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「額縁幻想」 ④ 鏡に消えた男

「額縁幻想」④ 鏡に消えた男

 玄関の鍵は開いていた。昨日は荷物が多かったし、自分が締め忘れたのだろう。でも、門の鍵は閉まっていた。まさかあの鉄柵を乗り越えて出入りしたのか。わたしがピアノを弾き続けていたから、チャイムを遠慮したというわけ?

「困った困った……」
 絵里香は朝から落ち着かなかった。彼が来たらどう対応して良いものか。仮に額縁を奪おうとしても簡単に持ち去れるものではないから、その点は問題ないにしろ、彼を家にあげて良いものか。
 誰かに立ち会ってもらえたら? 音楽仲間のおばさまとか? 
 いけないいけない。どんなに信頼のおける人でも、秘密がどう漏れるか知れたもんじゃない。それに相手が巨大な悪の組織だった場合、危険にさらされるのはわたし一人で充分。たとえ警察でも、ダメ。余計にダメ。国の情報機関に通報されて、世界規模の陰謀が繰り広げられることになりかねない。

 鏡にまつわる想いはロマンティックな淡いものだったはずが、なぜ、こんなサスペンスに? 
 彼の目的は、いったい何なの? 個人? それとも組織? 大切な話って? 秘密って何? 



「インペリアル・エッグをお持ちしました」

 玄関先で、ビロードの包みから彼がいそいそ取り出したのは、あの有名なファベルジェの卵だった。

 きらきらと輝く手の平サイズの精巧なオルゴール。明るいグリーンが基調の本体に、優美な黄金の縁飾り。花のようにあしらわれたパールやクリスタルが所々にはめ込まれている。価値のつけようもないほどの、素晴らしい芸術品だ。

「これもハプスブルクの財宝?」

「そうかも知れないし、そうとも言えない。我が家の家宝だった、と言ったらいいかな。オーストリアの皇太子から、祖父が贈られたものです」

「いったいいつの話かしら?」

「フランツ・フェルディナント。サラエボで暗殺された、あの皇太子ですよ。若い頃、祖父は彼の側近でした」

「家宝だった、とは?」

「今日からお宅のものになるからです」

「そんな!」
 絵里香は飛びのいた。
「まさか、あの鏡と交換しろと?」

 クラウスはきょとんとして、それから軽快に笑った。
「そうか、そういう手もあったか」

 ドキリとしてしまう絵里香。まったくもう、この人は……。普段の生真面目な表情と、突然現れるくったくない笑顔のギャップが激しすぎる。

「大丈夫。そんな提案はしませんよ」
 再び真面目な顔つきに戻り、クラウスはオルゴールの台座の裏についたネジを回し始めた。

「これは差し上げます。お近づきの記念に」

「そんな高価なもの、頂けません」

 彼のぺースに巻き込まれてはいけない。絵里香は再びきつい表情で壁を築いた。しかし、それもわずかな間しかもたなかった。

「ここを押してみて」

 インペリアル・エッグの上部の、エメラルド色のボタンを言われるままに押すと、左右二つに開かれた卵の中から花細工が現れた。夢のように愛らしいオルゴールの音楽に乗って、くるくると回り始める。
 絵里香の心はすっかり溶けてしまった。

「きれい。それに可愛い曲」

「ロシアの作曲家、リャードフの曲で、題名もまさに〈オルゴール 〜 音楽の玉手箱〉」

 クラウスはちらりと階上を見上げた。

「聞こえてるんだろうな、あの鏡にも」

 ぎょっとして、絵里香は周囲を見渡した。通りに誰が居る分けでもないのに。
 この人は何を言い出すの? 誰かに聞かれなかっただろうか。まるで鏡が生きているような表現を。

