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僕らがかつて通ってきた道が、そこにはあった。【映画レビュー】ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー

地上に、地下に、海に、空に。夢の大冒険が登場!

これは、1985年9月13日に発売されたファミコン版「スーパーマリオブラザーズ」のCMで使われた文言である。

「スーパーマリオブラザーズ」は、ゲームの歴史に燦然と輝くマイルストーンであり、約40年の時を経た今プレイしても、ことゲームメカニクスの面で言えば普通に通用する、異次元の操作性を持った傑作中の傑作である。

走る、止まる、ジャンプする。この3つがしっかりと思った通りにできるゲームは、当時はほとんど存在しなかった。そして、それほど複雑なゲームデザインではないものの、それでも当時の他のゲームとの違いを説明するために、最初のステージである1−1のスタート直後は、自然とゲームの操作を学ぶことが出来る、優れたチュートリアルのような作りになっている。このゲームの偉大さは、35年後に記念ゲームとして配信された「スーパーマリオブラザーズ35」が、初代とほどんど変わらない操作性で、2020年の視点から見ても、ゲームデザイン、メカニクス両方で素晴らしいゲームであることを知らしめた事からも窺い知れるだろう。

そして2023年の4月28日、故岩田聡体制の時に語られた、コンテンツビジネス強化の一環として進められていたプロジェクトの、ある意味集大成であり、そして出発点とも言える作品が公開された。そう、「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」である。

この映画は、いわゆるマリオのオリジンのような作品だ。

レッキングクルーのスパイク(旧名ブラッキー)の会社で働いていたマリオとルイージは、一念発起して独立して配管工業社「スーパーマリオブラザーズ」を設立、有金全部を叩いてテレビCMを制作して放送にこぎつけるも、初めての依頼を失敗に終わらせてしまう…

そう。ここまではゲームがハリウッドで映画化される時のテンプレのようなストーリーだったりする。しかし、マリオの生みの親でもある宮本茂氏は、ゲームは遊びが最も重要なものであり、ストーリーがそれに取って代わるものではないという趣旨の発言をしている。それは、ストーリーを軽視しているという意味では決してない。ストーリーからゲームを作るという順番ではないということなのだ。

序盤のブルックリンでのシーンが終わると、そこからはもう目まぐるしいシークエンスが怒涛の勢いで続いていく。そして、そこかしこに今までのマリオシリーズに出てきたような要素、すなわちイースターエッグが散りばめられている。それを発見して喜ぶのは大人も子供も同じだ。

かつてスーパーマリオが発売された時、世は裏技ブームであった。裏技、つまり英語で言うところのイースターエッグである。そう、この映画は、我々が子供の頃マリオのゲーム内で、ウンコマリオやキンタマリオなどの下らない「裏技」や、ワープ土管、ゴール後の花火、チビファイヤーマリオなどの公式、もしくはバグ技を見つけて喜んでいた、あの思い出を追体験することができるように作られているのだ。

思えば、マリオは序盤は普通の人間である。だが、彼はピーチ姫に促されて、スーパーマリオメーカーじみた特訓コースで、何度も何度も失敗しながらも成長し、ドンキーコングとの(見せ物的な)戦いでは、「いくらやられても諦めの悪さでしつこく挑んで」行く。つまりそれは、増やした残機を減らしながら何度も失敗しつつもコースに挑戦し、そしてついにはクッパを倒すあの斧を勝ち取るわたしたちそのものの姿だ。

詳しいことを書いてしまうと完全なネタバレになってしまうのでこの辺でやめておくが、この映画は単なる映画ではなく、わたしたちが熱中し、社会現象を巻き起こしたスーパーマリオブラザーズというゲームそのものであり、マリオの活躍はゲームのマリオが自分の腕が上がることにより死ななくなっていく上達の証であり、そして、わたしたちがかつて通った道を、再び、今度は家族や子供と一緒に通る、この上ない素晴らしいレインボーロードなのてある。

ゲームの本質は、他のメディアでは不可能な、体験そのものを提供できることにある。そしてこの映画はそのゲームの体験を「見て発見する遊び」として提供した。世の中の批評家たちはそこが気に入らないらしい。曰く「映画としての深みがない」

私は思う。批評家の意見などどうでもいいのだ。

隣でとても楽しそうに笑う娘の笑顔が、この映画が素晴らしいものであった証なのだから。

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