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心を海に置き忘れて

「貝殻を耳に当てると波の音がする」

小さいころ、そう聞いた。
信じて耳を澄ませても何にも聴こえなくて、「嘘じゃないか」とがっかりした。

海を離れて、波の音を聴かなくなった。

水切りをすることも、シーグラスを拾うこともしなくなった。

私は海のない町に来た。

朝の天気予報を見ていても、キャスターは波の高さを伝えない。夏になっても、海へ行くとなれば一日がかりの小旅行だ。嫌なことがあったり、疲れて波の音だけ危機に自転車を走らせていたあの時間がどれだけ自分に必要だったかを、それだけそれが自分の心のよりどころになっていたかを知ることになる。

いやあ、本当はそうじゃない。
ずっと知っていた。故郷の海も、ほかにも空も星も大好きで、大切だとわかっていた。
けれどこれほどまでに自分に欠かせないものだとは、もう一歩、いやもう何歩も想像が足らなかったのだ。

故郷を訪ねて久しぶりに海に会いに行ったとき、砂浜を歩きながらふと貝殻が目に留まった。先がとんがっていて、茶と黄と白のドットをくるくると巻いた、この辺ではよく見る渦巻き貝である。ところどころに螺鈿のような虹が光る。懐かしくってポケットに入れた。

あっというまに週末が終わって京都に帰るとき、ふたり掛けの席の窓側で、流れていく海を見つめていた。自分の目の前の窓ガラス、ちょうど私の額の辺りに白い汚れがついている。私と同じように、誰かも海に別れを告げたのだろうか。灰色の建物に遮られて見えなくなっていく海を、窓に顔を押して必死に追いかけるその人の残像が浮かぶ。

ひゅおっと灰色に呑まれて青は見えなくなった。

縮めた背をシートに預け、所在のなくなった両手を上着のポケットに突っ込む。とんと指先が何かに当たった。あの貝殻だと見る前に思い出した。取り出して、何の気なしに耳に当てる。かすかに聴こえる寄せては引いての繰り返し。一度離して、もう一度。聴こえるはずがないのだと心のどこかで分かっている音が、確かにした。波の音がした。

きっと私は、海に心を置き忘れてきたのだ。

貝から聴こえる波の音は、忘れてきた心が聴いている音。私の心のそばにある音。人は大人になるまでに、いろんな場所に心を少しずつ忘れてくるのだ。その場所にある心と、その場所を思い出す起点の何かが共鳴して、音を届けるのだと思う。だから子どもの私には聴こえなかったし、「貝殻を耳に当てると波の音がする」そう教えてくれたのはみんな大人だった。

ほかにもいくつもあるけれど、拾いに行ける場所ばかりではない。でも、悲しくはない。
 
どの場所にも、寂しさの中に、確かに楽しさや明るさがある。にぎやかな笑い声がして、ひとつの舞台をやりきったような澄み切った達成感があるのだ。そこに置いてきたことで、私が私になれたと胸を張って言える。

ただ、海に置いてきた心だけは、拾いに行きたいと思っている。
いつか、と言わず、近いうちに。
 

それまで、私の手にある貝殻からは、波の音が響くだろう。



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