「今は亡き祖父の代理で、ぼくは来たんです」
 あらたまって、彼は言った。

 二人は真剣な表情で、しばし見つめ合った。

「話が長くなりそうね」
 絵里香は観念し、玄関の扉を大きく開けた。
「どうぞお入り下さい。もうじき友人が来るんですですけど」

 個人的な友人など、この地ではまだいなかったし、来る予定もなかったが、とりあえずそう言っておけば、彼も警戒して滅多な行動には出ないだろう、との魂胆であった。


「祖父はかなり長生きしたんですよ。90才以上もね」
 絵里香に勧められるままにソファに腰掛け、クラウスは静かに語り出した。

「とうに亡くなった皇太子との守秘義務に縛られて、生涯に渡り、その秘密を誰にも告白することができなくて」

 自分の人生を決定づけた、遠い過去の瞬間を振り返る。まだ7歳だった頃のこと。

「だが臨終間際、家族が席を外した僅かな隙に、ぼくに秘密を漏らしたんです」


「クラウス、お前だけに言う。よく聞くんだ」
 半ば意識を失いかけていた祖父が、やおら起き上がり、ぼくの手をきつく握り締め、目をしっかり見開いて言ったのだ。

「皇太子殿下との約束で、誰にも言えなかった話だ。鏡の中に消えた男がいる。その人物に会って欲しい。ふしぎな鏡は、彼の家にまだあるはずだ。その鏡の行く末を見届けて欲しい。お前自身の目で。
 すべてはわしの秘密の日記に書いてある。鍵付きの日記だ。帝国時代の書類と共に、本棚にしまってある。誰にも話してはいけない。日記は読んだら燃やしなさい」

「鍵は? 日記の鍵はどこにあるの?」
「鍵はファベルジェの卵の、台座の中に隠してある」



 クラウスは、ソファの前のローテーブルに置かれたインペリアル・エッグのボタンを押した。卵は開いて広がり、再び透明な美しい音色が流れ出た。

「飾り戸棚に大切に仕舞われていたファベルジェの卵を、幼い頃からぼくはこっそり出してはネジを巻き、オルゴールの夢の世界に浸っていた。ただ、妙な共鳴音、金属的な響きが気になっていた。その鍵が原因だったと、その時わかったんです」

 それから祖父は、自分が彼を銃で撃とうとしたことや、幻のように聞こえてきた美しい音楽のことを、うわ言のように話した。

 それはいつものふしぎなおとぎ話のようだった。

「クラウス、お願いだ」
 苦しげに、祖父は言った。
「時間旅行のできる鏡なのだ。悪用されると大変なことになるのだ。わしが預けたその鏡がどうなっているか、行く末を見届けておくれ」

 大好きなオーパが、遠くへ逝ってしまう……!
 泣かずにはいられなかった。
「オーパ、わかった。約束する。必ず確かめるから」
 わけもわからず、ぼくは何度もその言葉を繰り返した。祖父は静かに眠り、再び目を覚ますことはなかった。



 絵里香はそっと涙を拭った。
 オルゴールの音色だけが、静かに鳴り響いている。周囲の時がすべて停止しているように。優しくありながら、どこか哀しげな、ふしぎなメロディー。現実にはない、幻想世界の夢の音楽。

「日記には鏡の中に消えた青年のことが書かれていた。シュテファン・ハイデンベルク。あなたのおじいさまのことです」

 オーパが!? オーパも鏡の秘密を知っていた? だから屋根裏に隠してあったの? 

「青年時代の彼、シュテファン・ハイデンベルクに会ったのは、祖父が20歳の頃だった。場所はシェーンブルン宮殿。ハイデンベルク青年は鏡の中から現れ、その場で皇太子の拳銃自殺を止めたうえで、皇太子に『サラエボには行かないように』と警告し、再び鏡の中に消えたのです」

 クラウスは慎重に続けた。

「4年後、皇太子夫妻はサラエボで、秘密結社『黒い手』の手先のセルビア人に暗殺された。そして第一次世界大戦が勃発した」

 言いながら、クラウスは思い起こしていた。

 日記によると、祖父の後悔は大変なものだった。皇太子の側近は、自身の命に代えてでも、皇太子を守るのが最大の使命。なのに自分ではなく、別世界から現れた青年が、二度までも皇太子の命を救おうとした。自殺未遂と、暗殺の警告と。なのに自分は何もできなかったと。

 あるいは、彼は皇太子フランツ・フェルディナントの守護霊だったのか。

「そしてそれから半世紀も後のこと。祖父は既に70代半ば。なのに、鏡に消えた当時とまったく変わらぬ青年ハイデンベルクの姿を、この街で、再び見ているのです」

 恐ろしい沈黙。
 彼の言っていることが、絵里香には理解できなかった。

「つまり、うちの祖父が50年間、歳を取っていなかったと?」



「額縁幻想」⑤ へ続く……。




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