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おれもおまえもどうせすぐ死ぬ、だからこそ_2024/07/10

暑すぎるっす。暑すアギト。暑すG3。


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終わりの利用について

何事にも終わりはあるが、その終わりがあまりにも遠いと、それは永遠になる。

たとえば、私たち人類はいつか滅びる。核戦争、温暖化の進行、太陽の膨張、宇宙人による侵略……など、原因はともあれ、人類が永遠に・・・存続する、なんてことはまずありえない。

とすれば、人類は何のために今も子孫を残していこうとしているのか? いつか終わりが来るとわかっていながら、どうして私たちは人類を永遠に・・・存続させようとするのか?
本能、と言ってしまえばそれまでだけど、じゃあその本能は何を目的・目標としているのか?

私たちはふつう、なにか目標を定めて生きている。今の私だったら「大学受験に合格する」だし、一般的には「素敵なパートナーと出会う」とか「週末にコンビニスイーツを食べる」も生活における目標として十分に機能しているだろう。
マクロ/ミクロの違いはあれど、おおむね私たちは目標を定めて、そしてその目標を達成するための行動を重ねることで、生活を形あるものにしているのだ。

私たちの命は永遠ではなく、いつか絶対に終わりが来る。
私もせいぜいあと100年もしたら確実に死ぬ。もちろんあなたもその例に漏れず、100歳まで生きられれば御の字、という程度だろう。「ジャネーの法則」というものがあって(これが現代科学に耐えうるものかどうかはともかく)、主観的な時間感覚では、20歳の時点で人生の半分を終えていることになるという。つまり、客観的な20歳は主観的な50歳に等しい、というわけだ。

このように、私たちには時間がない。けれども、だからこそ、目標を達成しようとがんばれるのだ。(あなたもよく知っているように)期限がないと、いつまでもだらけてしまう。寿命という時間的な制約があるからこそ、私たちは人生における目標を達成できる。
永遠の時間があればなんだってできるが、本当にこの時間が永遠だったら、私たちはなにも成すことができないだろう。

私たちの欲望は尽きることを知らず、完全に・・・満足できる人生など実現しえない。なので、私たちの側から、そこにある自分のそれまでの人生に満足する、という姿勢をとらなければならない。人生を自分の満足に近づけるのではなく、満足を自分の人生に近づけるのだ。
私たちは自分が死ぬときに満足できるように人生を送る(…①)が、そんなことは不可能なので、死ぬときにそれまでの人生に満足するように自分の気持ちを操作する(…②)必要がある。とはいえ、②は①なしでは成り立たず、ある程度がんばって①をしていないと②は不可能である。だから私たちはがんばっているし、がんばる必要がある。

しかし、視点を人類単位に拡大すると、この理論は適用できないことがわかる。
小さな目標を立ててそれを達成する、という形で人類が歴史を進めてきた(ように見える)のは明らかだけれども、個人の人生と人類の歴史では決定的に異なる点がある。そこに終わりがあるかどうか、である。

これを正確に言い直すと、次のようになる。そこに終わりを想定しているかどうか、あるいは終わりがあるように見えるかどうか、が、個人の人生と人類の歴史との間に深い断絶をつくっている。
冒頭で言ったように、人類はいつか滅びる。人類にも終わりがある。ここで一番初めの文章に戻る。「何事にも終わりはあるが、その終わりがあまりにも遠いと、それは永遠になる」。人類の終わりは個人のそれと違って果てしなく遠いところ(蓋然性的にも時間的にも遠いところ。核戦争などは起きるかどうかが不確定だし、太陽の膨張も数十億年先だ)にある。そのため、私たちはあたかも人類が永遠であるかのように錯覚してしまうのだ。

「あした地球が滅びるとしたら何をする?」というよくあるトークテーマがある。この質問に対して、私たちは(メタ的にふざけるやつは置いておいて)私たちが最も幸せを感じるであろう行動を答える。
こうするのは、「あした」という時間的な制約が設けられているからこそだ。「今から100年後に地球が滅びるとしたら~」でも、100年後は想像力の届く範囲内であるから、まだ答えようはあるだろう。だが、「今から10億年後に~」となるともう想像力の射程外だ。何をするか、何をすべきか、なんて答えようもない。

