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母と生きる

初めての電子書籍を出版した日、母の癌がみつかった。

かかりつけの町医者や近所の総合病院でレントゲンをとってもわからなかった母の病。
電子出版をだしたその日は紹介状を持って少し大きな病院へいく日となった。病院の検査は3時間位かかるだろう。その間に出版されていれば好都合。それにもし、母が重病だったとしたら、電子書籍どころでなくなるかもしれない、出すなら今しかない。

そう思いながら、Amazon の電子書籍出版用の最後のボタンをクリックし、母と病院へ向かった。

母が体調悪いといい始めたのはいつだったか覚えていない。なぜならば、いつも体力がなく、体調がすぐれない、疲れたが口ぐせの母。しかし、3月あたりから、体調がすごく悪そうだった。お腹が張って仕方ない。胃が圧迫されているようで苦しい、食事もできないと繰り返した。


「腸活」という言葉が浮かぶ。きっと年齢のせいで腸の動きが鈍くなっているのだろうと勝手に判断した。だるそうにしている母を横目に私は現実逃避のごとく仕事に没頭した。私は自分にしか興味がなかった。


ある日、仕事から帰ってきた私に父が言った。

「今日、ママとS病院にいってきたよ。レントゲンでみたら、便が上のほうまで詰まっているんだって」と笑いながら言った。

私はその日に両親が病院に行くことを知らなかった。とても驚いた。母は具合が悪いのは本当だ。だからこそ、父に頼んで病院へ付き添ってもらったのだろう。忙しそうにしている私には頼めなかったのだ。

ただごとではない。この時、直感で、便秘という診断は絶対に違うと思った。

情報を得るために本屋に行った。パラパラと本を見ながら、もしかしたら、胃腸に何かできているのではないか、それが腫れて苦しいのではないかという考えが浮かんだ。とりあえず流行りの「腸活」の本を2冊買って帰る。何かヒントがあるかもしれない。

こんなにだるそうな母を今まで見たことがない。少し動くとだるいと言って、すぐに横になってしまう。母は「CTを撮りたい」といった。CTならば原因がすぐわかるかもしれない。いくら払ってでもいいからCTをといった。

それならば、どこかCTがとれる病院に連れていきたい。どうやって?ネットでいろいろ調べてみたが、ピンとくるものがなかった。何よりも知らない病院へ行くことが怖かった。
近くに住む親せきのことが頭をよぎる。家族が長く闘病生活していたからいろいろ知っているかもしれない。電話してみる。
聞けば、比較的近くの病院にとってもよい胃腸科の先生がいるからみてもらうといいのでは?と言われた。話をきくと、対応がしっかりしていて、優しい先生だという。他の選択肢がまったく思い浮かばない今、そこで見てもらうのがよいと判断した。というよりももう、出来るだけ早く病院に連れていき、CTを撮って母の体調が悪い原因をつかみたい。

紹介状がないと入れない病院なので、かかりつけの町医者へ行き紹介状を書いてもらうことにしよう。金曜日の夜だったのでまずは月曜に病院へいくことを母と決めた。

月曜の朝。

9時にかかりつけ医のもとへ向かう。歩いて20分ほどの場所だか、母は苦しくて歩けないからタクシーで行きたいといった。今更ながら、母の体調がこんなにも悪くなっていることに愕然とする。どうしてもっと早くに気が付かなかったんだろう。
病院に到着すると、受付の人が、「やはりまだ・・・具合悪いですか・・」と少しびっくりしたように話しかけてきた。朝、一番だったこと、普段は一人で病院に来るのに娘の私を連れてきたことで、ただごとじゃないと察知したのだろう。

すぐに診察室へ通された。「今までみてもらっていたけれど、全く改善されない。なにかほかに原因があるかと思う。M病院の胃腸科のK先生に診察してもらいたい。紹介状を書いてほしい」と私は努めて冷静に言った。本当はずいぶん前から母はこの先生にCTが撮りたいと訴えていたのに聞き入れてくれていなかったと後で知った。
かかりつけの医者はびっくりしたようだったが、すぐに手配をしてくれた。金曜日の10時に予約が取れた。紹介状も書いてくれた。金曜日にM病院へ行ける。

そして金曜日がやってきた。

私にとっては初めてのM病院。母は何度か通ったことがあるとのことだった。初耳だった。受付をすまし、診察を待つ。病院の空気はどうしようもなく重苦しい。意味もなく母に話しかけた。動揺しないように、母がリラックスできるようにした。しかし、それは自分をおちつかせるためだったのかもしれない。

