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そもそも何故チェルノブイリに行ったのか①事故と私の時系列

どうもゆきちかです。チェルノブイリツアー2018に参加した感想文を書いています。普段は児童養護施設で心理職をして働いています。私なりの感想文が誰かの新しい発見につながることを期待して書きます。

そもそもチェルノブイリって何?という方へ

 チェルノブイリ原子力発電所。この辺にあります(現地でスクショ↓)。

よくお知りになりたい方はウィキペディアをどうぞ
2018年6月時点ではちょっと古い情報が載っています。
現地の今を知る、ってウィキペディアの先を行けるんですね)

 ウクライナの北側、ベラルーシとの国境近くに位置しています。この原発において、1986年4月26日に4号機の爆発事故が起こり、大量の放射性物質が国内外に飛散するという緊急事態を経験することになりました。人類が経験した放射能の危機としては、広島・長崎の原爆の次に起こった歴史的な事故と言えます。

↑チェルノブイリの検問前お土産売り場で買ったポストカード
(原発4号機爆発後の現場写真)

 事故当時、私は生まれて数ヶ月。チェルノブイリでは、原子炉の爆発で作業員のワレリーさんが最初の被害者となり、原発作業員や消防隊員、軍隊が総出で消火作業や放射性物質への対処に飛び回り、周辺住民5万人が避難を余儀なくされました。多くの人が生活と故郷を失って行く一方、私はソ連の情報統制の向こう側の日本で、事故のことなど全く知らない母のおっぱいをガブガブ飲んですくすくと成長していました。

↑原発事故当時、日本で成長中の私(ほっぺがパンパン…)。
その赤ちゃんが32年後に「原発までお出かけしてくるよ。え?何って、観光で。」と言い出すなんて、当時の母は想像し得なかったでしょう。

 余計な情報を大量投下しましたが、私の人生の時間軸と同時並行で事故のその後が展開している、という事実確認です。感覚的には、カップルが互いの人生の出来事を相手の年齢と対応させて理解し合う、みたいな感じです。
 爆発事故により飛び散ったのは放射性物質だけではなくて、その近くで生活していた人々の暮らしや健康、人生の見通し、住民同士の関係性だったと思います。その後の展開の良し悪しに関わらず、事実としてはそれが起こり、その一方で、私は私の人生を生きていました。それぞれお互いが存在していたね、と実感することが大切なポイントです。


↑2018年6月現在のチェルノブイリ原発4号機(左)と5号機(右)をiphoneのパノラマ機能で撮影。
(5号機建設中に4号機事故が起こり、5号機は建設現場もろとも放射性廃棄物と化した。解体も撤去もできず、32年の時を過ごした。新石棺が完成した4号機と一緒に見ると、思わず時の経過に思いを馳せちゃう。)

 また、事故の影響は凄まじく、より直接的に影響を被った人だけではなく、その影響を目の当たりにした人たちの様々なリアクションを引き出しています。いくつかは芸術作品として形になり、全く関係のなかった人々の目耳にもチェルノブイリを届けることになりました。音楽とか、廃墟の写真とか、私にとってのチェルノブイリの入り口はそのような二次的な創作物でした。チェルノブイリに個人的な思いを投影させた作品や、チェルノブイリの現実を忠実に切り取ろうとした作品など様々です。

 チェルノブイリは事故現場であり、廃炉作業を担う人たちの仕事場であり、誰かが失った故郷であり、別の誰かの創作の源泉であり、今は福島の未来を投影するスクリーンにもなっていると思います。

 そして、この感想文では「チェルノブイリって何?」の答えの一つとして「チェルノブイリは行ける場所」という定義を立ち上げたいと思います。行ったからこそ堂々と言えるこの定義。足を運ぶ、という選択肢がありうる場所。旅行経験が多い方からしたら「あそこも行けるし、そこも行けるよ?」と笑われちゃうかもしれないけど、「すごいな!行けるんだ!」という感動が得られる場所でした。行った後に、自分の人生の時系列と並べて存在を確認したくなる場所。チェルノブイリツアー後の私にとってはこのように意味が変わっています。

 「来る理由は何でもよくて、大事なのは何を持ち帰るかということ」

 ツアー中、2度に渡ってお話を聞かせてくれたアレクサンドル・シロタさん(写真中央右)の言葉です。この感想文で、私も持ち帰ったものを言葉にしたい。書きたいことを書き切れるか不安ですが、ゆっくりでも書き進めていきます。

 なぜチェルノブイリに行ったのか?という動機の辺りまで辿り着かなかったのでに続きます!(汗)

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!