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「白の Rondo」 ⑤ (終)


これまでの、アントン・ヴァイスの物語は……


 往年の写真の貴婦人アウレリアに恋をしたピアニストのアントンは、彼女を追って19世紀末のウィーンにタイムトリップするも、一足違いで彼女は命を落としてしまう。
 ふしぎなことに、この時代でアントンはアウレリアの婚約者として存在していることになっていた。そして今や、2人の養子になる予定だった少年トニーに魔の手が迫り、アントンは自ら死を覚悟した上で、彼にこの時代からの時空脱出を試みるよう促すのだった。



「白の Rondo」⑤(最終章)


「トニー、もう時間がない!」

 少年も覚悟を決めた。
 恐怖心を追い払い、ドナウの岸辺に意識を集中させる。ピアノに向かう時の尋常ならぬ集中力が役立った。
 すぐに周囲の空間がゆらぎ、彼は足場を失った。



── 花を! ──

 土手に咲く、白く可憐な花が視界に飛び込んでくる。少年は転げながら花を掴みとり、そのまま川に落ちた。冷たく勢いのある流れだったが、深くはなかった。川底に足を弾ませながら半ば泳ぐように、しかし花は決して手放さず上に掲げたまま、無事に対岸に辿りつく。

 誰かに腕を捕まれ、陸地に引っ張り上げられた。

「ありがと……」言いかけて、うわあ、ミヒャエルだと気づいた。一時は父でもあった人なのだ。自分の知ってるミヒャエルよりはるかに若かったが、すぐに彼とわかった。

「魚を釣り上げましたよー!」
 笑いながら大声で仲間に叫ぶ。

 失礼なことを言う奴だ。

 土手ではお姉さん方が楽しそうにピクニックをしている。写真と同じ光景──

 アウレリアだ!

 まっすぐに少年は懐かしい人の前に進み出て、丁寧に深々と中世風のお辞儀をしてからひざまずき、掴んで放さなかった名も知れぬ花を「姫君に」とおごそかに差し出した。
 そして「ぼくの未来のお母さんに」と言うはずが、勢い余って「お嫁さんに」と言ってしまった。

「まあ!」アウレリアは感動して花を受け取り、胸元に持っていった。
「なんて素敵な騎士のお方。いったいどこから現れたの? 名前は何とおっしゃるのかしら」

「アン……」
 誰かが言ってたことを思い出す。

── 場合によっては名前も変えて ──。 

 パシャリ! ピクニックに同行していたカメラマンの見習いが、すかさず写真を撮った。
── 素晴らしい ──。
 幸せそうに花を抱く男爵令嬢も美しいが、何より水も滴る幼い少年のキラキラ輝く瞳、上気した頬、憧れの少女への一途な様子にすっかり感激してしまった。
「子ども専門の写真館」の構想が彼の頭に広がってゆく。
 子どもを撮り続けよう! 
 純真な子どもたちの写真を!
 ああ、本当に心が洗われる無垢な姿。

 再びのシャッター音で少年は我に返り、さっと手を挙げ別れの挨拶。そのまま森の方向に走り去った。

── ここに居ちゃいけない ──。

 時空移動はできた! それは過去を変える為。だからアントンは絶対に助かってるはず。だけどここには来てない。
 アウレリアには会えた。きっとまた会える。
 だけどアントンは? アントンはどこ? もっとずっと先の時代?

 少年は走り、やがて周囲が揺らぎだし、その身体はすっと風に溶け込んでいった。




 しばしの間、少女アウレリアは野の花の爽やかな芳香にうっとりと酔いしれていたが、ふと立ち上がり、川辺に歩みよりドナウの流れに向けて少年の花を宙高く投げた。

── 未来の恋人に! ──

 手元でしおれてゆく姿は見たくなかった。水も滴る高貴な少年の心を、永遠に胸に留めておきたかったから。




 人生の最期に弾く曲として、アントン・ヴァイスはモーツァルトの〈アヴェ・ヴェルム・コルプス〉を選択した。
 譜面台には、うっとり微笑んで一輪の白い花を見つめるアウレリアの写真が置かれる。

 この部屋からトニーの姿が見えなくなった時点で、精神は落ち着いていた。
 もはやエネルギーは使い果たされた。トニーだけでも助けられたのだ。それは、自分にしかできない方法。自分だけが知っている方法だった。

