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小説「アウスリーベの調べ」第10話(最終話)

 モデルとなって立っている時間はそれほど長くない様に感じたが、気付けば時計の針は午後零時に迫りつつあった。足腰には突っ張った様な痛みが顔を覗かせている。

「ちょっと座っていい?」

 相澤に訊ねたが、初め彼の耳に沙耶の声は届いていなかった。三度目でようやく、「ごめん。気付かなかった」と反応があり、彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろすことが出来た。
 窓辺の机上には今朝沙耶が砕いた硝子の破片が散らばっていた。石を投げて窓硝子を割るなどということは生まれてこの方一度もやったことはなかった。いつもの彼女なら後で見付かった時に怒られないよう手に取った石を捨てたことだろう。しかし、今朝はそんなことを気にしている余裕も無かった。気付いたら体が動いていたのだ。夕莉がどうして自ら命を絶ってしまったのかということを考えると、自然に動いてしまっていた。不安もあったし恐怖もあったが、それ以上に羨ましいという気持ちが沙耶を焚き付けた。あの石は、一体何に向かって投げられたものなのだろうか。

「……お昼にしない?」

 腹がぐうとなった沙耶の提案で、二人は昼食を摂ることにした。学校中の人間が動き始める昼休みに古書室から出ることは危険だったので、沙耶は諦めて自分が持って来ていた弁当を相澤と半分ずつに分けて食べることにした。二人は静かな古書室で食事をしながら色々な言葉を交わした。それは世間話の体を成した取り留めのない話だ。

「朝は苦手なの」
「クロノタイプって知ってる?」
「あ、知ってるよ。個人の睡眠パターンでしょ? 私はオオカミだった。あなたは?」
「イルカ」

「コーヒーが飲みたいな」
「何が好きなの?」
「深煎りしたキリマンジャロかな」
「私はモカ」

「数Bの空間ベクトルっていまいちよく分からないわ」
「そう? 僕は数列の方が苦手だな」

「好きな小説のジャンルとかある?」
「SFは結構読むよ。また読みたいなって思うのはネヴィル・シュートの『On The Beach』だね」
「あ、それ私も最近読んだ。タワーズ中佐が素敵だと思う」
「モイラが魅力的だからね。中佐の選択も納得できる」

 沙耶は自分の箸で、相澤は彼女が持っていた予備の割り箸で同じ弁当をつつき合った。ふと油断すると相澤の端正な顔にどきりとしてしまう沙耶であったが、以前の様な急ぐ鼓動の高鳴りはやって来なかった。ただほんのりと胸の底が温かくなるばかりで、その密やかさに彼女は何の焦りも覚えなかった。

 昼食を終えた後、相澤は再び絵の続きを描き始めた。沙耶もイーゼルの前に立って同じ姿勢を保っていたが、彼があまりこちらを見なくなったので、いよいよ絵の完成が近いのだなと思い手足をぶらぶらと自由にさせた。時折絵筆を止めては頭を抱える相澤。夕莉をモデルに描いた時は短時間で仕上がったと話に聞いていたが、今回は随分と時間をかけているようだ。沙耶はいつしか両手を後ろに組み、ぶつぶつと呟きながら絵を描く相澤の真剣な顔をじっと見詰め続けていた。
 気付けば窓外の光が赤みを帯び始め、しんみりとした夕闇がすぐそこまでやって来ていた。すっかり疲弊した沙耶は窓辺のデスクに腰掛けてその時が来るのを待った。じっと見詰める相澤の顔には点々と絵具が付着し、絵筆を持つ手も微かに震えている。だがキャンバス上に落ちるその瞳は、今まで見たこともないほどに美しく光り輝いていた。沙耶は軽く天井を仰ぎ、「いいなぁ」と小さくぼやいた。私もあんな瞳で見詰められてみたい。

「……できた」

 そんな静かな声が古書室に舞った。沙耶はデスクから立ち上がり、相澤の元へ歩み寄る。徐にキャンバスを覗き込むと、そこには夕暮れの校舎内を背景にして何処とも知れない遠くを眺めている美しい夕莉の姿が描かれていた。やや横顔に、ふんわりとした長髪が風で靡いている。沙耶は思わず息を呑んだ。彼女が夢の中で会った夕莉そのものがキャンパス上に姿を現していた。

「……これでいいの。とても綺麗」

 一仕事終えた相澤が「ふう」と言ってスツールに腰を下ろした時、二人の背後に何者かの気配が音もなく忍び寄って来た。気付いた沙耶が振り返ると、そこには青白い眼を持つ闇がぼんやりと浮かんでいた。異変を察した相澤も背後を振り返り、咄嗟に立ち上がる。青白い眼を持つ闇はやがて大きな体躯をした怪物となり、のっそりとした歩みで奴はイーゼルへと近付いてきた。しばし夕莉の姿が描かれた絵を眺め、徐に「ぐるる」と渦巻く様な吐息を漏らす。

