見出し画像

【イベントレポート】私は自分の言葉で書けている? 書いたものに責任を持てている??


2019年7月24日(水)
子どもたちの夏休みが始まって、5日目。
まだ5日目!!!

さっき朝ごはんを作ったと思ったら、もうお昼ごはんで、おやつ出してスーパー行って今度は夜ごはん作るみたいな、何ごはん?いつのごはん??って、ときどきわけがわからなくなる……。そんなごはん作りだらけの毎日からヒョイッと抜け出し、「ライターお悩み相談室」と「関西ライターズリビングルーム」と、待ちかねていた2つのイベントを思いっきり楽しんだ一日。

いろんなヒントをいただいたので、忘れないうちに書き留めておくとともに、お悩み相談室が終わった後のなんともいえないスッキリ感、そしてリビングルームが終わった後のソワソワする感じ、あれは何だったのか、頭のなかを一度整理してみたい。

やっぱり居心地がいい「ライターお悩み相談室」

第14回を迎えるライターお悩み相談室のゲストは、青山ゆみこさん(@aoyama_kobe)。

主催者の江角悠子さん(@ezu1030)の人選が毎回毎回本当に素晴らしくて、「ちょっとは遠慮しないと」とか自分に言い聞かせつつ、ゲストが青山さんと聞いて我を忘れて申し込んだ私。案の定、席はすぐに埋まってキャンセル待ちに。

参加者のなかには、なんと福岡から日帰りで来られた方もおられて、私の質問の時間をお分けしたいくらいだった。

青山さんのくわしいプロフィールは、こちらをご覧あれ~。

私が青山さんにお会いしたいと思うようになったのは、みんなのミシマガジンの「ほんのちょっと当事者」がきっかけ。そうだ、私たちっていつだってなにかの「ほんのちょっと当事者」だわ、すべては他人事じゃないわって思えて心に刺さる。

でも、グサッと痛みを感じる刺さり方ではなくて、ドキドキするのだけれど、「あ~そこそこ!そこがかゆかった!!」みたいな、いい感じの所にまごの手が届いたような響き方で。どうやったらこんな文章が書けるのか、一度お聞きしてみたかったのだ。

そして、1000人を超える人々にインタビューしてきた青山さんの取材の手法にも、すごくすごく興味があった。
青山さんが携わった書籍『人生最後のご馳走』を拝読したのだけれど、死がとても近い人々のお話なのに悲しくなく、とってもおいしそうで、私もその場所でお話をお聞きしているかのような、料理のにおいまでほわっと伝わってくるような臨場感があって、心がじんわりとほぐれて、大切な人のことを思い出したりして。ほどよい距離感でつづられた文章と温かいエピソードに、とても感銘を受けたのだ。

だいたい月1回のペースで開催されているライターお悩み相談室は、今回から場所を変え、京都・出町柳駅から徒歩4分ほどの場所にある「保存食lab」で開催。
場所が違ってもやっぱり居心地がよくて、なんだろな~江角さんの雰囲気なのかなあ。はじめての人でもすぐ馴染める感じなので、参加を躊躇している方がおられたらエイっと飛び込んでほしいな。きっと心和らぐ時間となることでしょう。
あと、オーダーした自家製ジンジャーエールがとてもおいしくて、写真も撮らずにゴクゴク飲んでしまいました。次は自家製梅ソーダを頼みたい。

青山さんってどんなふうにインタビューしてるの?

ライターお悩み相談室は、最初にみんなで自己紹介をした後、参加者が事前に提出していた質問に対してゲストに答えてもらうスタイルで進められる。
「私の質問の時間をお分けしたい」とか言っておきながら、偶然にも最初から私が提出した質問が続く続く。ほんまに思ってんのかという。恐縮しつつ、なかでも印象に残ったお話をピックアップしてご紹介します!

インタビューの準備はどのようにしている?

