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子宮へのレクイエム

数年前に子宮の全摘手術をしました。
大して大きくないのに場所が悪くて毎回生理の度に大量出血する要因となっていた子宮筋腫のためです。

ピルが効いていたら、閉経まであと数年をそれで誤魔化すつもりでした。が、途中からピルは全く効かなくなって、量を増やすことを提案されたけど、症状は酷くなる一方で、それもいつか効かなくなるような気がして、結局いつか手術になるのなら早い方がいいと思ったのでした。

もう40代半ばだったけど、先生に「全摘でいいよね?」って云われた時、本当はちょっとだけ残念な気もしました。

子どもはひとり。
キリギリスのようにディンクスを満喫しすぎて、ひとりめは既に高齢出産。
母乳育児のせいか生理が戻ったのはなんと2年後。で、2人目はもう授からなかったです。
自分のキャパ的にひとりで丁度いいような気もしたので、不妊治療の予定もありませんでした。

この時のわたしには、子宮を失うことより、毎月の症状の酷さをどうにかすることの方がはるかに大事なことでした。

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手術室に入る前、みんなに「頑張ってね」って云われたけど、全身麻酔だから何をどうしろと、と思ったのを覚えています。


全身麻酔は本当に不思議です。


数を数えて下さいと、看護師さんに言われて、4まで数えた記憶があるけど、その後は手術後に目が覚めるまで何も覚えていません。


まさに、無。


意識喪失は、眠っているのとは違って時間が流れた感覚がひとつもなくて、時を飛び越えたみたいです。

もしかしたら、死んじゃうってこうゆうこと?と思いました。
眼が覚めるかどうかの違いしかないような気がして。

そこにはお花畑も川もなかったから、 臨死体験とか、本当に死んじゃうのとはやっぱり違うのかもしれませんが、それ以降私が思う死のイメージはあの「無」なのです。

人は、感じる時間が短いほど幸せで、感じる時間が長いことは不幸せだという説を聞いたことがあるけど、そこには幸せも不幸せもありませんでした。
その説が正しいなら、全身麻酔中は超ハッピーとなりますが、まあそうではなさそう。

死が無であるなら、全身麻酔と死は似ているかもしれないけど、無であるかなんて誰にも分からないので、答え合わせはその時までお預けです。

とまあ、

こんなことをのんびり考える余裕があったのは、全摘の手術がトラブルなく順調に終わった証拠でもあり、先生をはじめ看護師さんや病院の皆さんには感謝しております。

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子宮全摘については、喪失感を伴うこともあるようですが、わたしの場合は生活の中の厄介な困りごとが一掃された爽快感の方がずっと大きくて、心の落ち込みは殆どありませんでした。

普段は全摘したことも忘れてるくらいですが、長年の不摂生のツケを子宮が引き受けてくれたのかなあ、と申し訳ないような気持ちに襲われることがあります。

身体を冷やすなって親に言われても、全く気にしてなかった、とか。
身体に悪そうなものを平気で食べてた、とか。
運動やエクササイズ的な身体によさそうなことは一切縁がなかった、とか。

そういうもののツケをわたしの子宮は引き受けて、摘出されていったのかもしれません。

まるで奇跡のように授かったひとりの子を、10ヶ月間育んでくれたのに。

わたしは子宮に感謝するどころか毎月の生理の時は酷く恨んでいたのでした。

ごめんね、子宮。

だめな宿主だったけど、娘には身体を冷やさないようにちゃんと伝えてるよ。鬱陶しい説教だと思うけど、大事なことだから。

今はもうない、わたしの欠片。

ゆっくり眠っていてね。




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