見出し画像

人間模様から読み解く 新たなショパン像 ⑤ 恩師、恩人

フレデリックの恩師、恩人


 ショパン音楽のショパンたるゆえん、とりわけ、極めて独創的で自由なそのスタイルは、生まれ育った環境や本人の天分のみならず、それを大切に活かし育てた恩師の的確な教育方針に負うところが大きかろう。
 加えて、身分や階級を気にせずフレデリックを温かく迎え入れた貴族らとの親交も、彼に洗練されたふるまいを自然に身に付けさせ、ショパンの音楽の崇高さに少なからず影響をもたらしたと思われる。


 ボヘミア出身の作曲家でヴァイオリニスト。
 オーストリアで修業し、プラハで宮廷楽長を務めた後、ワルシャワに移り音楽の家庭教師をして生計を立てていた。
 古風なお洒落に身を固め、おかしな身ぶり手振りで人を引きつけずにはいられない謎めいた出で立ちの 60才の教師を、フレデリックはたちまち大好きになった。
 ジヴニーもまた、この天才少年との出会いによって、忘れ去られていた自らの芸術的精神が呼び覚まされる。まだ知名度の低かったJ.S.バッハを「音楽の源」として敬愛することを伝え、モーツァルトの天才性を紹介した。
 空いた時間さえあればショパン家に立ち寄り、無償でレッスンし、運指の特訓や退屈な教則本よりも、芸術そのものを教え込む。少年の即興の才能を妨げることをせず、伸び伸びと自由に弾かせつつも、誤りはきちんと正す。
 ピアノの専門家ではなくとも、古典音楽の基礎をしっかり教え込んでゆくジヴニーのレッスンは理想的で、フレデリックにとって楽しくてたまらず、上達ぶりも驚異的だった。

 ショパンの最初の出版作品とされる〈ポロネーズト短調〉は、ジヴニーや父ミコワイによって五線譜に書き取られ、少年の演奏に涙する人々の援助と尽力で印刷された。7才の天才少年は、雑誌の音楽評論の欄でも早速、高い評価を得る。

 やがて11才になった教え子から、今度は自筆で丁寧に書かれた〈ポロネーズ変イ長調〉を献呈され、老教師は「もはや自分に教えられることは何もない」と判断、翌年にはレッスンを終了し、フレデリックを更なる専門家に委ねてゆく。

 後年、パリに届いた愛する恩師の訃報は、同じ頃に亡くなった親友ヤン・マトゥシンスキの死と共に、フレデリックに救いようのない哀しみをもたらすのだった。



 12才となったフレデリックの音楽指導は、ショパン家のサロンの常連で父ミコワイの友人、フレデリックが幼い頃から慣れ親しんでいた、ワルシャワ音楽学校の校長ユゼフ・エルスネルと、ピアニスト兼オルガニストのヴュルフェルの2人が引き継いだ。

 ピアノはヴュルフェルが担当。華麗な技巧にも関心を示したフレデリックに、ヴィルトゥオーゾ向きの才能もあると判断し、華やかな効果を生み出す「ブリランテ」奏法を伝授してゆく。

 作曲を専門に教えたのが、ユゼフ・エルスネル。
 最初の2年間で、フレデリックに音楽理論の基礎、和声、体位法、作曲法を教え込み、カノンやフーガを作らせ、管弦楽法やスコアの書き方まで妥協を許さず徹底的に指導した。
 エルスネルはドイツ人でありながら、テキストはポーランド語で表記、ポーランド語によるオペラ、宗教曲、交響曲などを作曲している。25年間に渡り、ポーランド歌劇場の責任者を務めるなど、ポーランド音楽界の重要な指導者であった。

 フレデリックの発想の斬新さ、型にはまらない独創性が、実に魅力的な雰囲気を醸し出し、美しい響きの和声や自然な音楽の流れをもたらしていた為、それがたとえ従来のスタイルとはかけ離れていようとも、エルスネルは決して否定しなかった。

「彼のやり方が普通でないのは、特別な才能を持ち合わせているから。一般の規則などに縛られることもなく、自分の法則に従っているだけなのです。法則はあくまでも自ら発見すべきなのです。折にふれて自身を乗り越えてゆく為に」
 と、エルスネルは語っている。

 こうした恵まれた指導により基礎を学び、確実な作曲技法と構成力を会得していったフレデリックの独創性は、何よりピアノという楽器において最大限に発揮されていた。そのことを認めていた校長は、オーケストラ作品の課題でさえ、彼だけには特別にピアノの使用も許可していた。例えば作品2の〈ドン・ジョヴァンニの主題による変奏曲〉のように。
 がんじがらめの規則でフレデリックの独創性を潰してしまわなかっただけでなく、とりわけピアノに活かされる才能を惜しみなく尊重していったのだ。

