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人間模様から読み解く 新たなショパン像 ① 家族(両親)


── ワルシャワ時代 ──



 フランス人の父、ポ−ランド人の母のもと、ポーランドで生まれ、フランスで生涯を終えたフレデリック・ショパン(以下、ワルシャワ時代はフレデリック、パリ時代からはショパンと表記)は、主にフランスにおいてロマン派ピアノ音楽を発展させ、フランスに没した経緯により、フランス音楽界の重要人物ともされているが、ポーランド民族の流れを汲む音楽性や、祖国への望郷の想いからも、やはり自他ともに「ポーランドの作曲家」であることには違いなかろう。


フレデリックの家族 (両親)


 父のニコラ・ショパンはフランス北西部ロレーヌ地方の出身。
 葡萄畑を所有する車大工の家庭の長男として育つ。ニコラが生まれた1771年当時、フランス王家はポーランドと親密な関係にあり、ロレーヌ地方は元ポーランド王でルイ15世の義父、スタニスラフ王が収めていた。村の領主もポーランド人で、城や領地の管理人もポーランド人であった。
 少年ニコラの聡明さを早くから見抜いた管理人夫妻がたいそう可愛がり、養育の手を差しのべたことで、ニコラは文学に精通し、ドイツ語やポーランド語を学び、数学や音楽にも類希なる才をみせ、領主の事業の経理を任されるほどに。
 やがて領主と共に管理人夫妻が祖国に戻ることになった時、16才のニコラも彼らに同行してポーランドへ旅立つ決意を固める。
 既に名人の域にまで達していたフルートとヴァイオリンと、ヴァルテールの本を大切に携えて。

 どんな事情があったか、以来、ニコラは祖国に戻らず、故郷フランスの家族との交信の記録も残されていない。

 ワルシャワに到着するや、ニコラはタバコ工場の簿記係として働き始め、やがてはロシア帝国へ反乱する国民防衛隊に志願、大尉の地位にまでのぼりつめた。

 フランス人の少年ニコラは、その名をポーランド名のミコワイとして、ポーランドに身を捧げることになる。

 反乱が頓挫し、除隊した後は、貴族の子弟に仏語や独語を教える家庭教師として生計を立ててゆく。

 余談ではあるが、ミコワイの教え子の中には後にヴァレフスキ伯爵夫人としてナポレオンの子を産むことになる、マリアという少女もいた。
 マリアとナポレオンの子、アレクサンドルは、マリアの夫が我が子として認知した為、姓をヴァレフスキとして、フランス第二帝政の政治家として名を残す。

 話をミコワイに戻そう。
 そうこうしてミコワイの巡り着いた家庭教師先が、ワルシャワから西へ60キロ程、フレデリック・ショパンの生まれ故郷となる風光明媚なジェラゾヴァ・ヴォラの村。息子の為にフランス人の教師を求めていた、スカルベク伯爵夫人の館である。
 夫人が友人宅(先のマリアの家)で教えていた若きミコワイにとても良い印象を抱き、「我が家に来て欲しい」と、スカウトしたことによる。

 ミコワイの落ち着き先となった、胡桃の木と菩提樹に囲まれたスカルベク邸で、家事を任されていたのが、ユスティナ嬢であった。

 スカルベク伯爵夫人の遠縁の娘で、早くに両親を亡くし、夫人に引き取られていたユスティナ。家庭的で優しい性格、歌やピアノの才もあった。そしてとりわけ「音楽」という共通の才能と趣味が、ミコワイとユスティナを温かく結びつけてゆく。

 スカルベク家の夕べのサロンでは文化人や知識人が集い、ユスティナの歌やピアノに、ミコワイのフルート、ヴァイオリンが華を添えた。
 ゆっくりと温かな愛情を育む4年間の交際を経て、2人は結婚する。新婚夫婦は屋敷の離れを伯爵夫人から提供され、長女ルドヴィカに続いて、長男フレデリックが、1810年3月1日、ここに誕生する(教会の記録の2月22日誕生説や、1809年説など諸説あるが、フレデリック本人や家族の記憶を優先しておく)。

 ショパン家の子どもたちは、母親の子守歌や両親の奏するポーランド民謡など、温かで、かつ質の高い音楽を糧に、豊かな環境の中でのびのびと育ってゆく。

 その後、父ミコワイがワルシャワ高等学校にフランス語教師の職を得たのを機に、一家はワルシャワへと移り住む。高校や大学の他の教授陣も共に暮らす学校のある宮殿に居を構え、やがてミコワイはフランス文学をも教える教授となり、地方出身の学生たちの為に、寄宿舎を開設する。

 夫妻の寄宿舎は、完璧な保護と紳士たるべく完全な指導を受けられる高級寄宿学校として評判になり、裕福な領主階層の子弟たちが入居してきた。
 ユスティナは青年のたしなみとして必須だったダンスレッスンのピアノ伴奏を受け持ち、毎週木曜の夜に開かれるショパン家のサロンでは、学者や芸術家といった高い教養を持つ上流階級の隣人や友人らが常連となり、フレデリックは恵まれた音楽環境のみならず、社交の場の洗練された雰囲気にも、自然と身を置かれることとなってゆく。

 宮殿の敷地は、春にはリラやジャスミンが咲き乱れ、菩提樹がそよぎ、裏手からは川の彼方に広大な平原が輝く見事な光景が見渡せた。



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