基本的には、事前に質問表を用意されているとのこと。取材相手に関する情報を集めて目を通すなど、インタビューの当日までに8割くらい準備が整っているので、何を聞きたいかは青山さんのなかでしっかり咀嚼できていて、紙を見ながらインタビューを進めることはないとのお話だった。

漏れはないかと質問表を舐め回すように見ながら進行する私とはえらい違い。咀嚼しきれていないのかもしれないなあ。

持っていくものは、資料と質問表、ICレコーダーの3つ。メモはあまりとらないほうなのだそう。
どうせ書いても読めないからと謙遜されていたけれど、私もそうかも。インタビュー中にとるメモは少なくて、お話を聞くなかで聞きたいことが出てきたときに、忘れないように質問をメモするとか、その程度だなあ。なので、録音できていなかったらピンチどころの話ではない。万一そんなことになったら怖いので、ICレコーダーはいつも2台用意している。私の場合。

インタビューは確認作業ではなく、取材相手との共同作業

取材についてのお話をお聞きしていて感じたのは、青山さんの話し手に寄り添うような姿勢。それが、私が一読者として感じるほどよい距離感と臨場感につながっているのかもしれないなあと思う。

事前に調べてわかっていることは、わざわざ話してもらう必要はないので、質問のなかに自然に組み込むようにしたり。
質問して、「これはいま聞いてほしくないのかな?」と感じたら、話を切り替えて一旦迂回してまた戻ってくると、気持ちが切り替わってお答えいただけることもあるとか。
うまく言葉にできない様子がみえたときは、「私の場合は……」と、なにかヒントになるようなエピソードを入れてみたり、あえて的外れな質問をすることで「そうではなくて……」と次につながる言葉を引き出してみたり。

「一番聞きたいことを先に聞くようにしていますか?」との私の質問に対しては、話し慣れている方にはそうすることもあるけれど、話し慣れていない方の場合は外堀を埋めていく感じで進めるとのことだった。ただ、「一番聞きたいこと」が自分のなかにあったとしても、実際にインタビューが進むと一番大切なのはそこじゃなかったということはあるからとおっしゃっていて、「確かに……!」と激しく頷く。

基本的に話し手がしゃべりたいことはしゃべりたいように、しゃべりたくないときはしゃべりたくない気持ちに合わせているし、沈黙する時間も大切なのだと話されていた。息づかいも、文章に盛り込むのだと。

昔の私は、沈黙をなんとか埋めなければと質問を重ねて、結局自分の思う方向に持っていくことがあったような気がする。スムーズに終わるのかもしれないけれど、それはただの確認作業でしかない。そこでしか聞けない言葉に出合えるわけがない。

それに気づいてから、自分の間(ま)ではなく、話し手の間(ま)にできるだけ(まだまだ難しいけれど……)合わせるようにしている。
私の質問に対し、「う~ん……考えたこともなかったなあ……」と沈黙が続いても、(そりゃそうやんねえ、自分が当たり前のようにしていることの理由について、立ち止まって考えることってないもんねえ……うんうん、わかります)とか心のなかで思いつつ、ときにはトイレに行ってみたりして、可能な限り待つ。どうしても出てこない場合は、違う話をしてまた戻ってきてとか、もちろん時間が許す場合のみだけれど。

そもそも自分の本当の想いってそんなに簡単に言葉にできるもんじゃないよな~簡単にできたらインタビューいらないもんな、ライターいらないもんな。青山さんの、自分ではなく相手を軸としたインタビューの進め方に、改めていろんな気づきをいただいたのだった。まさに、共同作業だなあ。

どこかで借りてきた言葉になってない?自分の言葉で書けてる?

編集者としてもお仕事をされている青山さん。原稿に目を通すときに、どこかで見たことのある文章が多いと感じることがあるそうだ。

そうした文章は、一見馴染みがいい。抵抗なくスッと入ってくる。けれど、残らない。響かないし、刺さらない。

「文章には必ず宛先がある。だから、届けたい人に届いているかを意識している」と、青山さんは話されていた。その人が本当に理解できる文章になっているか、補足は必要ないかなど、読み手に思いを巡らすのだ。

そのときの「自分の言葉」で書くことが大切で、流して書いてしまうとその人の文章にはならないとのこと。そして、たとえば1000字の文章を書くのであれば、5000字くらいをライターとして書いて、一旦寝かせてから編集者として読み、スープを煮詰めるようにギュギュッと凝縮した1000字の原稿を生み出すのだという。

「煮詰まったシンプルなスープと、最初からシンプルなスープは違う」

こうとしか言い表せない言葉を、青山さんは選ぶようにしているのだそう。

私はどうしたいの?何を書きたいの?

