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「白の Rondo」 ③


これまでの、アントン・ヴァイスの物語は……


 往年の舞踏会写真の貴婦人アウレリアに恋をしたピアニストのアントンは、19世紀末のウィーンにタイムトリップするも、一足違いで彼女は命を落としてしまう。
 何故かアントンは、この時代ではアウレリアの婚約者として存在しており、2人が養子に迎えるはずだったという少年トニーを大切に思いつつ、彼女を取り戻す方法があると信じ、運命の流れに身を任せることにする。



『白の Rondo』③


 アントンは屋根裏部屋にこもり、膨大な編曲の作業をこなしてゆくか、あるいはひたすらピアノに向かい続けた。

 ハプスブルクの時代、憧れの世紀末のウィーンの街を訪れていながら、散策したり、歴史に名を残した芸術家や文化人が集っていそうなカフェを覗いてみる気分にも、まだ到底なれそうにない。

 ──最愛の婚約者を失う──という事情を心配した、3階に住む大家一家の全員が交代で日に一度か二度、差し入れの食事と共に様子を見に来る以外、彼は人と会うことはなかったし、自ら会おうともしなかった。


 数日後、フリューリング夫妻がトニーこと、アンソニーを伴って訪ねてきた。気を利かせた大家が彼等の居間に案内し、上等の菓子と紅茶でもてなしてくれた。

「この子をかくまって欲しいんです」

 単刀直入に2人は切り出した。
 聞けば例のミヒャエルが、敷地内やトニーの学校にまでその影をちらつかせているという。
 狙いは果たして、英国ホワイト家の、あるいは母方の未知なる財産か? それとも少年の潜在意識が、母親失踪に関する何か秘密の鍵でも握っているのか? 
 アウレリアとアントンが婚約し、養子の話が進んだ辺りから、ミヒャエルは再び近辺に現れ始めてはいたが、アウレリアの死で拍車がかかった。
 フリューリング夫妻は娘の死にミヒャエルが関与していると確信していた。逮捕、拘留までは時間の問題。しかしそれまでは油断がならない。追いつめられたら自暴自棄になって予測を超えた行動に出る可能性もあるだろう。

「護衛はつけているものの、こちらの居場所を知られているだけに不安でしてね」

 アントンは快く保護を引き受けた。そもそも倉庫同然の、こんな屋根裏に人が住んでいるとは、たとえ警察が調べても突き止められないはずだ。

「ここに来ることは知られなかったでしょうね」
 アントンは念を押した。

 馬車はすぐに帰したし、降りた場所も大分離れた所だったから大丈夫、との返答だった。




 アンソニー少年は屋根裏の生活に目を輝かせ、心から気に入った様子だった。真っ先にベーゼンドルファーに飛びついてゆく。

 すぐさまアントンはこの少年が普通でないと気づいた。

 軽やかなモーツァルトのソナタに始まり、ハイドンやベートーヴェンまでもを、しっかりしたタッチで、すべて暗譜で正確に、しかも自然な歌心と共に弾きこなす。加えて磨ぎ澄まされた音の美しさ。そして恐るべき集中力。
 大変な才能ではないか! 
 早いうちに音楽学校に入れて専門の教育を受けさせるか。それとも当面は自分の指導でのびのび弾かせてやり、素直な感性を大切に養うべきか。


 メンデルスゾーン風の、少々つかみどころのないふしぎなロンドを、少年はふと途中で止めてしまった。

「途中で止めないで」
 アントンは少し厳しい口調で言った。
「今のは何?」

「えー、これは」
 エヘン、ととりすましてトニーは続けた。
「シューベルトの子ども時代の未完の曲で、〈古びた水車小屋のロンド〉といいまして」

「うそを言うんじゃない」
 アントンは笑いながら少年のぽっぺをつついた。「きみのオリジナルだね? 楽譜は書いてるの?」

「そういう面倒なことは……」

「何かが浮かんだら、それが夜中であっても明け方であっても、何でも形にしておくこと。そして必ずおしまいまで仕上げること」

 そして練習に対しては常に勤勉であること。楽譜には謙虚に向かうこと。しっかりした耳を持ち、一音一音の響きを大切に扱うこと──。
 アントンは、根気良く、丁寧に、音楽との基本的な関わり方を小さな天才に伝えていった。


 しかしいつまでも待ち続けるわけにはいかなかった。アントンは考えた。何かがひっかる。アウレリアの魂がどこかでさまよっているのだとしたら……。

「そうだ写真!」

── 舞踏会の写真を手に入れよう。アウレリアが戻って来れるかも知れない ──。

 1、2時間出かけてくるが、自分が帰宅するまではどんなことがあってもドアを開けないように、たとえ大家でもフリューリング夫妻でも、警察でも皇帝でも開けてはならない、とアントンは少年に言い聞かせた。

「ドアの内側から鍵を差し込んだままにしておけば、外からは合い鍵でも開けられないから心配しないように」
「アントンが帰って来たら、どうやってわかるかなあ?」
「〈古き水車小屋〜〉のリズムでノックする。それが合図」

 市内の老舗の写真屋には何軒か心当たりがあった。アントン自身もプロフィール用に撮ってもらったことが幾度かある。

 ウィーンの街並みが、とりわけ旧市街は百年前でも殆ど変わらないのは有り難い。往年のカフェに、ふらりと入ってみたい誘惑は何とか退けた。トニーを1人にしてはおけないのだ。

 写真店は、やはり店自体がまだ存在していなかったり、店はあれども、それらしい舞踏シーンを撮っている所は見つからなかった。宮廷に出入りできるとなると、皇室御用達のような高級店だろうか。あるいは個人の写真家なのか。
 もう一軒、新市街のマリエンヒルファー通りにこじんまりとした写真館があったことを、アントンは思い出した。あそこは子ども専門店だったか……。いやいや、それは未来の話。ダメ元で行ってみよう。

