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大動脈解離発症 ! バツイチ弱小フリーランサーが病気とお金に翻弄された1年の記録 ①

これは2015年に急性大動脈解離を発症してから1年間の話です。

当時の私は、雑誌のライター、編集、コピーライター、校正者などを経験したのち、念願の書籍翻訳者としてデビューして7年がたっていました。
一方、私生活では離婚からちょうど10年。

有休も休業補償もないバツイチのフリーランサーが、病気とお金に翻弄されたDead or Alive(生きるか死ぬか)な1年をふり返ります。

何かが切れた。ビシッと切れた

なんの変哲もない一日だった。
午後3時半にフリーター息子をバイトに送り出し、私はパソコンの前で仕事。
そろそろ夕食でもと思ったのは、午後9時頃だろうか。

(いや、その前に身体をほぐそう)

数日前から肩甲骨のあいだに痺れるような違和感があった。
締め切り前の修羅場は半月も前だが、そのときの疲れがまだ残っているのかもしれない。

そこで、30~40分かけていつもより念入りに筋トレとストレッチをした。
終わったあと、左腰に妙な張りが。
ちょっとムキになって腰を痛めたかな。
そう思いながら1人分の夕食を居間の座卓に並べる。
が、いざ食べようとしたら箸がなかった。
台所まで取りに行かなければ。
よいしょ、と立ち上がった瞬間――。

ビシッ

張りを感じていた左腰のあたりで何かが切れた。
例えるなら、特太のゴムが伸びるだけ伸びてはち切れた、みたいな。

(ん? 本格的に腰を痛めた?)

不思議なことに痛みはなかった。
何かが切れたと思ったのは気のせいだろうか。
でもまあ、大事を取ってとりあえず座ろう。
近くにある仕事机の椅子にそろそろと腰を下ろす。
と同時に、いきなり吐き気に襲われた。
吐き気というより、むかつき?
とっさに思った。

(ヤバイ。これ心臓かもしれない)

今は亡き父が軽い心筋梗塞を起こしたとき、唯一の自覚症状が吐き気だったことから、初めは二日酔いを疑ったという。
ところが数日しても吐き気は治まらず、病院へ行ったら心筋梗塞といわれてそのまま入院になった。

その話を友人にしたところ、
「うちの父親もそうだった。吐き気がするからお腹をこわしたと思って、何日か正露丸をのんでたんだって」

心筋梗塞に正露丸 !?

そのときは2人で大笑いしたものだったが、その後、どこかで読んだ誰かのブログでも、やはり心筋梗塞を起こした初期は二日酔いだと思いこんでいたとあって、どうやら心臓に異変があると吐き気に襲われるらしい、という知識が刷り込まれた。


気がつくと私は、机の上にあったスマホと財布を手に立ち上がっていた。
苦もなく立てる。やはり痛みはない。
そして、隣の部屋でクローゼットからダウンコートを出すと、一直線に玄関を目指し、ドアの鍵を開けた。

まるで何度も予行演習していたかのようなスムーズな行動だった。

我が家は玄関脇に台所があり、ダイニングテーブルを置いている。
そこに座って膝の上にコートを抱え、固定電話の子機をつかんだ。
スマホを使わなかったのは、119番は固定電話からかけるものと思いこんでいたからだと思う。
そうすれば最悪の場合は逆探知してもらえて――。

(119番?)

ここで初めて止まっていた思考が動きだした。

(救急車……呼ぶの?)

救急車、呼ぶか呼ばぬか

意識を自分の身体に向けた。
依然としてむかつきがある。
本当に心臓がどうかしたなら早急に救急車を呼ばないと。

1・1・9、と番号をプッシュした。
……が、怖くなってすぐに切った。

(マジで? ほんとに救急車呼ぶつもり?)

救急車を呼ぶというのはものすごく非日常的な行為だ。
ここで躊躇しない人がいるだろうか。
でも、ぐずぐずしていたら意識を失うかもしれない。
だからこそ先に玄関の鍵を開けたのだ。
気を取り直し、再び1・1・9、とプッシュした。
でもまたすぐに切ってしまう。

(だって、腰を痛めただけかもしれないじゃない)

誰にともなく言い訳をした。
もちろんその可能性もある。
救急車を呼んで病院に行っても、腰を痛めただけなら夜中に電車かタクシーで帰ってくることになるだろう。
いまは1月の末。寒い。だからコートを用意した。
何も考えていないと思ったのに、自分の行為のひとつひとつに意味があったことに驚いた。
でも――。

もう一度、自分の身体に意識を向けた。
息を吸うと背中が痛い
明らかにおかしかった。

(ええい、ままよ!)

