見出し画像

雨の日に 美しき愉しみを

第12週 6月24日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、何故か24日の“ヨハネ祭”シバリです。そこに何かが潜んでいるかもと考じました。日本では馴染みのないヨハネ祭ですが、洗礼→水→梅雨→全体性と、やや強引ではありますがヒントを深掘りしてみました。

では、読み解いてまいります。

JOHANNES=STIMMUNG (24. JUNI [1912])

12.
Der Welten Schönheitsglanz
Er zwinget mich aus Seelentiefen
Des Eigenlebens Götterkräfte
Zum Weltenfluge zu entbinden;
Mich selber zu verlassen
Vertrauend nur mich suchend
In Weltenlicht und Weltenwärme.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912

  

  ヨハネ祭の情景

  美しき世界の輝きは
  心の奥底ですべてとつながろうとする
  私のなかの大いなるものの力を解き放つ
  表現される世界へと羽ばたくために;

  私自身から私は離れ
  私の使命だけを信じるのだ
  光とあたたかさに包まれて。



 
ヨハネ祭り

カレンダーをみると、「もう半年が終わってゆくかー、早いなー」とつぶやいてしまうこの時期。あっという間に過ぎてゆく時への焦燥、何もできていないという苛立が出てくるかもしれませんね。あなたは、どうでしょうか?

ヨハネ祭りは、夏のクリスマスとも呼ばれるそうです。ですから、すこし浮かれた気分と感謝を伝える日として、この日を迎えるというのもいいかもしれませんね。でも、すこしひねくれた視点でみていきたいと思います。


ヨハネは、ヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けたそうです。アル=マグタスという遺跡が残されていて2015年に、洗礼の地「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」の名で、ユネスコ世界遺産にも登録されています。

洗礼の地ですから、さぞかし清らな水が流れているのかと思えば、現在では環境問題の影響などで水は濁ってしまい、洗礼の地とは、ほど遠いものになってしまっているそうです。残念な事実ですね…。

地にとって水はそのラサである、あるいは、大地にとってその最も深い切願は水としてあらわれている、という時、またそれにつづいて水にとって草木はその精であるいわれる時、そこには人間はまだ登場してこないにもかかわらず、なぜかもうそこに人間がいても不思議ではないある予感、ある沈黙の風景のようなもの、がある。水と草と木があれば、そこはもう限りなく人間に近く、人間がいても少しも不思議ではない世界である。

「水が流れている」山尾三省 著


本来、ヨルダンの洗礼の水には、精なるものが宿っていたのでしょう。人類がこの地球上に顕れる以前には、水と草と木の精への宿りがあり。森羅万象の美しき輝きには、地にとって水はそのラサである、あるいは、大地にとってその最も深い切願は水としてあらわれている。という、精なるものとしての水は特別なものだったのかもしれません。

水があなたに施しているものを想い出してみてください。普段から口にする水ですが、さらに根本的なところを探ってみると、大いなるものとのつながりは非常に深く、美意識を感じるエレメントとしても重要なものと感じられますよね。

その水を思考することから、今週の詞(コトバ)をみてゆくと理解しやすくなるかもと思いました。




梅雨どきの散策

雨の中。自然の中を散策する愉しみに興味を持ってほしいと切に願います。

まず、水が入ってこない靴を履き、できれば、傘ではなくカッパを着て自然の中に入ってゆきます。

頂上を目指す登山ができない日でも、自然豊かな湖畔などを静かに散策するのは、もう最高なのです!そのような大自然ではなくても、街中の広い公園などでも、いつもとは違った小さな風景に出会えるのです。

こういうことをいうと、いつも変人の目でみられ、その体験のワクワクする素晴らしさを伝えるのに苦慮するのですが…

「森へいってみましょう。
キツネかシカが見られるかもしれないよ」

わたしはそういうと、ふたりで黄色い防水コートを着て、
雨よけの帽子をかぶり、なにか楽しいことが起こりそうな期待に
胸をふくらませて外にでていきました。

『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン著


「雨の日は、森を歩きまわるのにはうってつけ。」とは、私ではなく、私が敬愛する有名なアメリカの生物学者であり、環境運動の先駆者としても知られているレイチェル・カーソンさんが、おっしゃっているのです。

雨の日は、どうしても外に出ることが億劫になってしまいがちですよね。でも、そのような日こそ、一歩、外に踏み出すことによって新たな自然に出会えるかもしれないのです。ふさぎこんでいるようにみえる自然の中に、石の上に描かれた銀色の輪。骨やつのや貝がらのような奇妙な小さな模様。まるで妖精の国の舞台。等々、雨の日にしかみれない造形物たち、実際にそれらを発見し観察しにいきませんか?

何かワクワクしてきませんか?

といって、雨の日の散策に誘い出したこともありました。

でも、やはり、この季節でも雨に当たるのは寒いですし、雨の中で食べるおにぎりは美味しくないですし、晴れの日に味わえるであろう爽やかさのカケラもありません。たしかに、雨の音や匂い、植物が雨に洗われていく光景、そしてその中で感じる静けさや癒しなどは、五感が刺激され美しさに溢れているのですが、少しマニアックなのかもしれません。

いきなり大勢の人を誘ったりするのはオススメできません。にぎやかなピクニックとは違うので、テンションが低い場合に収拾がつかなくなる可能性もあります!

無理せず、一人でいくか、純粋な子ども心を忘れていない人を誘うか、興味を持ちそうなお子さんと二人きりなどで。静かに、自然の中にはいってゆき、佇むのをオススメいたします。




2024年6月アメンボ



水によって清められる

雨の中を歩く効能として、“清め”もあるのだと思います。

雨にうたれて自然の中に佇んでいると、次第に無心になってゆきます。おそらく、水というものは、自分と自然をつなぐ物質をもっているのではないか? 実際に水が何かの伝達機能があるのか、雨音のホワイトノイズの影響なのか?は知らないのですが。心が軽くなり清浄感をえて、いわゆる自然との一体感がえられる体験を何度かしてきました。あなたもそのように感じたことはありませんか?

自我から自分自身を切り放し、自分の使命をみいだし、それを信じていきてゆく。すごくシンプルなことなのに何故かそれができずに、苦労や悩みをかかえているのが現実ではないでしょうか。

かつての賢者たちが水を通して思考し実践してきたことを学び、果てない循環の内にいる、あなたを感じとる必要があるのです。



雨にうたれ

水の美しさに気づく
余計なものを水に流す、赦す
水によって生かされる
あなたの内にも水が流れている

私自身から私は離れ
私の使命だけを信じるのだ  

雨上がりの光とあたたかさに包まれて




外にでなくとも家の中でボーッと雨音を聴いているだけでも
愉しめますよね!

雨の日を愉しんでいきましょう!

雨の一粒一粒が、まるで大いなるのもからの贈り物のように肌にふれる。ヒンヤリともに感じる涼しさが心を満たし、静かに流れる水音が心のざわめきを落ち着かせる。

その瞬間、あなたは無限の循環の一部となり、心に新たな光とあたたかさが差し込んでくるのを感じることでしょう。



シュタイナーさん
ありがとう

では、また


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?