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「白の Rondo」 ファンタジー短編 (全5章) ①


注:「セピア色の舞踏会」の続編です。物語も途中からの展開となっておりますので、未読の方は是非そちらを先にお読み頂けますと幸いです。


「白のRondo」主な登場人物


アントン・ヴァイス

 往年の写真集の貴婦人に一目惚れし、19世紀末のウィーンにタイムトリップするピアニスト


アウレリア

 写真集から現代に呼び出されアントンと恋に落ちるも、再び元の時代に帰りゆくが……

トニー

 音楽的才能に優れた、身寄りのない少年


「白のRondo」



 街の中心部である旧市街への暗い夜道を、彼女は早足で歩いていた。
 人気もなく静まり返った路地の石畳にコツコツと響くヒールの足音。淡い紫色の夜会ドレスは、フレンチ袖のスリットから肩が美しく見え隠れし、裾がサラサラと足下で揺れ動く。

── 急がないと ──。

 ぞくっと彼女は身を震わせた。夏場とはいえ夜風が身に染みる。馬車に乗りたかったが、バッグも持たず手持ちがなかった。舞踏会場に着けば誰か知り合いが立て替えてくれるだろうが、そもそも馬車が見当たらない。足音が次第に弱くなる。歩みを更に早めたくも、地面の感触がつかめない。

 どうして? 
 身体が軽くなっていく。もはや足は地についていない。
 身体が……、わたし、消えてしまう? 

 彼女は前へ進むことだけに集中し、自身の勢いに身を任せた。やがて身体はふわりと宙に浮き、全身の細胞は夜霧に包まれるようにさあっと溶け込んでいく。
 目的の舞踏会場へ。
 意識だけが高く高く舞い上がる。風に乗りたくも、あいにくとゆるやかな向かい風だった。彼女は焦り、宙を舞った。
 早く行かないと。

──彼を止めないと! ──




 恋人の姿が既に見えなかったので、青年はプラター遊園地を抜け、とりあえず旧市街を目指した。手にしているのは彼女が残していった白いショールのみ。

 アントン・ヴァイス。往年の写真集で一目惚れした女性を追って、百年先の未来から時空を超えて彼女の時代にやって来た、超ロマンティスト。

 ポケットにある結構な額のユーロ紙幣はこの時代、役に立たないから、事実上の一文無し。
 宿なし、金なし、しかも百年前。唯一の知り合いはアウレリアという名が手がかりの女性のみ。

「しかしぼくにはピアノがある!」

 まずはどこかのカフェで1曲弾かせてもらおう。そして気に入られ、ちゃっかり溶け込んで、当面の寝食の確保。そうだ。せっかくだから馴染みのカフェがいい。〈星の冠 Stern Kranz〉は、おそらくここ、19世紀末の頃には既にあったはずだから。



「おや、アントン? どうした」

 勇んで店に入るや、いきなり知らない人物に気安く呼びかけられ、青年は仰天した。見知らぬ時代にトリップしたはずなのに?

「今夜は舞踏会にお出ましじゃなかったのか? ブルーメ宮の」

 自分は既にこの時代に溶け込んでいるのだろうか? 
 アントンは未だ持っていないはずの、この時代での記憶を辿ろうと試みたが、手がかりひとつ浮かんで来ない。とりあえず、目の前の、馴染みとおぼしき給仕に調子を合わせてみよう。

 一日中熱に浮かされて寝込んでいて、今日が何の日だったか失念してしまったことにして、相手から状況を聞き出したところによると、アントン・ヴァイスは今夜、ブルーメ候爵の館で舞踏会の曲を奏し、休憩時間には恋人のアウレリアと恒例のダンスに興じる、という素敵な一夜を過ごすことになっているらしかった。素晴らしい展開ではないか!