 そのために、この時代に遣わされたのだろう。
 すべての役目は果たし終えた。


── まだよ! ──

 どこからか、深く、落ち着いた響きの懐かしい女性の声。

 こうして、晴れてアウレリアの魂と一緒になれるのか。アントンの心は平穏に満たされていた。周囲の空間がぼやけてゆらぎ、うっすらと見えなくなってゆく。自分は既にこの世にいないのだろうか。

 昼なのか、夜なのか、青空なのか、星空なのか。きらめく光に満ちた空の高みから、何かが……。

 白い花が一輪。

── アントン、受け取って! ──

 神々しく輝きながらゆっくりと降りてくる花の輪郭がはっきりするとともに、奏でていたピアノの感触がなくなり──しかし音楽の流れは続いたまま──、アントンは身をひるがえして花を受けとめた。

 周囲の空間が消えゆくその瞬間、ドア付近に見えた侵入者の影もかき消されていった。
 身を受けとめる床はなく、アントンは宙に投げ出されるように落ちていった。

 半ば気を失いかけた頃──花はしっかり掲げつつ──、冷たい衝撃が全身を貫いた。





「それ以来、もうずいぶん待たされて、わたしったら30も超えてしまったのよ」

 目も眩む舞踏会の喧騒からしばし逃れて、アウレリアは幼なじみとテラスで昔話に花を咲かせていた。
 夕闇の迫る中庭では、噴水の音がさらさらと心地よい響きを奏でている。

「まさか本気なの? その少年、〈水も滴る花の君〉とやらが現れるって、本気で思ってるの? あなた」

「実はもう現れてるのだけどね」
 頬を染め、アウレリアは幸せなため息をついた。「あとは、決定的な決めのタイミングがね……」

 ザバーン! という激しい水音。誰かが噴水の池に落ちたらしい。
 まあ! アントンではないの! アウレリアと友人は外のらせん階段を飛ぶように走り降りた。

 アントン・ヴァイスは一輪の野の花を高く掲げながら、ずぶ濡れ状態で噴水から上がってきた。愛しい恋人の姿をひと目見るや、「アウレリア!」と叫んで水を滴らせたまま抱きついた。

「もう絶対に離さない。永遠に!」

「アントン、それって、わたしがずっと待ってた言葉なのかしら?」

 彼女は少し震えながら涙ぐんで、しかし落ち着いた口調で青年の意思を確認した。

 この声、この響き。本物のアウレリアだ! 一歩さがって片ひざをつき、大切に守っていた白い花を捧げる。

「ぼくの永遠の妻に」

 アウレリアは同意のしるしに花を受け取り、世にも美しいシルエットが浮かび上がる。

「ほら、あなたの曲よ」
 弦楽合奏がヴァイスの名曲を奏でている。2人は濡れたまま噴水の回りを優雅に舞った。

「これでトニーも、ぼくたちの正式な──」
「トニーって?」
 アウレリアが無邪気にさえぎった。

 アントンの心臓がぐさりと何かでえぐられた。呼吸ができない。

── トニーのいない世界? ──

 それはとてつもなく恐ろしい事実だった。しかし確かめないと。

「トニーだよ? アンソニー・ホワイト!」

 きょとんと首を傾げるアウレリア。

 アントンは激しく動揺した。彼が消えてしまうなんて。涙がどっとあふれ出る。

「だって彼は身寄りがないから」
 そこまで言いかけた時、記憶が──


── きれいな声の、ふしぎな歌が ──。


 人生の、すべてのヴェールが拭い去られ、アントン・ヴァイスはこの時初めて、自分が何者であるかを知った。
 あふれ続けるその涙は、もはや哀しみの涙ではなかった。





── 誰も追って来れない世界に ──。

 そこは憧れの、未来の世界だった。
 しかし少年は自分がどうしてこの通りを歩いているのか、どうしてずぶ濡れなのかわからなかった。
 何もかも知らない世界。
 自分がどこから来たのかも、自分が誰なのかも、ぼんやりしていて思い出せなかった。

「だけどぼくにはピアノがある!」
 それだけは、はっきりしていた。


 どうかお宅の聖歌隊で歌わせて下さいと、付属養護院のありそうな教会を、少年は訪れた。

「ぼく、ピアノも弾けます」

 音楽以外の記憶を失っている様子の、濡れねずみの少年。
 手がかりとなりそうな唯一の持ち物といえば、ズボンのポケットにあった封筒のみ。そろそろ市場に出回り始める頃のユーロ紙幣がいくらか入った、
「アントン・ヴァイス殿」と記された封筒だけだった。




                    Rondo




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