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神となった人々  ――御霊信仰と崇徳院――

御靈神社と下御霊神社

 神社に祀られる神々は、古代の神話に登場する神々だけではない。平安時代の初めに生まれた御霊信仰では、無実の罪の中、命を落とされた皇族や貴族の御霊を丁重に神として祀ることで国家鎮護を祈願した。
 御靈神社(上御霊神社)は、延暦13年(794)5月、崇道天皇(早良親王)の御神霊を、同母兄にあたる桓武天皇の勅願により王城守護の神として祀ったことが始まりである。長岡京の造営中、監督である藤原種継殺害事件が起きた。不幸にも事件の首謀者とみなされた早良親王は、無実の罪を訴えながら、淡路への遷移中に薨去されたのである。その後、井上内親王や他戸親王などの御神霊も合祀されるようになった。
 貞観5年(863)5月、疫病蔓延の理由を冤罪のうちに亡くなられた御霊に求め、神泉苑で御霊会が行われた。ここで祀られた崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麿は下御霊神社のご祭神で、伊予親王を奉祀したことが神社の始まりとも伝えられる。後に吉備聖霊、火雷天神が合祀された。


歪められた崇徳院の素顔

 非業の死を遂げた人々を神として崇め奉ったのは、為政者側の恐怖心からであろう。『保元物語』や『太平記』によって、稀代の怨霊に仕立て上げられてしまった崇徳院の、真実に近い姿は、上皇の和歌や、歴史物語『今鏡』から窺い知ることができる。父の鳥羽院から後の近衛天皇への譲位を強要された崇徳天皇はやむなく皇位を譲られた。しかし、「皇太子」ではなく「皇太弟」への譲位のため、院政を行うこともできない。頻繁に歌会を催し、八代集のひとつ『詞花和歌集』を撰進させるなど、風雅の中に生きる行為は、おのれの不遇を慰めるためのようにも見える。
 保元の乱によって、讃岐への遷移を余儀なくされた後、お供をする殿上人もなく、ただ一人二人の侍女だけが侍る様が『今鏡』には描かれている。その侘びしい生活の中でも崇徳院の和歌に恨み節は見られない。
 『風雅和歌集』に撰ばれた寂然とのやりとりの中の一首「思ひやれ都はるかにおきつ波立ちへだてたるこヽろぼそさを」には、ただ都への思慕と心細さが詠まれ、藤原俊成に宛てた長歌には再び会いたいという思いのみが綴られている。後の人々は、戦や疫病といった不穏な出来事が頻発すると、その不安の原因を悲運の御神霊へと求め、数々の物語を創作していった。崇徳院の御神霊は、明治へと改元される二日前、慶応4年(1868)になって、御霊代とご愛用の笙と共に、京都白峯宮へと還遷された。遷奉の地が、蹴鞠と和歌の師範を家業とした飛鳥井家の邸宅であったことから、蹴鞠の神様・精大明神も祀る白峯神宮は、今ではJリーガーやサポーターたちからの信奉も厚い社である。

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■御靈神社(上御霊神社)
鎮座地 京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地
ご祭神 崇道天皇(早良親王)、井上内親王、他戸親王、橘逸勢、吉備真備など十二柱
TEL 075―441―2260

■下御霊神社
鎮座地 京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町
ご祭神 吉備聖霊、崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麿、火雷天神など
TEL 075―231―3530

■白峯神宮
鎮座地 京都市上京区今出川通り堀川東入飛鳥井町261番地
ご祭神 崇徳天皇、淳仁天皇など
TEL 075―441―3810
白峯神宮ならではの精大明神の闘魂守は、鞠のような丸形と通常の角形がある。赤・青・白の三色があり、ユニフォームとも合わせやすい。

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※下記の書籍に寄稿したコラムです。写真はムック本掲載時のものではなく、私自身が撮影した写真です。


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