順番がきて、診察室へ通される。「Mという親戚から紹介された。先生に是非、診てほしい」とあいさつをする。落ち着いた優しい口調の女医さんだった。どんなふうに調子が悪いのか問診をした。

そこでの先生と母とのやり取りの中で、昨年、痔の手術を行うために入院の計画があったことを初めて知った。もうずっと前から別の箇所だが具合が悪く、一人で通院していたんだ。入院話があったことなど私には何も言っていなかった。私は母のことを何も知らない。

先生は母に横になるように言い、張っているお腹を触った。それから、まずは血液検査、レントゲン、こちらの希望でもあるCTを撮りましょうと言った。普段は予約でいっぱいですぐにCTはできないけれど、空いているはずだからやりますねと言って手配を進めてくれた。あまりの手際の良さにびっくりするとともに、この先生なら安心して任せられると思った。しかし、いまとなってみれば、この時、先生は急を要すると判断されたのだと思う。

検査がすべて終わったときはお昼をとっくにまわっていた。ふと、電子書籍が頭をよぎった。無事に出版されただろうか。

検査結果を診察室で聞くために呼ばれた。CT写真を見せられる。お腹に水が溜まっていると説明された。内臓が水で圧迫されているから苦しいのだと。胃腸はどこも悪くない。こちらでは何もできず、別の科の担当になってしまう、今からそちらの科で診てもらえるように手配しますと言われた。「そちらで今後の治療や入院などのことも含めてお話しくださいね。大変だと思いますが、がんばってください」とエールの言葉をもらった。私はこの優しいS先生の最後の一言でこれからもしかすると大変なことが起きるかもしれないと感じた。

すぐに指示された科に向かい、順番を待つ。診察室に入ると今度は男性の先生が待っていた。そこで、CTを見ながら、水が溜まっていること、そしてそれがどこからきているかなどを説明してくれた。

「えーっと」と優しく穏やかにゆっくりとした感じで話し始めた。その口調がかえってこれはなにか大変な病気かもしれないと感じた。

先生は病名はがんで、母のがんはほかの癌に比べて見つかりにくいもので、気が付いた時にはかなり進行しているものだと言った。ステージ3。5年生存率40%。

癌は誰でもなりうる病気だ。日本人の死因原因の第一位でもある。いつか、両親が病気になることもありうるだろうと予測していたので、先生の言葉にとりわけ取り乱すことはなかった。母は穏やかな口調の医師の説明を淡々と聞きながら、先生に手術は望まないと告げた。

母の77という年齢を考え、手術、抗がん剤などは避けたい。できるだけ苦しくないようにしてあげたいと私も続けた。

先生は私たちの気持ちをよく理解し、手術という選択肢は外した。もっともここまで進行していると手術して悪い部分を取り除いても、寿命には変わりがないとのことだった。

とにかくまずは腹水を抜き、少しでも楽になるようにする。そのために入院が必要で、でも1泊ぐらいのものだと先生は私たちに話した。ただ、コロナ禍での入院になるので、PCR検査が必須であること、まずは検査を受けて、なんでもなければ、GW明けに入院にしましょうと先生は続けた。

私はその場で携帯を取り出し、仕事のスケジュールを確認して私の都合に合わせて入院日を決めてもらい、その日は終わった。

癌だという事実よりも体調が悪かったその原因がみつかったことでほっとした。今までのどの病院もの診断が誤りであったことに怒りを感じるよりも、どうして母があんなにも具合が悪かったのか、母もそれがわかったことで安心したようだった。

腹水を抜けばラクになる。それだけに望みをかけ、GW明けの入院の日を待つことになった。

この時点では母も私も一度入院すれば、一度腹水を抜けばきっと元気になるものだと思い込んでいた。しかし、癌はそんなに簡単な病気ではないことを後で知る。私の考えがどんなに浅はかだったか、そしてその後の日々が重く暗く落ち込む時間であることをこの時は全く想像できなかった。

病院から帰宅した時間は覚えていない。自宅に着いた時にはすでにAmazon上で私の本が販売されていた。

初めての本の発売と母の病。極上の喜びと悲しみがいっぺんにやってきた日。母と私たち家族の癌との戦いが始まった。病は本人と共に家族も暗い悲しみにつつまれてしまう。

私はこの日から、溢れそうになる涙をこらえるのがうまくなった。そして、この日から今まで自分勝手に生きてきた自分を捨て、母に全身全霊で尽くすことに決めた。




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