「ありがとう! 急いで向かうよ」
 立ち去りゆくアントンに、友人が忠告する。
「まさかその格好で、行かないよな?」

 たとえ楽士であろうとも、宮廷舞踏会に燕尾服はお決まりであった。現代のカフェで弾いていたシンプルなスーツ程度では許されまい。家に戻って着替える時間はないだろう。そもそも自分がどこに住んでいるのかさえ、知らないのだ。

「おれも仕事がはけたら直行するつもりだったんだがな」
 ぶつくさ言いながら、背格好の似た同僚は、持参していた燕尾服をアントンに着せてやり、馬車代も貸してやった。


 こうして時間旅行者アントンが、どうにかこうにか宮殿の表玄関に馬車を乗り付けると、既に弦楽合奏による優雅なワルツが聞こえていた。
 楽士のピアニストとしての立場に一応配慮して、裏手の通用口に回ろうとしたところ──、

 どん! と、強い衝撃がアントンの全身を貫いた。

 何か、恐ろしい衝撃が。
 嫌な、とてつもなく嫌な予感。
 そして絶望的な不安。

 ほどなくして恐怖に満ちた女性の悲鳴と騒ぎ声。何かが起きた。中庭のほう。

── 死んでしまった人の魂はね ──。

 アウレリアの言葉がよみがえる。
 このことだったのか? まさか、アウレリアが。

── 一番幸せだった時に想いを馳せるの ──。

 噴水の前に数人の人影。誰かが倒れている。噴水の水があふれている中……ではなく、それは彼女の頭からとめどもなくあふれ出した血の池だった。

「アウレリア!」
 眠っているようでありながらも、もはや息のない恋人の上半身を抱えて絶望し、青年は泣いた。肩にしていた白いショールが赤く染まってゆく。
 なぜ、まっすぐここに駆けつけなかったのか。
 いずれかは訪れるであろう彼女の死を予見しながら、なぜ、守ってやれなかったのか。



── 間に合わなかった ──。

 どこか高いところから、彼女は見下ろしていた。彼を、止められなかった。

── 思い出してアントン。わたしはここよ ──。 

 愛する恋人に呼びかける。思い出して。わたしの言っていたことを。

── アントン! ──


                         「アントン」
 誰かが優しく肩にふれた。
「一緒に帰りましょう。今夜はうちにいらして下さいな」
 落ち着いた、静かな響きの声。

 アウレリア? 放心から半ば返った状態で、青年は顔を上げた。誰かがいるのはわかっていたが、気配を意識していなかった。
 目の前に美しい貴婦人。疲れた表情を見せつつも、ドレスにコートを羽織り、燐と立つ気丈なその姿勢は、殺風景で陰気な遺体安置所にはそぐわない高貴な雰囲気であった。

「アウレリア?」青年は、ようやく口を開いた。

「あの娘も一緒に帰ります」

 その口調から、彼女がアウレリアの母だと知った。そして彼女もまた、この青年がアントン・ヴァイスであることを、当然のごとく認識している様子だった。

「どうか一晩、あの娘のそばに……」
 声をつまらせ、婦人は青年の腕に泣き崩れた。


 3階のバルコニーからの転落死。
 目撃者はおらず、シャンパンを軽く酔い誤っての事故死とされたが、退役軍人である彼女の父親と懇意であったオーストリア皇帝の圧力で、秘密警察が直ちに動きだした。
 アントン・ヴァイスは真っ先に容疑者の対象とされるが、馭者と門番の証言により、アリバイはすぐさま成立した。おかげで彼は、実際にはまだこの時代に存在していないはずのその身分や経歴の書類上の調査を免れた。
 とはいえ秘密警察のこと、彼が関係者である以上、不穏分子との関与や交流関係なども追って調べられることになるのだが、カフェのピアニストの周囲に不審な動きは全く見つからなかった。




 では、どういう意味なのだろう? 
 着替えを提供してもらい、フリューリング邸の居間に安置されたアウレリアのそばで一夜を明かしながら、アントンは徐々に冷静さを取り戻していった。

── 変えられるはずだ ──。

 かすかな希望が生まれつつあった。
 自分は己の意思でこの時代に来れたのだから。そして回りの人たちは、タイムトリップしてきたはずのぼくのことを既に当然のごとく知っていた。
 すべての状況は、つじつまが合うように設定されている。
 事件が起きる前に戻れたら……。
 しかし再び時空移動をやり直す自信はなかった。宇宙のエネルギーはそれほど単純ではない。だけど何かはできるはず。必ず変えられるはずなんだ! この状況を。
 朝の輝かしい陽の光の差し込む中で、アントンは決意した。絶対にあきらめないと。


「アントン!」
 幼い少年が抱きついてきた。
 これまた予期せぬ登場人物。今度は誰だ?



② に続く…


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