[#今こんな気分] ゲゲゲの杉太郎 第2話 マママのマイ・マザー
第1話はこちらです。2話にうまくつながるように、少し修正しました。
何度か他の漫画にも描いているように、我々は子供のいない夫婦です。その主な理由は、妻が家庭を持つことにプラスのイメージを持てないからです。そしてさらにその理由は、妻にとって家庭は苦しみの多い場所だったからです。
私自身は妻の幸せを最優先に考えているので、自分が子供を持てないことに特に悲しみや後悔は感じません。全ての被害者は妻自身です。だから昔が辛かったぶん私と結婚した後は出来るだけ彼女の好きなように生きさせてあげたいのです。そもそも、産む際に大変だったり痛い思いをするのは女性の側ですもんね。無傷の男がギャーギャー言うことではないです。そして子供がいなければいないなりの幸せの求め方もあるはずです。こんなふうに私は、45歳のオッチャンにしては比較的現代っぽい考えだと思います。友人の中には「普通絶対、子供とか産ませたほうがいいんだけどな~」と、男尊女卑The・オヤジ発言の人もいるのですが、元から私はあんまり普通じゃなかったので、そっちに引っ張られることもないです。
ただ、今回の漫画に描いたように、母ちゃんを妻の家庭の毒に巻き込んでしまったこと、孫の顔を見せてあげられなかったことには悲しみを感じます。私は今風の自由主義っぽい考えと書きましたが、自分の自由な価値観を尊重する事は他人の価値観も尊重する事が絶対です。そして母ちゃんの価値観は昭和の古い価値観です。つまり孫を持つことが人生のビッグハッピーイベントという価値観です。
少し話がそれますが、私は何度か父方のおばあちゃんについての漫画も描きました。おばあちゃんは若い頃に離婚しており、子供も3人いて非常に苦労していました。それもあってか50代で総入れ歯でした。私はおばあちゃんに育てられ、おばあちゃんのことが大好きでした。20歳の頃おばあちゃんがガンで亡くなった後、父親から2つの事を聞きました。おばあちゃんは苦労が多かったのでガンになった時も「もう人生に疲れた」と言って治療無しを選んだこと、そしてそんなおばあちゃんの唯一の老後の楽しみは、孫の成長を見守ることだった、という事です。さらに、おばあちゃんは私のことを神様のような存在だったと言っていた、ということも聞きました。
今よりずっと女性にとって厳しい時代に離婚して、苦労しすぎて歯も無くなって、人生に疲れた老人の唯一の楽しみ、しかも神レベル、これが孫パワーというわけです。
話を母ちゃんに戻すと、妻が家庭を持ちたくないことは、私はずっと知っていましたし、母ちゃんのことを考えて悲しいとかも以前は思っていませんでした。思うようになったのは、結婚して妻の毒家庭と距離が縮まり、そういう嫌な関係が世の中にあることをリアルに感じたからでした。それにより、自分の親のありがたさ、尊さに気づいたのです。結婚して10年、毎日彼らの毒を見続けることで自分の親への感謝は大きくなり、そして悲しさも増していったのです。
私の家庭は、ごく普通の家庭でした。それは子供が子供らしくいられた環境だったということです。不完全な子供が不完全なりに生きられたということです。毒の家庭は子供が家族にビクビク忖度しながら生きる家庭です。それはちょっとしたことで本気で殴られたり、小言をネチネチ毎日言ってくるとか、お前には高~い学費払ってやってるんだからテストは毎回100点じゃないとおしおきだとか、いろんなパターンがあります。子供が子供らしくいられるとは、自分が自分らしくいられるということです。当たり前のことですよね。それが出来ていたのが私の家庭で、出来ていなかったのが妻の家庭でした。
毒の親は、その親もまた毒であったため、子供の頃に子供らしくいられなかったというパターンが多いです。そのため、自分の子供にも自分がされたのと同じ本質で接してしまいやすいです。さらに子供の頃に子供らしくいられないと、大人になっても幼児性が残ります。子供の頃に幼児性が満たされなかったからです。そしてそういう大人は時々、子供で自分の幼児性を満たそうともします。子供にワガママを言ったり、子供をいじめたり暴力をふるったり思い通りにコントロールしたり、母と娘であれば娘のことを女としてのライバル的な見方をしたり、ということです。これらは全て本来は、子供が親にしたり子供同士ですることです。大人が子供にすることではありません。