1・1・9……。
つながった。

「消防ですか? 救急ですか?」
電話の向こうで男性の声が訊いた。

具合が悪いんです、と言おうとしたら
「ぐ、ぐあいが、わるい……」
かすれた声が出た。

(やだ、あたしったらほんとに病人みたいになってる)

自分で自分にびっくりしながら問われるままに住所や名前を告げ、電話を切ると膝に抱えたコートの上に突っ伏した。
今はむかつきより背中の痛みのほうが強い。

(早く来て、早く来て、早く来て)

不安な思いで念じているうち、救急車のサイレンが聞こえてきた。
意外に早かった。たぶん6、7分というところだ。


そして、表でどやどやと人の気配がしたと思ったら、ガンガンとドアを叩く音がした。

「ミヤハラさん! 鍵あいてるから入りますよ!」

その声とともに数人の救急隊員が玄関になだれこんできた。
状況を説明するあいだ、血圧や脈拍を調べられる。
救急車が来た安心感からか、少し身体が楽になった気がして、私はハキハキと質問に答えていた。

救急隊員「いまいちばんつらいのはどんな症状ですか?」
私「息を吸うと背中が痛いんです」
救「そのつらさを数字にすると、10段階のうちのいくつくらい?」
私「うーん」しばし考えた。「4か……5?」

訊いてどうする。

「そうですか……」救急隊員は考えこむような表情になった。「実はねえ、脈も血圧も異常ないんですよ」
「じゃあ、やっぱり腰を痛めただけなのかなあ」
「そうかもしれないですねえ」

なんだ、このノドカなやり取りは。

「どうします?」

じゃあいいです、という返事を期待されているのはなんとなくわかった。
横になって様子を見ますと言えば、みんなすぐにでも帰っていくだろう。

でも、腰を痛めて吐き気がする? 
この背中の痛みは? 

私は大学病院の名を挙げ、そこに連れていってほしいと頼んだ。
マルファン症候群という病気の疑いで、息子ともども年に1度そこに通院していたのだ。

私に関していうと、遺伝子検査によってその疑いは3年前に晴れていた。
にもかかわらずその後も通院しているのはあくまで「念ため」と、完全にシロとはならなかった息子の通院に付き添うためだ。
そして医師からは「心臓で何かあった場合はすぐに救急車で病院に来てください」と言われていた。

私ではなく、息子が。

でもまあ、この際だ。行けば私も診てもらえるだろう。
大学病院からはすぐに受け入れOKの返事をもらえた。
1人の救急隊員に診察券と保険証を渡し、別な1人にダウンコートとハンドバッグを渡し、さらには「あ、そのスニーカーも持っていきます」と言って、両手いっぱいに荷物を持たせた。
あとで病院に駆けつけた息子はこの大荷物を看護師さんに返され、「お母さん、こんな夜にどこへ出掛けてたんだろう。どこで倒れたんだろう」と不思議に思ったらしい。
いやいや、私は家にいましたよ。
この大荷物は、腰を痛めただけだと追い返されたときの備えだ。
だって、靴がなかったら帰れないじゃない?

ということで、私は靴下のまま玄関先でストレッチャーを変形させた車椅子に乗った。
エレベーターで1階まで下り、外に出ると、身体をひねって今出てきたばかりの団地を見上げた。

(誰も見てないでしょうね)

急にご近所の目が気になったのだ。
今思うとずいぶん余裕があったものだが、元気でいられたのはそこまでだった。
救急車に乗って仰向けに寝かされた途端、猛烈な痛みが襲ってきたのだ。
背中、だと思う。たぶん。

「んあああ、だめです。仰向けは無理。横を向かせて。右に、右に!」

左向きだと心臓が押しつぶされそうな気がした。
手を借りて身体の右を下にすると、少し楽になる。
私が落ち着いたのを見て、救急隊員のひとりが言った。

「ご家族に連絡しないといけないんですが、息子さんに連絡つきますか?」

息子は大学を出たあと、就職もせずにバイト生活を続けている。
このときはとあるネットカフェで仕事をしており、就業中の夜12時まではスマホを持てなかった。
だったら直接店に電話をすればいいようなものだが、あいにく私のスマホに店の番号は登録していない。
救急隊員が私のスマホを操作して息子に電話してくれたが、やはりつながらなかった。
といって、12時過ぎるまで何時間も彼らに電話をかけつづけてもらうわけにはいかないし……。
仕方がない。
私は窮余の策を持ち出した。