「なるほど。してやられたな」

 怪物は顎を擦りつつ、様々な角度から絵を鑑賞した。

「全ての条件は満たしている筈だ。そして第三の条件にある『怪物が欲しくて堪らないもの』という理屈もクリアしている。夕莉を貰っていってこそ『証明』になる、とお前は言いたいところかもしれないが、お前はかつて夕莉を欲しがり、既に彼女を一度手に入れている。これは確たる証明であり、お前にはそれを否定することはできない」

 相澤が強い口調でそう言うと、怪物は厳かな声音で「確かにな」と答えた。

「良いだろう。約束通り肉体を返そう」

 低くおぞましい声がそう言った。それはまるで人を喰う化物が唸り上げる様な声だった。
「夕莉も返してもらう」と相澤が言うと、「それは無理だ」と怪物は言った。

「何だと? それじゃあ約束が違うじゃないか。何故だ?」

 怪物は「ふっ」と小さく笑う。

「死んだ人間は元に戻らない。当然の原理だ。最初から気付いていなかったのか?」

「……そんな」

 スツールへ座り込んだ相澤は力なく項垂れた。怪物は彼を一瞥した後、イーゼル上のキャンバスを黒く大きな手で掴み上げ、何事も無かった様に闇の中へ消え去ろうとした。

「待って」

 去り際の怪物の背中に沙耶が呼び掛けた。

「絵の中にいる夕莉さんはどうなるの?」

 奴は立ち止まり、「解放される」と静かに言った。

「……どこへ?」

「俺も知らない」

 沙耶は怪物の尻を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られたがぐっと堪えた。

「次はどんな罠を張ったの?」

 震える声でそう訊ねると、奴はゆっくりこちらを振り向いて不気味な笑みを浮かべた。

「罠とは失礼な。こちらが欲しいものを相手がわざわざ用意して差し出してくれたのなら、貰っていくのが礼儀というやつだろう。ただ俺の流儀は、それを徹底的に貰い受ける、というものではあるがな」

 高笑いした怪物は霞の様な闇となって何処かへと消えていった。沙耶が奴の残像を追って暗闇を見渡している時、スツールに項垂れていた相澤に異変が起こり始めた。呼吸が速くなり、青白い肌には無数の毛細血管が太く浮き出、見る見るうちに彼の全身はほんのりと赤みを取り戻していった。苦しそうに胸を抑えて時折強く咳込む。沙耶はそんな相澤の傍へ駆け寄ると背中を優しく擦ってやった。
 やがて落ち着きを取り戻した彼は顔を上げ、自分の手を眺めた後に沙耶を見やった。沙耶はその時、相澤の瞳に激しく涙が溢れ出すのに気が付いた。

「絵はどこだ」

 彼は狼狽えながらそう訊ねた。

「絵? 絵は……」という沙耶の返答も待たず、立ち上がった相澤は埃っぽい古書室中の物をひっくり返さんばかりの勢いで、イーゼルから姿を消した絵を探し始めた。

「怪物が持って行ったよ!」

 沙耶が叫ぶようにそう言うと、相澤は我に返ってゆっくりくずおれ、床に座り込んだまま「……何もかも持って行くつもりか」と苦しそうに零した。
 恐る恐る傍に歩み寄った沙耶は相澤の震える肩に手を置き、「一体どうしたの?」と訊ねる。両手で顔を覆い、その隙間からぼたぼたと大粒の涙を零す彼は静かに頭を振った。

「言って。これはもうあなただけのことじゃない」

 ゆっくり両手を外した相澤は、間近でそう言う沙耶の瞳を見詰め、

「夕莉の顔が思い出せない」

 と言った。沙耶は途端に言葉を失い、彼女もまたその場にぺたりと尻を落とした。

「夕莉はどんな目をしていた? どんな口で、どんな鼻で、どんな耳で、どんな頬をしていた? 髪は長かったのか? 似合う服装は何だ? 背丈は? 待てよ、彼女の匂いだ。確かジャスミンの様な……駄目だ、思い出せない」

 ぼろぼろと涙を零しながら言葉にし続ける相澤を、沙耶はただただ見ていることしかできなかった。

「声は分かる。夕莉はよく『ふふっ』って笑っていた。まるで鈴が転がる様な……。駄目だ、聞こえなくなっていく。あぁ、雑音がうるさい。彼女の声が聞こえないじゃないか!」

 喚きながら床を殴る相澤を、沙耶は咄嗟に横から抱き竦めた。酷く熱を帯びていたものの、絶えず震え続ける体は今にも極寒の地で凍え死んでしまいそうだった。離してしまわないよう、むせび泣く彼をいつまでも抱き締め続けた。