私はというと、これまで100%クライアントワークで、商品パンフレットやLPの文章など、ほぼ無記名の仕事に携わってきた。私の個性を出そうものなら、すぐに訂正されること多々あり。そもそも私には伝えたいことがなく、伝えたいことがある人や企業を文章を通してお手伝いしたいと思ってやってきた。

その思いは変わっていないし、これからも続けていきたいけれど、ときどき思うのだ。私はいつまで書き続けられるのだろうと。明日、明後日も、1年後も、10年後も、取材先まで自分の足で行き、聞きたいことを自分の口で話し、耳で聞いて、両手を使ってパソコンを打てるなんて保証は本当はどこにもないのに、勝手にできるだろうなんて考えている。

フリーランスなので、コンスタントに仕事の依頼が来るかどうか、もちろんその心配はある。けれど、それと同じくらい、いやそれ以上に、私が予想する範囲内の私であり続けることって、実はわりと難しいのではないかなと。

最近、四肢を切断した方たちを取材したときに、ますますその気持ちが強くなった。皆さんある日突然、思いもかけない事故で手足を欠損している。病気だってそうだ。健常者と障害者、健康な人と病気を持つ人……そのあいだに境界線ってあるのかなあと。やっぱり、私たちはいつだってなにかのほんのちょっと当事者なのかもしれない。

「いつまで書けるのか」……その疑問がリアルに感じられたとき、もっともっといろんなことに挑戦してみたい気持ちがフツフツと湧き上がってきた。私自身の言葉でなにかを生み出せる場所はどこにあるんだろう。行けるのかな、行ってみたいな。人の生き方にそっと寄り添うような記事を、この手で書いてみたい。

もし私に強みがあるとすれば、リスクを考慮しながら、法律やエビデンス、企業の意向に沿った文章をコツコツと書き続けてきたことだと思う。そのなかで意識してきたのが、「(なるべく)人を傷つけない」こと。生きているだけで誰かを無意識に傷つけることがあるのが私たち人間の性。クレームを招く言葉は、怒らせているというより、相手を傷つけているのだとつくづく感じる。

そんな石橋をたたきまくっている私だからこそ、もしかすると踏み込める場所があるのかもしれない。そこからきっと、私にしか書けない、私の言葉が詰まった記事を生み出せるのではないだろうか……!

これまでモヤモヤ~っとしていたまとまりのない考えが、青山さんのお話を聞くなかでスーッと集まってほんわりしたかたちになった気がした。

青山さん、江角さん、参加者の皆さん、本当にありがとうございました。

次回のライターお悩み相談室は、10月23日(水)の14時~16時。
キャリア0から2年で雑誌の編集長になって活躍されている浜田綾さん(@hamadaaya914)をゲストに迎えるそうです。た、楽しそう……!!

気になる方は、江角さんのツイッターをチェックしてみてくださいね。

ついに行けた~「関西ライターズリビングルーム」

ライターお悩み相談室が終了した後、電車にゴトゴト揺られて大阪・天満へ。ライター仲間と夜ごはんを食べてから、前から気になって気になって、ずっとずっと行きたかった「関西ライターズリビングルーム」に初参加。
いえーい!!

関西ライターズリビングルームは、主催者の吉村智樹(@tomokiy)さんが気になるゲストを呼んでインタビューするイベントで、つまりあの吉村さんのインタビュー現場をこの目で間近に見れるということ。しかも、ゲストは『吃音』を執筆された近藤雄生さん(@ykoncanberra)!

吉村さんの弾むような質問と、近藤さんの深く響くお話がなんとも心地よくて、あっというまに終わってしまったのだった。もっと聞いていたかった。

書いたものの責任を背負う、その覚悟は私にある?

取材にかかるお金とか、吉村さんならではの切り込んだ質問が次々に出て、これ、ほとんどここだけの話なのでは……といった内容だったのだけれど、一番印象に残った部分をほんのちょっとだけここでシェア。それは、記事の事前チェックについてのお話だった。

それにしても、青山さんのお話とリンクするところがかなりあって、連続で行けたのはすごく幸運だったと思う。近藤さんの『吃音』は、まさに近藤さんでなければ書けないもので、みえない場所で苦しむ人々の姿を誠実な言葉で丁寧に伝えていて。今回のライターズリビングルームでも、『吃音』の取材時のエピソードに度々触れられていた。