逆に私の家庭はそういう要素はゼロでした。親は親、子は子でした。かといって別に甘やかしもありませんでした。おもちゃはそんなに買ってもらえませんでしたし、悪いことをしたら怒られました。ごく普通の家庭でした。でも今、私が妻の幸せを最優先にする生活を送れているのは、そういうごく普通の家庭で育ったからなのです。これは間違いないです。子供の頃に子供らしくいられたため、私の幼児性はその頃に満たされ、現在大人になれたのです。私が妻をいたわれているのはそういうごく普通の親が当たり前のことをしてくれていたおかげです。なぜなら他者をいたわりながら生きるには、幼児性が極少であることが必要だからです。幼児性とは自己中心性でもあるのです。もし私の幼児性が強く残っていたら、母ちゃんに孫の顔を見せるという自己中心的な理由で、妻に子供を産ませていたのかもしれません。ワガママによって、他者をコントロールする、↑↑で書いた毒の親と同じことです。
毒の家庭では一人ターゲットを選んで、その人を感情のごみ箱にすることが多いです。妻がまさにその立場でした。彼らは今日一日のストレス、自身の劣等感、過去に子供らしくいられなかった幼児性からくる無意識のいら立ち、それらをごみ箱である妻にぶつけて、自分の心を守っていました。そして無事、兄の再婚家庭には子供が産まれました。妻に自分の心のごみを捨てることで、妻ほど心が壊れることがなく、家族を持つことができたのです。母も兄もニッコニコです。間違ったことをしていた人たちは幸せになりました。正しいことをしていた私の母ちゃんはどうでしょうか。彼らに子供が産まれて以来、さらに私はいろいろ考えるようになりました。私のおばあちゃんが孫パワーで老後ささやかな幸せを感じられたことも思い出しました。おばあちゃんが私の事を神様のような存在と言っていたように、毒母にとってもその孫は神様のような存在なのでしょう。私の母はどうでしょうか。神様を感じることができないまま生涯を終えるのでしょうか。正しく生きた結果、毒家庭の闇に巻き込まれてしまったのです。最初に私は、妻は毒家庭の被害者であると書きました。そして間接的に母ちゃんまでも被害者にしてしまったのです。
妻の体調は、知り合ってからの20年ずっと悪いです。というかその前からもずっと悪いです。私もいろいろあってからの不眠症もあって、心臓の病気にもなってしまいました。もし私が妻より先に死んでしまったら、妻はまた毒家庭に戻りみじめな思いをして暮らすことになるでしょう。まさかの母ちゃんより先に死んでしまったら、善人の母ちゃんの人生は何だったのでしょうか。そして全ての大もとである毒人の彼らは何も知らず、幸せMAXニッコニコなのです。そんな考えなくてもいいことを考えてしまうと、さらに憎いんだか悲しいんだかが混ざったような気持ちが大きくなります。でも、こんなふうに私が母ちゃんのことを思って怒りを増幅させているのが、母ちゃん自身が最も悲しむことなんですよね。毎年お正月に妻ちゃんと一緒に実家に帰ると、こんなふうに料理を作って待っていてくれます。でもこの時だけは、私も妻も、母ちゃんも、よけいなことを考えず、オンボロの家で、オシャレでも高価でもない食事を囲んで、とてもささやかな幸せを感じられます。会食恐怖という外でごはんが食べられない症状があった妻も、パクパク食べてくれます。それがその場にいる全員にとって、何よりの幸せなのです。
そしてもちろん、母ちゃんは私や妻に孫はまだか的なことは絶対に言いません。プレッシャーもかけてきません。子供の頃と同じく、私たちが私たちらしくいられる環境なのです。でも妻の母はよく言ってきました。幼児性・自己中心性とはこういうことです。
ゲゲゲの杉太郎シリーズはこんなふうに、いろいろ考えすぎからの隠された怒りでもって描いています。怒りを隠しすぎると体に悪いからです。循環器科の先生に「心臓は心の臓器だからねえ~」と言われたことがきっかけです。でも、ネガティブがクセになるのはあまり良くないので、たまにしか描かないと思います。それよりも、妻と向き合った20年間で学んだこと、それによって気づいた母ちゃんの尊さ、それらを活かした漫画を描くほうが私も読んでくれている人も楽しいはずですし、何かお役立ちというか、世の中へのプラスの効果にもなると思います。そのプラスがわらしべ長者みたいに巡って、母ちゃんへのプラスになるとさらに良いな…と思います。最後まで読んでくれてありがとうございました。
※話を母ちゃんネタに集中させるために、この文章では父ちゃんの存在を省いています。父ちゃんネタの漫画もまとめました。
妻ちゃんネタの漫画もまとめました。やっぱり圧倒的に多いです。
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