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11か月後のトリップ

《十八時を告げるサイレン。棘のある室内の涼しさ。換気扇のまわる音。》
 
 私は旅行に興味が無い。いまこうして、人に旅を薦める小稿を書いているのも、お盆休みの真っ最中。自宅に引きこもってのことである。
 
《二日ぶりに外にでる。暑さ、日差し、というよりも空気の塊にぶつかったようだ。》
 
 これまでの自分の人生を振り返っても、旅行と呼べるものは修学旅行くらいで、昔のアルバムを開いても、旅行の写真なんてほとんど見当たらない。意識的に旅行を避けてきたとまで言える。
 それは、自然発生的な、あの集団行動に嫌気が差すからである。なんだか自分が水族館の小魚のようで、右に左にと皆と同じ動きをすることに吐き気を催す。しかも、我勝ちに写真撮影のベストアングルの取り合う姿なぞに巻き込まれてしまえば、「写らないように、写らないように」と体中に目が生えてくる。これでは、カネを払って不快になるだけのことだ。『観光スポット→自撮り棒で写メ→SNSにアップ♪』が価値定立され、市井の旅概念は、思い出スクラップの大量生産工場となっている。
 それに、交通機関やインターネットの発達によるところも大きい。鉄板に抱かれてどこまでも行けてしまうことで、距離の観念が薄らいでしまうし、あわせて、グーグル・ストリートビューにより、《ここに-ある/いる》という景観の現前性が曖昧になる。遠出をしてまでも旅をすることの意味が薄れてきている。
 
 《歩く。筋肉の動き。ポケットの重み。引力が、いま・ここにある。》
 
 私と同じように旅行に興味のない人はきっといる。それはきっと、旅行という文字記号に変化がないにも関わらず、中身が丸っきり変わってしまったことに戸惑いを持っているからであろう。
 そこで、私は旅行に興味を持てない人たちに、旅行の面白さを見出すための方法を紹介したい。題して、「ミニマル旅行」である。
 
《苔むした暗渠。ミンミンゼミが鳴いている。オレンジ掛かった光景。》

 旅とは、①自らの身体(特に足)を用いて、②五感的に素敵なものに出会うこと、だと考える。他人による価値付けなど、余分な要素を排した、原理的な旅。それがミニマル旅行である。お金も準備も何も要らない。
 旅行には興味がない、とは言いつつも、この、散歩の延長線上のような旅行は昔からしばしば私を引きつけてやまない。
 近所、またはどこか知らない駅で降り、当てもなく、なんとはなしに歩く。失くし物を探すように、未だ見ぬ宝物を探すように。それだけ。
 特定の目的設定がないだけに、名所礼拝への強迫症的な義務観念もなく、その後の虚無も無い。自分が惹かれたものを好きなだけ楽しむ。それだけ。
   ◆
 それでは、これから散歩、いや近所へ旅行に出かけよう。
 時刻は十八時。大雨の翌日ですから、空はきっと素敵な夕焼けだ。

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