見出し画像

思い出ってものとの向き合い方

私はどうも、「思い出」というものに強くノスタルジーを感じやすいタイプのようです。
おそらく10代の頃から。

高校時代、現代文の授業の一環で小論文コンテストに応募することになりました。
いくつかあったお題のなかから選んだのは「忘れる」というもの。
小学校時代に住んでいた街について書いたのですが、先生のアドバイスを受けて推敲するごとに、どうしようもなく自身の思い出観と向き合うことになりました。
それで出てきたのが「その街のことを忘れたくない」ということ。

なんで忘れたくないのか?
自問自答した結果、楽しかった思い出が現在の自分を支えている、ということでした。

高校時代ですらそうだったけど、年齢を重ねていろいろな経験をするごとにそうした側面は大きくなっているかもしれません。
あのときの楽しかったこと、
あのときに言ってもらった言葉、
あのとき優しくしてもらった経験、
あのときに頑張ったこと などなど。

現在その場所には跡形もなくなっているけれど、確かにそこで起きたんだよな、とか、見たり考えたりすると胸がしめつけられる感覚になったりします。
それは私が、ライブなど一夜限りのその場限りの打ち上げ花火みたいなものを楽しみ続けてきたことと関係しているのかもしれませんが。

小川洋子さんの小説とか、ピーターパンの原作とか、忘れてしまったりなにかを失ってしまったりすることを描いた名作が昔から大好きで、自分でも一体この感覚はなんなんだろうか?と思っていたんです。

まぁ、松尾芭蕉の時代から「兵どもが夢の跡」と歌われるくらい、よくある感覚といえばそれまでなんですけど。
明確に答えの出ないままに、胸がしめつけられる感覚を時折楽しんだりしています。
いつもそれをむさぼっているわけではありませんが。

しばし忘れていたこの感覚を急に思い出して文章にしたくなったのはひとつのきっかけがあって。
もしかしてこの文章を読んでくださる方のどなたにも通じないかもしれないのだけど、ここは私の城だから気にしすぎず書かせていただきます。

大学生の頃、ジョビジョバという男性6人組のお笑い集団のことが大好きになりました。
それはそれは、若かったこともあって半ば追っかけくらいのことになっていました。
私が20代前半の頃に彼らが一度解散。
10年以上の時を経て、何年か前に復活したのです。

最近、新作ライブを配信でみました。
オムニバスコントに通底するものとして、記憶が失われる、というのがあり。
今回のコントのひとつに、かつて彼らがやったシチュエーションコメディの25年後を描いたものがありました。
登場人物たちが全員集まって思い出話をしたかったのだけど、何人かは当時のことをまったく覚えていなくて悲しい思いをする者がいて……という話。

私は、思いがけず泣いてしまいました。
ベースになった25年前のシチュエーションコメディが私にとって非常に思い出深くて大好きなものだから、てことなんでしょうけれど。
登場人物にそれが忘れられているって考えたら、あまりにも悲しくなってしまった。
彼らのことを好きな気持ちは、年月を経て大人になるにつれて種類の異なる穏やかなものになったけれど。
当時のことが私にとってどれだけ大切な思い出なのかを痛感させられた出来事になりました。
かつて誰かを追っかけたり、推しがいる人にはわかる感覚なんでしょうか?

なにか楽しい夜が終わってしまったときいつも、全部のことは終わるんだな、としみじみ思い続けてきました。
それはもちろん、しんどいことにも平等に訪れるんだけど。
そうして全部が終わって、最終的に自分も終わる。
あぁ、もしかして本能的に、終わりを感じてしまうから胸がしめつけられるのかな?

だけど同時に思ったのは、「現在の彼らがいる」ということ。
それもまた幸せなことなんですね。
そういうのがあるから、なんとかみんな日々を生きていく。

なんだか非常にとりとめがなくなってしまった。
この文章も、終わります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?