 大当たりだった。

 動きのある舞踏シーンの撮影は、21世紀の現代ならいとも簡単にシャッタースピード調整ができても、この時代は、まだまだ発展途上であったカメラの質に加えて、瞬間を確実に捕らえるカメラマンの相当な鍛練が必要とされていた。
 長年に渡り、宮廷舞踏会を撮り続けてきたという年配の店主は、フリューリング家とも懇意にしているという。家族のアルバムも折に触れて撮っていたが、最近は若い者に任せがちであった為、アントン・ヴァイスのことは──、

「ああ、どこかで知ってると思ったが、写真で見たんだね」

 フリューリング家のアルバム! 

 アントンは感激の声を漏らしてしまった。かなり色あせた、若きフリューリング夫妻の高貴で美しい写真。幼いアウレリアに、少女アウレリア! 
 アルバムの後半辺りから例のミヒャエルが登場し始めたのは気に入らなかったが、幼子トニーのあどけない笑顔の何と貴重なことか。やがてアントン・ヴァイス本人までがちらりと写っているような、まったく記憶にない光景もあり、とてもこの場で見きれるものではなかった。屋根裏に留守番させているトニーのことも気がかりだった。

「これ、お借りしても良いですか?」
「ああ……。しかしうちの若いもんが撮った、あまり良くないのも混じってるがな」

 店主は少しばかり気の進まない様子だったが、来店客の応対に追われ、青年の住所も聞かずアルバムを貸し与えた。


 アウレリアが少女の頃から、アルバムの主役は完璧なまでに美しい彼女に独占されていくようだった。
 じっくり見ていくと元夫ミヒャエルの姿は割に少なく、アントン自身の姿も隅っこに申し訳程度に写っているくらいだった。実際には存在していないはずだから?

「これ、アントンの足。これもアントンだよ」

 後ろ姿や、体の一部をトニーがめざとく見つけて指摘するまでは、本人が見てもわからない。撮影者に悪意があるとしか思えないほど、意図的に構図から切り取られているようだった。
 常に写真の中心に配置されているアウレリアの姿は美しく、シャッターチャンスも絶妙であったが、写真全体の芸術的価値は低そうだ。被写体がこんなにも魅力的なのに。
 若い弟子が撮った良くないのも混じっていると店主が言っていたように、一枚一枚の写真がとても貴重だった時代だから、たとえ構図が悪くとも、惜しくて処分できなかったのだろう。

 アルバムの中でアントンがとりわけ気に入ったのは、まだ少女であろうアウレリアが数人の女友達とドナウ河畔の芝生に座り、一輪の白い花を手に思い切り明るく笑っている、楽しげな写真だった。

「ああ、例のプロポーズのシーンね」
 トニーがそっけなく言い捨てた。

 アウレリアが理想の男性像について、

「危険な岸辺から命がけで花を摘んできてくれるような、ロマンティストがいいわ』

 と語るや、側にいた仲間の1人のミヒャエルが、「ではわたくしめが」と川に飛び込み、皆の声援の中、対岸から一輪の花を摘んできてひざまずき、プロポーズの言葉とともに彼女に捧げた、という。
 アウレリアは彼に感激のキスを贈り、2人はその場で婚約した、という。

「聞き捨てならない展開だね」
 アントンはむくれた。これこそが一連のトラブルの根源か。

 このシーンさえ起こらなければ。

 こうしてトニーが身の危険に怯えて隠れている必要もなく、アウレリアだって……! 本当に奴がアウレリアや後妻を手にかけた凶悪殺人犯だとしたら、

── 変えられないだろうか? プロポーズそのものをなかったことに ──。

 過去を変える。

 それは傲慢で危険な、愚かしい考えだったが、アントンはすっかりとりつかれてしまった。
 写真には1883年、アウレリア18歳とある。

「今年って何年だっけ?」
 しらばっくれてアントンは尋ねた。
「1897年だよ」

 つまり14年も前なのか。いらない五線紙の裏に自分たちの名前や年齢、年代を記入していく。え? アウレリアは今年32歳だったのか? ぼく、24歳。アントンは衝撃を受けつつも自分に言い聞かせる。許容範囲、許容範囲。

「誰かが邪魔すれば良かったんだ」
 トニーがつぶやいた。

「ぼくが居たらね」
 アントンもため息をつく。

「ぼくだよ」トニーが息巻いた。
「絶対ぼくのほうが速かったよ。かわうそって言われるくらい泳ぎは得意なんだから」

「残念。その頃きみはまだ生まれてなかったね」
 ──実は自分もなのだが──。

「だから今の! 今のこのぼくが昔に戻って、そこに居たらって話」

 アントンは感心してトニーを見た。
「そしたら、11歳違いの恋だね」
 もしかして、この子は理解できるだろうか。

「大人になるまで待ってて下さいって言うよ」

 伝えておくべきだろうか。理解できるだろうか。
 万が一彼が無邪気に誰かに喋ってしまったらどうなる? へたすりゃ2人とも精神病院行きか? 

 添い寝のベッドでトニーの安らかな寝息を聞き、桃色のほっぺを眺めつつ、アントンは一晩まんじりともせずに考えた。
 自分やアウレリアの周辺に生まれた時空のゆらぎに、この少年が巻き込まれないとも言い切れない以上、隠しておくのはフェアじゃない。どころか、既に彼はこうして巻き込まれているではないか。

 アントンは決意を固めた。目覚めたら話そう。



④ に続く……


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