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「コンプレックス・プリズム」を読んだ話。


今回は、読むのは2冊目となる
最果タヒさんのエッセイ
「コンプレックス・プリズム」
の感想です。

初めて読んだタヒさんエッセイ
「『好き』の因数分解」の感想はこちら。



こちらの「コンプレックス・プリズム」、
再読なのです。
以前読んだときは、あまりに自分のことと照らし合わせすぎてどっから感想に手をつけていいのかまとめきれる自信がなくて放置したんだったなーそういえば。
などと色々思い出しながら読み返してみました。

「『好き』の因数分解」よりは少々重ための印象の
「コンプレックス・プリズム」



タヒさんの、言葉の選び方が好きです。

言葉の扱い方、がたまらない。

私は文章を考えているとき、「ここはあんまり綺麗に終わらせたくない部分なんだけど…なにか良い言い回しがないかな」とよく悩むのですが、
タヒさんの言葉を読んでいると「ああ、ここのこういう表現はすき」と思うことしばしばで。
いちばんわかりやすい例だと、ちょっと独特な句読点の付け方なんですけど。
その表現を用いることで、断定じゃない、自分側だけではどうしようもないことを言いたい、タヒさんの言葉が私に伝わるまでの「ワンクッション」な何かが生まれる気がするのです。
もちろんわかった気になんてなれないけれど、タヒさんの「どうにか伝えようとしたかったもがいている感覚のようなもの」が、文字として伝わってくるような、そんな気がするのです。
なんとも抽象的な表現だなあと自分でも思うけれど、まあこういうものは抽象で受け取るもんですよね、って、半分は委ねるなどしてみる。

タヒさんの「自分というもの、または自分のような何か」を掬いとる純度の高さにはいつも驚かされます。
タヒさんの言葉を読んでいると、「私は私のことなど、何も、ちっとも、分かってはいないのだ…」と思わされて、少しだけほっとするような、でもやっぱり複雑な気持ちのような、何とも言えないものが生まれます。

私は自分の中のぐるぐるを扱うので日々精一杯だからなのか、エッセイというものを積極的には読まないんですが、最果タヒさんのエッセイは読んでしまうんですよねえ。


以下、引用多めの感想


振る舞いや言動に才能を感じるってなんだ?
作品や結果でなく人間に結びついた才能に、なんの意味があるのですか。

これは、分かりすぎるというか… 私についてなど何も話したくはなくて作品だけで見てほしいと思っていて私自身と私の作品を同一化しないでくれお願いですという、いっそ傲慢ささえある考えに苛まれて悶えまくっていた時期が不肖にもあるんですが、私自身と私の作品を同視しがちなのは自分自身もなのですよね。もちろんずっと悶えています。



自分のことは大切だ、自分が管理しなくちゃいけない存在だし、育てている存在とも言えるし、執着はある。でも、好きか嫌いかで判断する相手ではないように思ってしまう。
だって好きだろうが嫌いだろうが、どうせここにいるのだし。

ここ すごいなって。

好きでも嫌いでもなく、管理する対象 には
「それだ!!!!」となるし

だって好きだろうが嫌いだろうが、どうせここにいるのだし。
には 「ほんと それ 笑笑」となりますね。

なぜ自分を好きとか嫌いとかいう物差しで測ってしまうのか。「自分を大事に」の定義は、もっと「然るべきときに適切な処置を」ぐらいの距離感がちょうどいいのではないか。 とかいろいろ、ねえ?できんから悩むんだけど。



「何もしたくないわけではないし、
できないわけでもないが、しない日。」


という項があるんですけど、
ふぅん私のことが書いてあるな。
と思うほどに一文一文がぶっ刺さってきました。
そういう人多いんじゃないかな。


目標を持てとか、持つなとかみんなうるさい。
-
なんにもしてない、なんにもしてないから疲れる、なにがしたいとか充実したいとかじゃない、したくない、って気持ちもあって、それがでもそれだけじゃないから、長いため息が出る、そのことを誰もなにも語ってくれなくて、世界はずっと目的と過程と失敗と成功に満ちている。
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生きることの辛さみたいなものを描いた作品を読むと、自分のは辛いとかではないのではと思う、どっちかというと「だるさ」なのかもしれず、でもそのだるさが自分を侵食して辛くてたまらない、価値のない徹夜をした時に見る朝の光や、通学路を走る子供たちの背中とか、そういうのをみて、生きるって大変、とかではない言葉が欲しい、と思う。


自分はわりと「生きるのが辛い」というよりは「生活するというものがだるくてめんどうでそう思うことにすら飽き飽きしていて」と思いながら日々を過ごしている方ですが、上記の文章を読みながら「ああこういうことだったのかもなあ」と、腑に落ちたような感覚になりました。
「やり過ごす」って大事だと思っていて。
耐える…ともニュアンスが違う、「ただ、居る」がいちばん近いかな…… 私は何となくいま、生きるのをやり過ごすようにしてます。だって居るのだからもうしょうがない。



他人を愛することが、まず素晴らしいと言われてるのがおかしい。
-
ただの二人の関係性でしかない、そこに普遍的な価値をつけようとすること。不気味だ。儀式的なもの、美しいものとしなくてはいけないという打算に疲れる。愛を、他者への暴力だと思って扱える人じゃないと、信用ができない。
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人と人は永遠に関わりあうべきなのです、と言われてつらい。愛し合うために人は生まれたとか言われてつらい。


まあまあ荒んでるときにこのあたりの項を読むと「ウワアアアアンワカル」となるのでいいですよ。
でもこういう…自分のことと照らし合わせるっていう作業が気持ち悪いな自分…、とはちゃんと思っていて。人の言葉や気持ちを借りて自分を正当化しちゃったりする所業ほど吐き気がするものはないと思ってるんで、ちゃんと自分を気持ち悪いと思ってます、はい。大丈夫。そこ忘れないようにしないと。もうずっと正論がこわくて仕方ないんですよ。


さて
ここまで長すぎて引いています。私が。

まだもう少し他の項の感想もあるんですけど、引用がとめどないし既に収拾がつかないので、一応まとめたかった部分は書けたのでここでひとまず撤退を。


「ああ 同じようなとこ引っかかって、似たような気持ちになる人 居るんだな、そっか」
って ちょっと思考を整理させてくれるような、
最果タヒさんのエッセイ

ぐるぐるしちゃう人に、おすすめです。


ここまで読んでくださりありがとうございます。
(大変お疲れさまです)

それでは。

「コンプレックス・プリズム」を読んだ話。


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