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小説「アウスリーベの調べ」第8話
ゆっくり目蓋を開ける。そこは赤い夕陽が差し込む学校の廊下だった。
見覚えのある風景。長い廊下は何処までも永遠に続いていて先が見えない。ふと視線を上げると、沙耶が立つすぐ傍の教室の立て札には『二年七組』と記してあった。
「……ここは」
彼女がそう呟いた時、影になっている廊下のベンチで何者かの身じろぎする気配を感じた。誰かが腰掛けてこちらを見ている。沙耶は恐る恐る近付いていき、その姿を認めて足が止まった。ベンチには沙耶と同じ制服を身に纏った美しい女子生徒が座っていた。夕陽の紅に染まってはいるが、その肌は透ける様に白く、端正な顔は見ている側が思わず上気してしまう程に美しい。にこりと微笑んで見せた彼女は柔らかく立ち上がり、ゆっくりと沙耶の傍へ歩み寄って来た。
「あなた、木村沙耶ちゃんね」
静かでいて凛とした声音。沙耶は思わず緊張する。
「もしかして、夕莉さん?」
夕莉は小さく頷いて見せた。途端に沙耶は恐怖に襲われ、彼女から後退りした。
「どうして逃げるの?」
首を傾げてそう訊ねる夕莉に、沙耶はこくりと生唾を飲んだ。
「あなたのことを、相澤くんから聞きました」
「ふふっ。私も沙耶ちゃんのことを彼から聞いたわ。優也くんは今でも私が絵の中にいると思って、時々語り掛けてくれるもの」
そうなんだ、という複雑な気持ちを沙耶は自分の中だけで呟いた。
足元に目線を落としていると、夕莉がそっと沙耶の頬に手を伸ばしてきた。やがてその細い指は顎へと下りて行き、優しくくいと顔を持ち上げる。ほんのりと甘い香りがした。
「彼の事、嫌いになった?」
すぐ傍にある美しい顔にそう問われ、沙耶は思わず目を反らしながら「はい」と答えた。
「どうして?」
「自分の都合で夕莉さんを巻き込んでおいて、そのくせまだ『僕が全部悪いんだ』みたいな顔をしています。嫌いですよ、あんな人」
すると夕莉はころころとした鈴の音の様な声で笑い、「どうかしら」と言った。
「あなたは今、彼を不憫に思い始めているんじゃない? その憐れむ気持ちって、何?」
沙耶はぎくりとしたが、慌てて首を横に振った。
「そんなことないです。だってあの人は……」と言ったところで、その先の言葉は飲み込んでしまった。夕莉はそんな沙耶に微笑み掛けると、彼女の顎から手を離して延々と続く廊下をゆっくり歩き始めた。少しだけ距離を置き、沙耶もその後に付いて行く。
「優也くんと別れた次の日、学校の図書館へ行っても彼の姿は何処にも無かった。古書室にさえいなかったの。代わりに沢山のデッサンが床に散らばっていたわ。下書きには全て私の姿が描かれていた」
前を行く夕莉の背中を、沙耶はじっと見詰めていた。
「私は必死で彼を探し回ったわ。学校中、街中、隣町に行って商店街中を探し回った。でもやっぱり彼を見付けることは出来なかった。名前を呼んだけれど、優也くんからの返事は一切なかったの。何が起こっているのか全く分からなかったわ。彼は突然姿を消して私は一人ぼっちになった。隣町の五十嵐さんを訪ねてみたけれど、そこにも優也くんは居ないばかりか、五十嵐さんは彼のことをすっかり忘れてしまっていたの。他に優也くんのことを知る人は誰もいないから、まるで最初から相澤優也くんなんて人はこの世界に存在していなかったみたいに思えて来た。でも確かに私は彼のことを覚えていたし、彼のことがずっと好きなままだった。存在していなかった人を好きでいられる筈が無い。だから諦めないで探し続けたわ。でも一年近く探し回って、もう彼には会えないのかもしれないと思い始めた時、自分の中で優也くんの記憶が薄れ始めていることに気付いたの」