「赤い廊下だけだ。赤い夕陽の、赤い教室……」

 相澤の小さな呟きに、沙耶もいつしか涙を零していた。夕莉の微笑んだ顔を思い浮かべる。赤い世界から少しずつ姿を消していく美しい人。

「夕莉さん。本当にこれで良かったのですか?」

 しかし彼女は何も答えなかった。最後に「ふふっ」と笑う声だけが、遠い夕闇の彼方から聞こえた気がした。

 空がすっかり夜に染まる頃、静かになった相澤から沙耶はそっと身を離した。覗き込んだ彼の面立ちは幾分年齢を取り戻して大人っぽくなっていたが、その瞳に宿っているのは彼女のよく知る十六歳の相澤優也であることにすぐ気が付いた。
しばらく見詰め合った後、「大丈夫?」と沙耶が訊ねる。頷いた相澤は徐に立ち上がり、硝子の割れた窓辺に寄って何処とも知れない夜空を遠く眺めた。

「……木村さん」

 突然名を呼ばれ、「何?」と沙耶は訝しげに訊ねた。相澤はデスクの下に散らばっていた下絵のデッサンを数枚取り上げ、それを彼女に掲げて見せた。

「初めて見た時から、ずっと君の絵を描いていたんだ。いつかキャンバスに絵具を乗せて完成させたいと思う。きっといい絵になるよ。君にはきっと、洗い立ての朝日がよく似合うのだろうな」

 無邪気な笑みを浮かべる相澤に、沙耶はぐっと下唇を噛んだ。しかし次第に力は解け、緩んだ口元からは小さな吐息が漏れ出た。

「……馬鹿」

 それは彼女が、夢の中で夕莉から預かった言葉でもある。

 それから二年後、沙耶は大学生になった。肉体を取り戻した相澤は高校の図書館を無事に抜け出し、名前を変えて現在は『五十嵐来鹿』という画家の元に弟子入りしている。沙耶は暇さえあれば彼らの活動するアトリエを訪れ、二人が絵を描いている様子をじっと眺めているのが好きだった。師弟は客である沙耶に珈琲を出してくれるものの、結局彼女そっちのけで絵を描くことに没頭したり、古いクラシック音楽やヨーロッパ建築の話に耽ったりする。アトリエに置いてあるレコーダーから流れているのはいずれも一九〇〇年代のアメリカの楽曲ばかりで、沙耶は頬杖を突きつつ、「ちぐはぐだなぁ」とぼやくのが習慣になっていた。
 肉体と十三年の月日を取り戻し、それから二年が経った相澤は今年で三十一歳になった。沙耶は十八だが、来月で十九になる。彼女は時々、相澤が一人で何処か遠くを眺めている姿を目にすることがあった。何かを思い出そうとしているのか、あるいは正体の分からない喪失感に身を沈めているのか、結局、沙耶がそれを彼に問い質すことはなかった。この世界で自分しか知らないことを誰かに問うことほど馬鹿馬鹿しいものはない。しかし最近、彼女も少しずつあの人のことを思い出せなくなってきている自分に気付いていた。「ふふっ」と涼やかに笑うあの人の顔が思い出せない。時折、胸に針が突き刺さる様な痛みを感じるが、それはまだあの人の記憶を繋ぎ止めている『証明』であると信じて、沙耶は必要以上に哀しむことはしないようにした。

 初夏の暖かい昼下がり。日差しのもとでそよ吹く風が、ショッピングセンターの屋上に開かれたカフェテラスを通り過ぎる。大きなパラソルは幾つかの影を落とし、その一つに涼みを得ているテーブルで、二つのアイスコーヒーが肩を並べていた。

「……沙耶」

 向かいの席に座る男に名を呼ばれ、彼女は遠い青空から目線を落とした。白いキャペリンハットのつばの向こうに、無邪気な笑みを浮かべる相澤の顔が見えた。

「絵が売れたよ」

 沙耶は「おめでとう」と言って自分のアイスコーヒーを手に取り、ストローを口に咥える。やっぱりミルクとシロップを貰えば良かった、と思うほど苦味の強いコーヒーだった。

「次はどんな絵を描くつもり?」

「そうだな、黄昏時の海なんか良いんじゃないかと思ってる。でもやっぱり君には朝日が似合うし、赤より白や青の色を基調とした背景の方がしっくりくるんだよ」

「……そう」

 沙耶は椅子から立ち上がり、日差しの下に出て思い切り背伸びをした。一陣の強風がやって来て、黄色いワンピースの裾をはためかす。危うく白いキャベリンハットを風に持って行かれるところだったが、彼女はすんでの所で捕まえた。
 ははっ、と笑う相澤に一瞥をくれ、静かな笑みを浮かべる。パラソルの遥か上空を音もなく海の方へ飛び去って行く飛行機の姿が見えた。大きく広げた翼が動いた気がしたが、まさかね、と思いつつ沙耶はしばらく見上げていた。
 冬の寒さは既に忘れ去られ、いよいよ夏の暑さが青い空の向こうにやって来ている。
「もっと描いて」瞳を閉じてそう言った。

