【中学生】2年半に及ぶ不登校生活
中学に進学すると私も弟も、母の家で過ごす生活に戻った。
祖父母には相変わらず気を遣っていたし、母と暮らす家では自分たちの部屋も与えられたのでありがたかった。
何よりTVを自由に見られるのが嬉しかった。
祖父母の家では、ドラえもんやクレヨンしんちゃん以外の番組を見させてもらえることはなかった。
それ故に小学生の時の私は、クラスで度々話題にあがるTV番組の話や、SMAPやタイタニックが何なのかも全くわからなかった。
タイタニックにいたっては何かの怪物を想像していた。
そして、今も昔も何故かはわからないが、中学1年の2学期から学校に行けなくなった。
心配した親戚が登校時に連れて行ってくれたりもしたが、その時は行けても次の日には行けなくなってしまっていた。
行かなかったという表現の方がしっくりくるのだろうか。
やはり理由はわからない。
未だに仲の良い同級生に、あの時何故不登校になったのか聞かれることがあるが、その場を適当にやり過ごすだけで返答に困る。
軽いいじめにはあっていたが、もしかしたら本当に理由なんてなかったのかもしれない。
そしてその時から私は母の通院している精神科へ通院するようになり、抗不安薬を服薬するようになった。
どちらが先かは忘れたが、時期を同じくして弟も不登校になった。
私と弟は家で1日を過ごすことが多かった。
2人での生活は、昼まで寝て、主にいいともやごきげんよう、昭和のテレビドラマの再放送を見て惰性的に過ごすことが多かった。
友達は興味本位で家まで遊びに来ることもあったが、次第に誰も来なくなった。
「落ちるところまで落ちたね。」
時々家までやって来る祖母にはそう言われた。
ただ、母は不思議なほど私と弟に対して何も言ってこなかった。
それが良いか悪いかは別として。
養護教諭として、他の保健室登校や不登校気味の生徒の面倒を見ていた。
それでも母は私の心配をしていて、フリースクールから大学生をメンタルフレンドをアルバイトとして雇ってくれた。
スケートボードをしに行ったり、夏にはキャンプに連れて行ってくれた。
さらに、私が当時影響を受けたサザンや福山雅治に憧れてギターを始めたいと言い出した時も、大学生のお兄ちゃんをギターの先生として雇ってくれた。
彼にはギターのスキルだけでなく、様々な音楽について教えてくれた。
社会人になっても交流を続けてくれたのが嬉しかった。
当時Mステで流れていたミスチルの「掌」を初めて聴いた時は衝撃的だったし、内村プロデュースなど深夜のバラエティ番組には腹を抱えて笑ったものだ。
初めて行ったライブはL'Arc~en~Cielだった。
音の大きさに驚いた。
そのような生活において、やんちゃなクラスメイトだけは遊びに誘ってくれた。
何かやらかして修学旅行に行けなくなった友人?に遊びに誘われ行ってみると、気が付けば海辺の観光地で釣りをしていた。
当然釣れるはずもなく、一体何をしているのかわからなかった。
別の日には家の近くの森でテントを立ててキャンプをし、スーパーで買ったもやしを食べて寝たりもした。
意味不明。
父親の虐待に耐えきれず、自分を頼ってきた同級生もいたし、その子とも遊んでいた。
その子は私の母の通報により、児童養護施設へと入所することとなった。
そして学年が進むにつれ、私の成績はみるみる下がった。
中学2年の時に、独学で家で勉強するには限界があると知り、個別指導の塾へと通った。
ある交通事故をきっかけに、運転をやめていた祖父が送り迎えをしてくれた。
祖父は不登校だった私を、外の世界へよく連れ出してくれたものだ。
家では必死に勉強した。
でも、追いつけなかった。
中3になる頃には内申点があり、出席日数が足りない自分には公立の進学校へは進学できないことはわかっていた。
それでもすがるように、どこかには辿り着けるのではないかという思いで必死に自宅学習をした。
県内の入試方式は残酷だった。
出席含む内申点を半分加味する入試方式だ。
経済的に私立に行くことのできない私は、いくら努力しようが行ける高校は定時制に限られた。
それがひどく屈辱的であったし、現在まで続く劣等感の始まりだったと思う。
それは弟も同じで、私たちは結局どこへも行けなかった。
もちろん別室登校もした。
一部の同級生に同情されたりもした。
それでも足りなかった。
悔しかった。
ただ家でギターを弾いていた。
気付けば映画を700本観ていた。
そう、私の中学生活は結局のところからっぽだった。
卒業式さえ行かなかった。
いっそ学校ごと燃やしてしまいたかった。
それくらい悔しかった。
つづく。