だから、人類には必ず終わりが来る、ということを強く意識しなければならない。そのことを意識して初めて、個人の人生と同じくらい現実的に人類の歴史について考えられるようになり、結果として、より良い社会への道が見えてくる。
さっきの「あした地球が滅びるとしたら何をする?」という問いを個人ではなく人類全体に対して発すると、人類が最も幸福であるためにはどうすればいいか、ということを考える必要が出てくる。人類の歴史(↔️個人の人生)に完全に満足しようとする(=②)ためには、できるかぎり・・・・・最高の状態、すなわち人類が幸福な状態で終わる(=①)必要があるからだ。さっきも言ったとおり、②は①なしでは成り立たない。

私はすべてのものに終わりがあることを強く意識して生活しているが、終わりがあるからなにもかも無駄、と諦めているのではない。むしろ、終わりがあるからこそがんばろう、がんばらなければいけない、と思っている。
ニヒリズムは負の感情のためのダストシュートとして使うべきで、正の感情を雲散霧消させるのに使うのはよくない。

終わりがないのはつらい。ずっとがんばり続けなければならないし、何のためにがんばっているのかよくわからなくなるからだ。
命の終わりをある程度意識している私たち個人でさえ、ときどき何のためにがんばっているのか見失ってしまうというのに、永遠の人類に目標を捕捉することなんてできない、よってそんな人類は幸福にもなれない。幸福になれるのは、滅亡を意識している人類だけである。

人類は、個人で言うところの「将来の夢」のような大きな目標を掲げて、そこへ向かって自分たちの社会をより良くしようとがんばるべきだ。そして、そのためには、終わりが強烈に意識されていなければならない。
私たちに終わりを意識させる方法には非合法的なものもたくさんあるが、私個人としては、創作によって人類に終わりを内在化させていけたらいいかな、と思っている。
みんなこれからもがんばりましょう、私もがんばります。


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ボウリングへ行った。期末テスト終わり、7人。投げ放題プランみたいなやつで13ゲームやりました。おかげで主に腕が筋肉痛です。はい。

私は小学生の時に家族で行って以来一度もボウリングをやってなかったので、初めのほうはガターばっかりでしたが、最終的なベストスコアは88でした。微妙だね。
Yくん(卒業が危ぶまれている)とかはめちゃめちゃ上手かったな。帰宅部のくせによお……!
MVなどが映し出されるあのモニターに男女がいちゃつくMVが流れて、みんなで悪態をついていた。とはいえ私含めて(!)交際経験者が少なくとも4/7人はいたんだけどね。まあこういうノリはおそらく今しかできない。儚い。

あと昼食にバーキン行きましたね。ダブルチーズワッパーを食いました。美味しぁ、美味しぁ……。


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「おおきに」っていいよな。


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noteのことが、好きだっ……///

私が18年とちょっとの人生でその影響を受けてきたインターネットというのはたくさんあって、例えばオモコロ、しーさー、ゆる言語学ラジオ、雷獣(主にベテランち)に私は多大なる影響を受けている。ここに、最近はnote(のみなさん/という場所)が入ってきている気がする。

エッセイや短歌や小説みたいな作品を読む場としてのnoteも好きだけど、それ以上にnoteは生活と結びついているところがいい。生活っていい。
こんな作品をつくる人がこんな生活を送ってるのか~とか、こんなこと考えて生活してる人がこの世界にはいるのか~とか、いろいろ思うことができてつい嬉しくなってしまう。

こんなにもいい文章を書く人がこんなにもいるならまだ大丈夫、と希望をもてている、という部分もあるな。


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英語の先生にカロメもらった。壱百満天原カロメ。

先日、期末テストで怒涛の5科目の日があって、私は諸事情により別室でひとりさびしく受けていた。昼休みになって、私はごはんを食べずに世界史を(それはもう)ごりごり詰めこむ。世界史が非常にやばかったからなんですね。そしたら試験監督の先生に昼食はどうしたんと訊かれて、持ってきてないですと答えたら、なんとカロリーメイト(チョコレート味)を頂いちゃった。