「アドレス帳に元夫の連絡先が入ってますから、そこに電話をして、彼から息子に連絡するよう頼んでください」

とりあえずそれで一件落着。
ほっと気を抜いたら、背中の痛みがいっきに強くなった。
もう右を向こうがどうしようが楽にはならない。
あまりの痛みに呼吸ができなかった。

いや、息を吸うことはできる。
だが、吐けないのだ。
普段は意識していないが、どうやら息を吐くときには意外と身体に大きな負荷がかかるらしい。
背中の痛みのせいで、その力が出せなかった。

激痛で息ができない

息を吸えるのに吐けない。
なのに、これが生存本能というものなのか、身体がかってに息を吸ってしまう。
その息がまた吐けない。
身体に酸素ばかりがたまっていき、肺がパンパンに膨らんで苦しかった。
このままでは窒息する(厳密にいうと窒息ではないが)と恐怖感がつのる。気がつくと呻き声をあげていた。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」

声を出すことで少し息が出ていく。
けれど、呻いたあとすぐに、また身体がかってに息を吸ってしまう。
だからまた呻く。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」

さっきまで呑気に近所の目を気にしていたのが嘘のようだった。
もう頭の中には、なんとかして息を吐き出さねばという思いしかない。
あまりの急変ぶりに、傍らの救急隊員は大声で私を激励しはじめた。

「頑張ってください!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」
「もう少しですよ、もう少し!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」
「ほら、病院が見えてきましたよ。もう着きますからね!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」

病院に着いて救急車の扉が開くと、建物の中から白衣の人たちがパラパラと駆け寄ってくるのが見えた。
そして全員で声をそろえ

「1、2、3!」

掛け声と同時に私の身体を病院のストレッチャーに移す。
わあ、ドラマみたい。
死ぬほど苦しかったのに頭の中はどこか冷静で、物珍しい経験をしっかり観察している自分がいた。

ブラック・アウト

そのままどこかの部屋に運ばれ、横たわったままレントゲンを撮った。
そしてまた移動。
CTスキャンを撮るのに造影剤を入れる。喘息はあるかと訊かれ、10年ほど前に発作が出たことがあると途切れ途切れに答えた。

「造影剤を使うと喘息の症状が出ることがあるんです。いいですか? 使ってもかまいませんか?」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」

すると右側から男性の怒声が飛んだ。
「こういうときはいいんだよ! しょうがないだろ!」

左側から私のトレーナーに手をかけ、袖から腕を抜いている人がいた。
別なひとりはジーンズに手をかけている。
「ズボンと下着を膝まで下ろしますね。ちょっと腰上げて」

いったい私のまわりに何人の人がいるんだろう。
4人? 5人?
けれどもう苦しくて、目を開けることもできなかった。

気がつくと急にあたりが静かになり、どこからかスピーカー越しに機械的な声が流れてきた。

「息を吸って」
言われたとおりに息を吸った。
「止めてください」

こんなに苦しいのに……と思いつつ、必死に指示に従う。
私をのせた台がガーッと動き、止まった。

「楽にしてください」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」
(息を……息を吐かなきゃ)

するとまた声がした。

「息を吸って」
指示に従う。
「止めてください」
ガーッと動く台。
「楽にしてください」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」

苦しかった。
苦しくて苦しくて、まるで拷問を受けているようだった。

「息を吸って」
(嘘でしょ。まだやるの?)
「止めてください」

苦しかったが、それでも律儀に息を止めた。
すると――。


ガシャッ!!!!!


いきなり目の前でシャッターが下りた。
ブラック・アウト。
私は意識を失っていた

緊急手術までの記憶のはざまで

暗闇に沈んでいた意識は、そのあと何度か浮上した。
おそらく名前を呼ばれるかどうかして起こされたのだろう。
けれどその記憶はない。
ふと目を開けると、目の前に医師らしき人の顔があった。

大動脈解離って聞いたことありますか?」

いきなりそう訊かれた。
ダイドウミャクカイリ?
聞いたことはある。けど、ナンだっけ?
よくわからない。
でも、聞いたことはある。
だから、こくりとうなずいた。

「それです」
医師がそう言うのが聞こえたと思ったら――。


ガシャッ!!!!!