みえない場所で苦しむ……いや違うな、私がみようとしていなかった場所だな。本当はすごく身近なのに、みてみぬふりをしていた自分、どこか軽く考えていた自分に、『吃音』を通して気づくことができたと思う。と、同時に、吃音に深く悩んでいた時期を経て、症状がほとんど出なくなった状態で重度の吃音に悩む方たちを取材する……近藤さんは一体どんな思いを抱えていたのだろうと。

その思いを垣間見たのが、取材した方に原稿をチェックしてもらっているかを吉村さんが質問した場面だった。

雑誌で連載していたときは確認してもらうこともあったが、書籍にするときには見せていないとのこと。書きかえた部分も多く、どんな反応をされるかすごく緊張した。けれど、見せたらきっと気が緩んでしまう。責任を背負うのは書き手である自分でなければならない……近藤さんはそう話されていた。

『吃音』には、吃音の症状を抱える小学生の男の子が登場する。母親にも彼自身にも事情は伝えているけれど、まだ子どもである彼にこれから起こることをすべて想像してもらったうえで了解を得るのは不可能なこと。この先もしかするとこの本がきっかけでなにかトラブルが起こるかもしれない。それもすべて背負うつもりだと、近藤さんは語る。

ちょっと話はそれますが……

そのお話を聞きながら、私はある女の子を思い出していた。子どもへの興味を捨てきれず、出版社を辞めて子ども向けの英会話教室で働くようになってから出会った子。当時、私は20代、彼女は高校生で、私のことを「先生」と呼んで慕ってくれていた。

学校生活に悩んでいたようで、レッスンが終わってお迎えが来るまでにいろんなことをポツポツと話してくれた。言葉がうまく出ないこともあったけれど、肩や腕にそっと触れるとふわっと笑顔になってくれて。そんなある日、彼女は「先生……私……高校をやめたい」とゆっくりつぶやいた。

自分の意志をあまり伝えることがない彼女が、ようやく絞り出した言葉だった。その後、ご両親を交えて何度も話し合いをして、みんなが泣いてしまうこともあって、いよいよ決断しなければならないときが来て「先生はどう思われますか?」と聞かれ、私は高校を辞めてもいいと思っていると彼女とご両親の背中を押した。

もちろん、咄嗟に出た言葉ではなく、ずっとずっと考え続けたことだけれど、そのときに私はこの子の人生を変えてしまった、だから一生この言葉の重さを背負わなければいけないし、この子を見守り続けなければと強く思って。だから、近藤さんの思いも、私なりにちょっぴりわかる気がしている。

書いたものに責任を持てているって、私は言える?

近藤さんの真摯な思いに改めて胸を打たれると同時に、私はどうなんだろう、責任を投げている部分はないだろうかといまも考え続けている。

報道寄り、PR寄りなど、記事の方向性によってベストな方法はもちろん変わる。その企業の商品を紹介するのに企業の事前チェックが入らないなんてことはないわけで、ケースバイケースであることは前提として、私はちゃんと発信する言葉に責任と覚悟を持てているのだろうかと改めて考える大切な機会となった。

じっくり話を聞いたように思えても、その人やもののすべてを理解できるわけではない。わかった気になってはいけない。それでも、ライターは断片を拾い集めてかたちにして、誰かに伝えなければならない。その難しさを忘れないようにしなければ、言葉の扱いに慣れてしまわないようにしなければと、改めて思う夜だった。


さて、話をちょっと戻しまして。先ほどの彼女はその後どうなったかというと、高校を中退して、いろいろあって、去年大切な人と結婚した。結婚報告のハガキで見たウェディングドレス姿は本当に眩しくて、きれいで、私は彼女に対して責任を負うとかいろいろ考えていたけれど、彼女は私にとって大切な人だからこうやっていまもつながっているんだなあとか思いながら、なんかもうたまらなくなって一人でポロポロ泣いた。

そんなことを思い出しながら、あ~やっぱり誰かの人生に触れるような取材をしてみたいな、できるかな、でもしてみたいなと。そう考えたらなんだかワクワクしてきて、終了後に近藤さんと4人で餃子の王将に直行し、ビール片手に餃子や酢豚をガツガツ食べて(天満で夜ごはんを食べたような気もするけれど)、「うわーこの仕事たのし~!!」と改めて思ったのだった。

吉村さん、近藤さん、会場の皆さん、本当にありがとうございました……!

前後編に分けたらええのにと自分でも思いつつ、長くなってしまいました。最後までお読みいただき、感謝、感謝です。















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?