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「微笑みの額縁」 ②

「微笑みの額縁」②



6月8日 1960年


 150年前のこの日の生誕を祝い、ぼくはささやかなピアノをシューマンに捧げていた。

 そこへいきなり彼女は飛び込んで来た。涙ぐんで。
 あの時間に帰ってくるとは、つまり本選には進めなかったのか。残念だけど、仕方ない。それにしても……、

 まったくもって、ふしぎな娘だ。

 話の最中に突然、
「わたしは誰なの?」と聞いてきたかと思えば、
「次に会った時、また同じことを言って」ときたもんだ。あげくに、
「もう一度、シューマンを聴かせて」
と言っておきながら、いつの間にか消えてしまった。
 そして夕食の席にも姿を見せずじまい。

 それとも、あの時の彼女は幻で、二人の会話は夢だったのか? 

 今夜はもう、何も言うまい。そっとしておこう。でも、明日になったら……!

 あの黄昏時、ぼくは彼女に何を語ったかな? 

 彼女の最高に素敵な笑顔の話。
 それから?
 微笑みと、ピアノと、……微笑みの話。

 なぜなら、ぼくはもうすっかり、その微笑みのとりこになってしまったのだから! 


  ~ シュテファン・ハイデンベルクの日記より




2010年 ウィーン郊外 旧貴族の館


 夜のとばりの降りた森の湖のほとりに、一台のグランドピアノ。
 静かにピアノを奏でている青年の、ふしぎな透明感。彼は森の精霊? 夢のようなクリスタルの光を放つ、その美しき音色。
 気がつけば、森の小さな生命たちが、ひそやかに耳をすませている。
 彼方には、月夜にかかる虹。



 サロンコンサートの間、わたしはそんな光景を見つめていた。すぐにでもアトリエに行って、描きたい気分だった。

 さっきの彼が弾いていた曲、シューマンの《交響的練習曲》は、今夜のプログラムに入っていなかった。そして本人も姿を現わさず。
 リハーサルの為に弾いていたのではないとすると、ただ鍵を預かって開けておくとか、試弾の為に遣わされた人なのか。古いピアノだし。あの後、玄関の鍵を確認しなかったから、わからない。それとも遅れてやってくるのだろうか。
 それにしても、なぜ消えてしまったの? 挨拶もせずに。

 背後の入口を始終意識しながら、わたしはそわそわ、ドキドキしていた。自分の方向性が見い出せないうちは、恋なんて考えられなかったのに。ましてや異国の地で、いきなり見ず知らずのピアノ青年が、こんなにも心に深く、鮮やかに飛び込んできてしまうなんて。

 そんなわたしのとまどいと混乱をよそにコンサートは進み、モーツァルトからハイドン、ベートーヴェンに至るウィーン由来の作曲家の作品が、ピアノやヴァイオリン、弦楽合奏などで多彩に表現されてゆく。
 奏者もお客人も、皆が心からリラッスして、互いに温かい声をかけ合い、楽しんでいる。長い時間をかけて祖母が創り上げた素敵な習慣が、今もこうして根づいてるんだな。

 ふと、思った。ピアノ脇で威光を放つ祖母の肖像画。
 もし祖母がいつもにこやかに微笑んでいたら、この人たちの音楽はこれほどまでに完成されてなかったのだろうか? 絵に表現されたとおり、むっつりとしかめ面で、厳しい音楽教師だったからこそ、立派な音楽家が育っていったということ?

 今夜のコンサートでも、奏者は一様に、演奏を終えると祖母の肖像画をチラリと見上げ、無言の挨拶を送っている。

「ユイ先生? これで良かったでしょうか?」

 オーマは、皆に愛されてるんだなあ。今でも、こうして。祖母はただ愛情表現が苦手だっただけなんだ。
 お弟子さんたちは皆、厳しさの裏の祖母の優しさを知っていたからこそ、こんな風にいつまでも、この場所に集まって来てくれるのだろうから。

 お茶の時間になったけど、彼はまだ現れない。

 粉砂糖でお化粧を施した自家製パウンドケーキの評判は上々。クララ伯母のラム酒漬ドライフルーツの効果大で、実はパンケーキミックスを使用した簡単レシピだと白状すると、なおさら驚かれる。

 さすが音楽だけでなくスウィーツの都でもあるウィーンだけあって、沢山の差し入れも美味しくて素敵なものばかり。とろけるプラリネチョコに、お手製のフルーツサンド、老舗カフェーの焼き菓子だの、極上の紅茶だの。
 クララ伯母さんの言ったとおり、皆が勝手知ったる他人の家で、会場セッティングからお茶の用意まで自由にてきぱきやってくれるので、のんびり屋のわたしは本当に助かってしまう。