 音楽院卒業後に、父親が政府に助成金の嘆願書を提出したのだが、
「フレデリック・ショパンは作曲家として必須であるはずの、オペラやオラトリオを書いていないではないか」という理由で却下されてしまう。
 生涯に渡って彼が大作に取り組むことなく、その分のエネルギーや情熱が、殆どピアノ曲に注がれた。後年、同胞の仲間らにポーランドのオペラを書くよう強く勧められた折も、
「モーツァルトは音楽のあらゆる領域を網羅してますが、ぼくの貧相な頭の中には、ただ鍵盤しかないのです。第一にぼくはピアニストで、あらゆることに挑戦して未完に終わるよりは、むしろわずかであろうと得意分野において完全なものを創り上げるほうがずっと良いのです。ぼくは決して、この一線から踏み越えることはしないでしょう」
 と、生涯の恋人でもあったデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人に手紙で告白している。
 だからこそ、ショパンはピアノだけに集中し、これほどまでに多くの優れたピアノ作品が生み出せたのだ。

 方向性を見いだしてゆく大切な時期における、こうした恩師の配慮や的確な指導に、フレデリックは心から感謝していた。
 19才の卒業旅行。ウィーンにおける初の演奏会の成功を収めた折、
「ワルシャワのような辺境の地で、よくこれほどまでの音楽を身に付けられたものだ」
 と批評家より賞賛されたフレデリックは、
「ジヴニーとエルスネル、この2人の教師の手にかかれば、どんなぼんくらだってこのくらいまで到達できるものですよ」
 と答えている。

 翌年の1830年11月初め、告別演奏会も終え、皆に別れを告げた20才のフレデリックは、駅馬車に乗り込み故郷を後にする。
 と、町の外れで馬車が停車した。
 ほどなくして、ギターの音に合わせた男性合唱が聞こえてくるではないか?
 窓から身を乗り出すフレデリック。目に入ってきた光景は、ワルシャワ音楽院の合唱隊と、彼らを指揮する校長エルスネルの姿であった。

  ポーランドの大地で育まれし
  そなたの誉れよ
  願わくば
  いずこにありても鳴り響きたまえ

 それは旅立ちゆく弟子へのはなむけにと、エルスネルが心からの思いを込めて作曲したカンタータだった。



 ウィーン会議後にプロイセンに編入されたポズナン
大公国の総督。
 妻がドイツ人公女であったことからプロイセンとは親密な関係を保ちつつも、自身はあくまでもポーランド人としての愛国心を貫き、地域がドイツ化されてしまわぬようにと努めていた。

 歌を歌い、チェロを見事に奏で、作曲もするというアマチュア音楽家ながら、公爵による「ファウスト」の初のオペラ化作品は、作者のゲーテ本人からもお墨付きというほどの才能の持ち主でもあった。

 8才のフレデリックが初の公開演奏を行なったのが、ラジヴィウ公のワルシャワの宮殿で、公はその才能を絶賛し、「プロを目指すべき」とフレデリックの両親を熱心に説得するのだった。

 その後もフレデリックは公の招きをしばしば受け、とりわけ19才の夏に訪れた離宮、森に囲まれたおとぎの国の世界のような「狩りの館」での1週間の滞在中も、夢のように幸せな時を過ごすのだった。
 公の歌劇《ファウスト》のスコアに見られる天才性に驚嘆し、音楽談義に、合奏に、互いの自作曲の披露を存分に楽しんでいる。作曲に専念できる環境に、豊かな自然、公爵本人と家族、周囲の人々の親切、すべてが本当に素晴らしかった。
 とりわけラジヴィウ家の2人の令嬢、エリザ姫とヴァンダ姫については、
「きわめて優しくて上品な上に音楽的で、それはそれは可愛くて、まるで天国にいるよう。追い出されるまで、いつまでも居座っていたいくらいだ」
 と、親友のティトゥスに宛てて書いている。

 この館でフレデリックは公爵の為に、高度な名人芸を要する〈チェロとピアノの為の序奏と華麗なるポロネーズ〉Op.3の、ポロネーズ部分を手がけ、滞在のお礼にと楽譜をプレゼント。後に改めて Op.8の〈ピアノトリオ〉を正式に献呈している。

 そしてフレデリックは後にパリに移住してからは、アントニの弟、ヴァレンティ・ラジヴィウとも交流を深めてゆくことになる。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?