生、石原伸晃先生、荒井広幸先生、志位和夫先生、明石康先生、中曽根康弘先生、瀬島隆三会長、リチャード・ブランソン会長、ジョージ・ソロス会長、ポール・ボルカーFDRトップ、フレッド・バーグステン経済学教授、エスラ・ヴォーゲル名誉教授、ドナルド・キーン名誉教授、レスター・サロー経済学教授、中条潮教授、島田晴雄教授、マキノ正幸(沖縄アクターズスクール)会長、坂井三郎元零戦パイロット、緒方貞子UNHCRトップ、前田日明様(プロレス選手かつ論壇家)セルジオ越後様(サッカー解説者)、楢崎正剛様(サッカー日本代表GK)、原田雅彦様(スキージャンプ)、平木理化様(全仏オープンテニスダブルス優勝者)、若田光一様(宇宙飛行士)、スタニスラフ・ブーニン様(ピアニスト)、イヴォ・ポゴレリッチ(ピアニスト)、ルチアーノ・パバロッティ様(テノール歌手)、クラウディオ・アバード様(指揮者)チョン・ミョン・フン(指揮者)などなど、氏名をあえて出すことができない市井の方々含め、実に皆様から学ばせていただいたことの多さに感謝申し上げたい。

私が取材を受けた主な記事、グラビアなど

OGGI(小学館)1995年10月号

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週刊ポスト(小学館)93年7月2日号

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日経ウーマン94年12月号 「日本のスーパーキャリア30人」に選ばれる

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JJ (おそらく93年ぐらいか?)

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トラバーユ95年1月19日号

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女性自身、有名人の持ち物、(私だけやたらめったら荷物が多かったー汗)

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Views(講談社)93年3月24日号

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Frau (講談社)。93年2月23日号 (現皇后雅子様のご成婚の際にインタビューの依頼を受けて)

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NHK STERA 1994年4月8日号

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Flash Exciting 94年7月19日号(半年だけオフィスツーワンに所属していた時、それ以外はずっと私にては事務所にも所属していない完璧なるフリー)

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東京中日スポーツ「女たちの21世紀」2000年2月、あの著名なる大下英治先生が私の人生を35回にわたり取材し連載してくださいました!



MONIQUE 2000年4月号 占星術で有名な鏡りゅうじさんとの対談

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これでも私のやってきた仕事やプライベートなることも実に極々一部しか書ききれていません。今後、なんらかの形でこのプロフィールをより充実させていきます。でもこうして振り返ってみても、実に様々な方々にお世話になった我が人生(この時点では半生かと忙しかった日々を思い出して、しんみりしちゃいますね)。

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(上記の写真は米国ボーイング社会長と米国駐日元大使お二人と私がパネリストとなった六本木グランドハイヤットでのパネルディスカッションー2003年)

2005年には中曽根元総理に選ばれて、日露戦争戦勝記念日本海海戦100周年記念の講師に重鎮4人のご先生方と共に最も若い女性講師として札幌にて私服警官なんと200名以上という、ロシアが近い厳重なる警戒の元、講演を行う、私がつけたタイトルは「日本の栄光と孤独」

未だに、我がプロフィールを全然書ききれていない感がある、面白いこと多々ある我が人生。定期的に書き足していきますので、宜しければ時々のぞいてご覧くださいませ。

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