 二、三人に尋ねてみた。今日の青年のことを。聞き方が悪いのかドイツ語が下手なせいか、話がうまく通じず、誰も彼のことはわからない様子。
 不安になってくる。まさか、これきりもう、彼に会えないなんて。そんな……。

 いえ、会えないと思うから、会えない。いつかどこかで会えると信じていれば、きっと会える。
 なくし物だって、そう。ないない、と焦っていると、目の前にあるのに見つけられなかったりするじゃない。存在を信じてないから、見えないのだ。だけどきっと見つかると信じて探せば、たいがいは見つかるもの。

 時々思うことがある。本当はないはずの物を、意思の力が生み出しているんじゃなかろうか、とも。

 よし。宇宙の自然なエネルギーの流れに、想いをゆだねることにしよう。たとえそれが今夜でなくても……。


 飛び入りタイムでは、幼い兄弟がフルートとピアノでシュトラウスの陽気なワルツを演奏。そのうち誰かが歌い出し、踊りだし、皆がダンスに興じ、わたしも画材屋のおじいさんに誘われて仲間入り。
 祖父が教えてくれた懐かしのワルツ。こうして言葉が通じなくても、音楽が、笑顔が通じるから、幸せ。あの頃の祖父と踊っているようで、涙がじわり。

 陽気な騒ぎが一段落したところで、わたしにピアノのリクエストがかかった。時折日本からやってきていた少女の、つたないピアノを懐かしがって。
「絵ではだめ?」との質問に、
「絵も、ピアノも両方!」との要請。
「では」と、わたしは用意してあった数点のスケッチブックを皆に回す。ここに来てから、まず市街に飛び出して描いた、カフェーや街角の愛らしい情景に、幻想風のイラスト類。

「ピアノのほうは、BGMにして下さいね」

 シューマンの〈ミニヨン〉は、わたしが一番弾きたかった曲。
《ユーゲントアルバム》35番目の、物哀しく静かなこの曲を、祖父は好んで弾いていた。ゲーテの小説に出てくる薄幸の少女、ミニヨンの話を語りながら。

 幼い頃にかどわかされ、旅芸人の一座に売られた少女ミニヨン。
 外国語訛りのドイツ語を話す、栗色の巻き毛の、少年とも少女ともおぼつかない、何とも魅力的なミニヨンが、目隠しをして踊る可憐なダンス。
 ミニヨンが一座の親方にむち打たれる姿を見かねた青年ヴィルヘルムは、彼女を引き取り、父親代わりになって大切に養う。
 ヴィルヘルムを心から慕い、けなげに尽くすミニヨンは、しかし不治の病に侵されていた。

「憧れ」という名の病に……。

 生まれ故郷の遙かな南の国を想いながら、
 ヴィルヘルムへの叶わぬ想いを胸に抱きながら、
 孤独と絶望の中で命を落としゆく、はかなげな少女の物語。

 知ってるかしら? 
 レモンの花香るあの丘を。
 知ってるかしら? 
 オレンジの実が黄金に輝いて、
 そよ風が青き空から吹きそよぐ、
 あの南の国を。



 澄み切った夜空の星の輝きのような、鋭いきらめきを放つ祖母の音色に対して、祖父のピアは、暖かい虹色の光のようだった。

 昔ながらのこのベーゼンドルファーには、譜面台の両端にろうそくを立てる為のしょく台が付いている。黄昏時の、ほの暗い部屋の中、祖父はそっとろうそくを灯し、古今東西の物語に、静かで優しい音楽を添えて語ってくれた。そんな中で、シューマンの〈ミニヨン〉は、彼女のふしぎなダンスの情景とともに、少女だったわたしの心に強く刻まれた。

「絵里香も弾きたい!」と願うわたしに、祖母は、

「このアルバムを一曲目から順に仕上げてゆけば、必ず弾けるようになりますよ」と、アドヴァイスしてくれた。

 今にして思えば、それは大変ありがたい適切な指導だったであろうに、幼い自分にとっては、マッターホルンか、はたまたユングフラウに登れと言われたようなものだった。なぜ最初から好きな曲を弾かせてくれないのかと、不満に思ったものだった。
 祖母がにっこり微笑んで優しく勧めてくれたのなら、きっも忠告を素直に聞けただろうに。まだ子どもだったわたしには、祖母の無愛想さの裏の真の優しさに、気づくすべもなかった。

 ピアノのレッスンは、日本では、多少はたしなむ母に見てもらい、ウィーンに来る度に数曲ずつ祖母に仕上げてもらった。少女の頃からゆっくりゆっくり、わたしは小さな宝石箱のように愛らしいこの曲集に向き合い、着実に一曲ずつ自分のものにしていった。
 なのに、そのうち絵の勉強に熱中し始めるようになって、〈ミニヨン〉への憧れも、いつしか忘却の彼方に。