また目の前でシャッターが下りた。
後日談になるが、退院後にいろいろな書類を確認していたら、そのなかの1枚に【本人告知あり】と記されていた。
するとこのときの「それです」といった医師の言葉が本人告知ということになるのだろうか。。。

次に意識が浮上したのは、ベッドの足もとでガヤガヤした人声を聞いたときだった。
「輸血しなきゃいけないけど血液型がわからない」
そんな言葉が聞こえてくる。
わあ、大変だ。

「私はA型です」

気力と声をふり絞って言った。
するとひとりの看護師さんに声が届いたらしく、「A型だって」と仲間に伝える声が聞こえた。
よかった。
でも、Rhプラスとかマイナスとかも伝えないとマズイんじゃないか。
と思ったが、その「Rh」がなぜか思い出せなかった。
なんとかプラス、なんとかプラス……なんだっけ。
なにプラスだっけ。
えーと、えーと……。


ガシャッ!!!!!


3度目は「息子さんが来ましたよ」という声で意識が浮上した。
息子が神妙な顔でベッドの横にやってくる。

「ごめんね、びっくりさせて」と私は言った。

いつもと同じ1日。バイトを終えてやれやれと思ったところへ、いきなり母親が救急車で病院に運ばれたと聞いたのだ。
どれほど驚いたことだろう。
​軽いお詫びのつもりで、私はちょっとおどけて続けた。

「あたしさあ――よりによってこんな日に、最低最悪のパンツ穿いてたわ」

CTスキャンの撮影時にズボンと下着を膝まで下ろされた恥ずかしさを、いまさらながらに思い出したのだ。
こんな軽口をきけたのは、あの激痛が去っていたからだろう。
痛み止めを打たれていたのかもしれない。

私の言葉に、息子はあいまいな笑みを浮かべて目をそらした。

あとでわかったことだが、このときの息子は医師から病状の説明を受けた直後だった。

お母さんは緊急手術をしないと命にかかわる状態だ。
何も治療をしなければ2日で50%、2週間で80%以上が死に至る。
手術中の死亡率も10%前後ある、と。
さらに、起こり得る合併症(脳障害、腹部臓器障害、心不全、呼吸不全、出血、感染、下半身まひ、などなど)の説明も受け、さまざまな同意書、入院等に必要な申込書などの書類10数枚に署名し、思いっきりテンパった状態で私のところへ来ていたのだった。

なのに、命にかかわる状態の母と顔を合わせたとたん、当の本人の口から出たのがパンツの話だ。

(なんだよ、カァちゃん。案外ゲンキじゃねえかよ)

息子は心の中で思わず声をあげたという。
だが、そんな内心はけぶりも見せず、息子はさりげなく言った。

「お父さんも来てるんだ」

これもあとで聞いた話だが、この日、元夫は翌日の仕事が朝早いため、夜10時すぎには酒を飲んで早々に就寝したという。
そこへ救急隊からの電話。
驚いた彼は息子のスマホに何度も電話をしたが、就業の12時まではやはりつながらない。
こうなったら俺が行くしかない。
元夫は着替えてタクシーに飛び乗り、病院に向かった。
その途中でちょうど息子と連絡がとれ、仕事終わりの息子をピックアップして、2人で病院に来たということだった。

お父さんも来てる、という息子の言葉を聞き、
「じゃあ、呼んで」と私は答えた。
血液型が云々という話を耳にしたとき、おそらく手術になるのだろうとぼんやり予測していたので「万一のときは息子をお願い」と、どうしても元夫に伝えたかったのだ。

​これもあとで聞いた話だが、元夫は初め、息子と一緒に私のところへ来ようとしたらしい。
ところが看護師さんに
「いまは血圧をギリギリまで低く抑えてありますから、血圧の高くなるような話は絶対にしないでくださいね」
と釘を刺されてハタと足を止めた。

「じゃあ、俺は顔見せないほうがいいよなあ……」

後日この話を聞いて、私はまさしく「ちょwwwおまwww」​状態。
離婚して10年、どうやら彼はそうとう深い内省の日々を送ったようだ。


それはまあともかく、お呼びがかかっておそるおそる部屋に入ってきた元夫に、私はさっそく切り出した。
「あのね、もし私が死んだら……」
すると、息子がギョッとしたように私の言葉をさえぎった。

「何言ってんの。大丈夫だよ!」

すごい剣幕……。
もしかしてあたし、ほんとにヤバイのか?
と、思った次の瞬間――。


ガシャ!!!!!


午前3時、私は意識のないまま手術室に運ばれ、12時間後の午後3時に出てきて、ICU(集中治療室)に移された。

命にかかわる状態から、からくも生還を果たしたのだ。

(②につづく)



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