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仕事の意義

学生時代からその分野を研究していて、自分の興味ある領域と一致しており、その延長線上に今の仕事があり、満足のいく収入を得られている。
というのがひとつの理想形ではあると思うが、それら全てを満たせている人は、おそらくほんの僅かであろう。仕事自体は好きだが、収入が満足に得られていない、或いは収入は満足だが仕事そのものは苦痛である。たいていの人間はそうではなかろうか。

ここで、仕事内容もさして面白いものではないし、収入も人並だが、そこで共に働く人間が好きだから、それに救われているという層が存在する。これを含めれば、労働者人口のおそらく6割程度は、何らかの意味で幸福を感じており、そこに仕事の意義を見出せているのかもしれない。

さて本題である。上記全ての要素からも溢れてしまった者は、いったい何に仕事の意義を求めれば良いのか。
ここで、すぐと無業者に転落するのは、どうか立ち止まってみてほしい。
「どう食っていくのか」等と問うているのではない。
哲学的に生きることを実践していく上で、何らかの形で社会と繋がっていることは、やはりどうしても必須要素になるからである。

そして、何も「哲学的に生きる」等と大それた命題を掲げなくとも、それを頭の片隅に常に置いておき、仕事は時間を金に換える手段でしかないと割り切り、四六時中趣味のことばかり考えている。それで全く構わないのだ。私なぞ、音楽とオーディオのことで頭の8割9割は埋め尽くされている。

それでも、やはり時折何かをきっかけにして、昔自分が抱えていた哲学的命題に思考が集中してしまう時期がやってくる。私は凡そ10年ぶりに、中島義道氏の著書を再読し始めた。
私の過去の教訓を言えば、このような時に、書物と自らの思考に全てを依拠するのは、並外れた精神力を持ち得ていない限り危険なのである。

ここで、日々の生活が、やり慣れた日常の仕事が、ちょうどいい緩衝材として機能してくれる。哲学を「する」上での、小さな実験の積み重ねの場となってくる。
周囲と些細な衝突があったとする。私は今、怒りを露わにしているのかもしれない。が、その三歩後ろに、その私の心の動きを観察する写像を打ち立てるのだ。以前、表現とは間接的に他者を巻き込むことによって成立すると書いたが、「哲学的に生きる」ことも、全くそれと同じであると思っている。

一般的に大きな誤解があるように思う。仕事第一主義に考える者からは、仕事が上手く行かないから、趣味に逃げ込むのだ。哲学に傾倒してしまうのだと。
そうではない。むしろ、仕事であれ趣味であれ、一方と適切に向き合うことの為に、もう一方を上手く利用するのである。
よって、私にとっての「仕事の意義」とは、仕事以外のことに適切に向き合う為にあるとも言えるだろう。

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