「この夏、パリに短期留学するから、帰りに寄るね」

 最後に祖父母に会った際にした約束は、果たせなかった。
 日本に残してきたBFが恋しくて、パリからは直接帰国してしまったのだ。ウィーンにはまたいつで行ける、と思っていたし。

 そのうちに、あっという間に時は過ぎ去り、祖父母ともに相次いで亡くなってしまった。祖母の葬儀が試験と重なり参列できなかったので、しばらくして落ち着いた頃に、祖父を慰めに……と思っているうちに、祖父までも失うことになるなんて。

「あの秋は、二人とも色々と楽しみ事を用意して、あなたを待ってたみたいよ」と、後にクララ伯母から聞かされた。

 約束は、果たせなかったんじゃない。果たさなかったのだ。

 ウィーンに行けなかったのではなくて、行かなかった。自分が決めて、そうしたのだから。

 やがて価値もないとわかったBFの為に。
 彼が動物を虐待するような人間だと知ったとき、祖父母は既にこの世にいなかった。

 以来わたしは、「できなかった」という言い訳をしないことにした。「できない」のではなく、自分の意思で「やらない」のだから。

「ごめん。忙しくて連絡できなかった」のではなく、自らの都合で「しかなかった」だけ。
「メールの返信、中々できなくて……」ではなく、返信する時間を「作らなかった」だけ。
 その気になれば、簡単にできることを先伸ばしにしているだけ。
 食事をしたり、情報をチェックしたり、日常生活が普通にできる以上、「忙しくてできない」というセリフは、言い訳にすぎないのだから。

 大人になって、わたしは再びピアノに向き合い始めた。〈ミニヨン〉を弾くという自分との約束を実行する為に。

 目指すのは、絵と音楽の世界の融合。

 美術学校を卒業し、とりあえずの就職先、絵とはまったくかけ離れた化粧品会社を辞めるタイミングは、この〈ミニヨン〉が鍵だった。暗譜ができて、自由に弾けるようになったら、ウィーンに旅立とうと。祖父母が授けてくれた大切な思い出を、何らかの形に表現する為に。

 こうして皆の前で演奏できる機会が得られるとは考えてなかった。オーマ? オーパ? ずいぶん遅くなっちゃったけど、ひとつの約束だけは、今、果たしているからね。



 そして一夜の楽しみは終わり、翌日は朝からアトリエにこもり、新作を描くことに集中する。

 昨日からずっと浮かんでくる、音楽の森のヴィジョン……。

 結局、彼は現れなかった。
 そして誰も彼のことを知らなかった。

 思いがけないときめきだったせいか、落ち込みも激しい。でも、気を取り直そう。

「この街に居れば、いつかきっと会える」と。

 そして自分に問いかけた。

 素性も知れないのに? 彼に恋人がいたら、そのショックに耐えられる? 彼が誰かと手をつないで、幸せそうに歩いている姿に出合ってしまっても、片想いを決定づけられてもなお、恋し続けることができる? 

 でなければ、本物の恋とはいえない。

 幻滅するのも嫌。だけど、あんなに素敵な、誠実な演奏をする人に幻滅なんて、ありえない。自分が何をどういう風に描きたいのか、彼のピアノへの憧れが導いてくれたのだし。

 絵に関しては、ずっと試行錯誤の日々だった。ウィーン旧市街のあちこちに隠れている愛すべき路地、石畳の響き、アンティークの看板や街灯の美しさ。宮殿や王宮、劇場や教会、由緒ある建築物。オーストリアの雄大な自然。描きたい世界はいくらでもあるのに、どう表現すべきか思いあぐねていた。
 ロマンティックな色彩の甘いイラスト風は、亜流なのか、初心に戻って写実に徹するべきなのか。

 そして昨日心に浮かんできた、虹の夜空のグランドピアノの光景が、わたしの画風の路線を示してくれた。
 そう。音楽とともに心に映った光景を、そのまま描くだけでいいのだ。大切なのは、いつでも感性を磨ぎ澄ましていること。

 絵の中の青年が奏でている音楽は、昨日の〈第五変奏〉だろうか? 夢のようなシューマンの音色が、この森にはふさわしい──

 どこからか、ピアノの調べ?

 わたしの胸に、心に、いきなり深く、ぐさりと突き刺さる。

 幼い頃からのウィーンでの思い出。
 祖父母の愛情。
 学校と勉強と、絵と音楽と。
 仕事と、本当に向き合いたいこと、描きたいこと。
 両親や姉妹、大切な友人たち。
 淡い恋、切ない恋。わたしの人生のすべてがこの曲に……!

 涙が勝手にあふれ出る。

〈ミニヨン〉が、聞こえる。風が唄うように。どこか遠い世界から。


──  今度こそ、彼と話さなきゃ ──。




「微笑みの額縁」③(終)へ……。





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