「もっともっと、沢山描いて。私はあなたの描く絵が好き」

 それはきっと、決して誰にも奪われることのないものなのだろうから。

   *

 ショッピングセンターの屋上にあるカフェテラス。そこに散らばるパラソルの内の一つで、静かに語り合う二人の若い男女がいた。綺麗な長髪を編み込み、淡い黄色のワンピースに身を包んだ娘は、テーブルを挟んで向かいの席に座る男と言葉を交わしながら、時折どこか悲しげな微笑みを浮かべる。それに気付きもしない男は、しばしば顔を上げて何かを探すよう遠くへと視線を投げ掛けた。ショッピングセンターの屋上に彼ら以外の人気はなく、風の通り抜けるカフェテラスは穏やかな昼下がりの陽光に包まれている。
 そんな日和の下、パラソルで語り合う二人の様子を離れた場所からじっと観察する眼があった。しばらく沈黙に沈んでいた眼は、ショッピングセンターの隣に建つ新築マンションの鉄塔からカフェテラスを見下ろしていたが、やがて遥か遠くを展望し、陽光に煌めく青い海を臨んだ。深いため息を零し、風に広がる長髪を手で撫で付ける。

「何を見ている?」

 突然、背後からそう訊ねる声が聞こえた。徐に振り向くと、青白い眼をしたおぞましい『怪物』がこちらをじっと見ていた。
 小さく苦笑して「あなたには関係ないわ」と答える。
 一度高笑いした怪物は商品を仕舞っているという黒い巾着袋を何処からか取り出し、それに手を突っ込んで紺色の縁取りをした手鏡を寄越して来た。

「お前、なかなかいいじゃないか。ユリ」

 怪物が憎らしく笑ってそう言ったので、ユリはその手鏡を受け取って自分の顔を覗き見た。そこには、奴と同じ様な青白い眼をした恐ろしい化物が映り込んでいた。

「私もとうとう、こんな風になっちゃったのね」

 溜息を零す様にそう言うと、彼女の背後に映り込んでいた怪物がにやりと口を歪めた。

「……美しいだろう?」

「まったく。本当にあなたって碌でもないのね」

 再び高笑いした怪物は、今度は黒い巾着袋の中から『赤い絵』の描かれたキャンバスを取り出し、しげしげとそれを眺め始めた。

「俺はお前に惚れ込んでいるんだよ、ユリ。あの若僧の『愛』は所詮エゴイズムだったが、お前の『愛』は身を切る様な痛みを伴う真実だ。あの薬包を渡した時、単に命を奪うことだってできた。しかし俺はお前の覚悟に感銘を受け、せめて魂だけでも残してやろうとこの絵の中に閉じ込めておいたのさ。冥界の奴らは容赦なく死者を連れ去っていくからな」

 ユリは「ふんっ」と言って紺色の縁取りをした手鏡を怪物に投げ返し、背中の肩甲骨辺りから生やした大きな翼を広げた。ばさりと羽ばたくと、軽い体は容易に浮かぶ。

「これから何処へ行くつもりだ?」

 そう訊ねられたので、ユリは微笑みながら唸り上げる様な声で言った。

「燃える様な憎しみと、愛のあるところ」

 力強い翼は二、三度の羽ばたきで一挙に彼女を遥か高みへと舞い上げた。上空を流れる風は止まることなく、軽い体を海の方角へと運んで行く。風が耳元で笛を吹き、ユリは自分の顔が酷く憎らしげな笑みを浮かべていることに気が付いた。

「わたしは何を奪ってやろうかしら」

 青い天辺を歩む太陽は、次第に西へ西へと沈んで行きつつあった。

< 了 >


最後まで読んで頂きありがとうございました。
この作品は2021年4月から5月にかけ当アカウントにて連載形式で投稿したものを下書きに戻し、もう一度編集・推敲して再投稿したものになります。
大筋の変更はありませんが、細部の設定を追加修正しているので、以前読んだことがある方にも、あるいは初見の方にも楽しんで頂ける形になっているのではないのかなと思います。
約8万文字に渡る本作品をここまで読んで頂いて感謝感激です。
また次回作、あるいは他の作品でお会い出来たら幸いです。それでは。

湯川 陽介

⇩第1話はこちら


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