普段は寡黙というかいっけん無愛想な感じの先生なので、ちょっと驚いた(ただし、私は授業を受けているなかで、無愛想っぽい振る舞いの奥に潜む悪意のなさを前々から見抜いていた!)。

人から何かをもらうのって嬉しい(特に食べ物)。私もここぞという時に無印のちいちゃいお菓子などを配れるような人間になりたいものですね。道は険しい。


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ことばは時に、その核心を言い表すことができない。しかし、それは表現できないことを意味するわけではない。寓話や比喩、他者の発言の引用など、状況の丁寧な描写によって、端的な表現には還元できない情念の深さも伝えることができるのだ。

筑摩の教科書『文学国語』の文章。いいこと言うね~。

この教科書、載ってる文章のセンスもいいんだよな。中島敦、夏目漱石、穂村弘(よりによって「サバンナの象のうんこよ」の歌だった)、三島由紀夫、谷崎潤一郎、森鷗外、安部公房、太宰治、村上春樹、大江健三郎……。しかし授業では小説を一切扱ってくれない! 日本の教育を改革しよう!(withヨビノリたくみ)


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「セッション」の鬼教官?


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友人に「結城って物書きっぽいよな」と言われて、いや今まで隠してたけどおれ実はnoteやってますって告白するか?とか逡巡していたら、「もちろん今は物書きじゃないけど、将来なりそうやな、知らんけど」と言われて、嬉しいような悲しいような感情になった。

「物書きっぽい」と言われたのは素直に嬉しいとして、「今は物書きじゃない」と断定されたのがちょっと悲しい。物書きっぽい雰囲気だけど実際は何も書いてないだろうな、と判断されたのでしょうか。まあnoteを「物」に入れていいのかという議論はありますが……いやnoteを書いてるおれたちも立派な物書きだよな。私は物書きです、文筆家です。bioに書こう。

あと、このnoteを友人(リアルの知り合い)に対して公言するかどうか問題もあるよな。おれっち学校ではクールキャラで通ってるからさ、、、友人にこのnoteを見せたらどんな反応をされるんだろうか。クールキャラ保ててますか。まあべつに公開しても構わないけどね。自己開示って大事だから。
とか、気が早いけど、大学生に無事なれたとして、TwitterやInstagramなどのアカウントをどう運用していくか、という問題もある。現在はどっちも友人には秘密にしているのでどうにでもできるが、どうなのかしら。いまどきの若者のSNS事情がよくわからんな。LINEよりもインスタなのかい? おじさんに教えてほちぃな。TwitterはほぼROM専だし、インスタはガチの写真用アカウントとして利用しているから本当にわかんねえよ。インターネット上の人格とリアルの人格にあまりにも乖離があるとみんな引いてしまうのかな。というかそれぞれの自分がどんな人格なのかもよくわからない。客観視をしきれていないからだ。少なくともインターネットの人格よりリアルのそれは大人しい気がする。こんなにも心の内を喋ることはできていない。学歴についての話や教師への愚痴などをインターネットスラングで覆ってそんで笑い合ってるだけ。


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どこからか「トマホーク」という声が聞こえてきた。
私は「トマホークチャンネル?」と言った。
Tくんは「トマホークミサイル?」と言った。
Hくんは「トマホークステーキ?」と言った。
3人の声は重なってなんか逆位相になったりして消えた。


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あちっ。


よっ。


ラブリーサマーちゃんみたいな声で好き(このように表現するのは失礼にあたるのか、どうなんだ)。


いいですねえ~。


やなぎなぎverのメルト、あまりにもよすぎる!!
「恋に恋なんてしないわ わたし」の部分いいよな。恋愛の動機には「相手への恋」とは別に「恋への恋」がどうしても付きまとってしまうんだけど、このミクはそうじゃないと言っている。これでもかというくらいに真っ直ぐな純愛だ。


よすぎっ。


これも好き。
ごちごちにアニメーションじゃなくって、こういう一枚の立ち絵を主として展開していくMV、好きですねえ〜。

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