立ち止まった夕莉は、窓外の紅を遠く眺めた。
「堪らなく哀しくなって、それでも彼への恋しさだけは募っていって、絶望感が見る見るうちに膨らんでいったわ。そんな時、あの怪物が私の前に姿を現したの」
沙耶は「えっ」と言ったが、それは声になることなく彼女の喉の奥だけでふいっと鳴った。
「『あいつとの取引はやはり失敗に終わった。再び肉体を失い、亡霊の様な存在になってしまっている。もしお前がまたあいつと会いたいというのなら、これを飲むといいだろう。苦しまずに安らかな眠りに就き、同じ存在となって望み通りあいつと再会できる。そうすればいくらでもやり直しは効くというものだ』と言って、怪物は私に或る薬包を渡して来たの」
「それは罠です!」
沙耶は夕莉の前に回り込んでそう訴えた。しかし美麗な顔はただ哀しげに微笑んだ。
「気付いていたわ。でも、心のどこかで信じてしまってもいた。また彼に会えるかもしれない、彼と二人ならまたやり直せるかもしれない、という希望に、私は深く考えもせず手を伸ばしてしまったの」
沙耶はぐっと奥歯を噛み締め、足元に揺らぐ目線を落とした。その場にいたとして、私に何が出来ただろうか。もし夕莉さんと同じ立場なら、私もその薬包を手に取ったのだろうか。第三者として現場にいたなら、薬包を受け取る夕莉さんの手を振り払っただろうか。いや、と沙耶は思った。何もできない。私は臆病で意気地なしだから、相澤くんとの再会を諦めるし、怪物が夕莉さんに薬包を渡すのを黙って見ているかもしれない。自分勝手と相澤くんを心の中で罵っていたが、それと同じくらい私も自分本位な人間なんだ。沙耶は震えるほど固い握り拳を作ってすっかり黙り込んでいた。
夕莉はそんな沙耶の様子を眺めた後、そっと彼女の頬に手の甲で触れた。
「渡された薬を飲んで長い眠りに落ち、目が覚めた時にはここで一人きりになっていたわ。結局、優也くんと再会することも出来ず、私はまんまと怪物に騙されてしまったのね」
夕莉がふと顔を上げた先には、『二年七組』の立て札があった。
「どこまで行っても同じ廊下、何度通り過ぎても同じ教室、いつまで経っても同じ夕焼け。私は気付いたの。ここに未来永劫閉じ込められてしまったんだって。もうどれほどの間、ここで彷徨い続けているのか見当も付かない」
沙耶は頬に当てられていた夕莉の手を取り、
「ここから出られる方法を一緒に探しましょう」と言った。
しかし夕莉は首を横に振った。
「どうしようもないわ。今の私は描かれた対象物として絵の中の存在になってしまっているの。絵の世界と現実の世界を隔てた強固な壁を、どちらかに属する存在が破壊して飛び超えるなんてことは出来ない。小説や漫画の中にいる人達と現実で会うことが出来ないのと同じ様に」
「それでは永遠にここにいることになってしまいます」
狼狽える沙耶に、夕莉は薄っすらと微笑んで見せた。
「沙耶ちゃんは綺麗。きっと優也くんもあなたの綺麗さに気付いているはず」
沙耶は彼女が何を言いたいのか悟り、ぱっと手を離した。
「夕莉さんも、相澤くんと同じ考えなんですか?」
「……どういうこと?」小首を傾げる
「相澤くんは自分から怪物と三回目の取引をして、私と引き換えにあなたを取り返そうとしています。夕莉さんもそれを望んでいるのですか?」
沙耶の声には怒りと恐怖が乗っていた。夕莉は疾うにそのことに気付いており、鈴が転がる様な声音で笑い始めた。
「まったく、彼って悪い人よね。亡霊の様に長い間彷徨い続けて、とうとう怪物になってしまったのかしら」
夕暮れを背にころころと笑う夕莉を不気味に思った沙耶であったが、「違うの」という言葉を聞いて逆立っていた気持ちが凪ぐのを感じた。
「私が言いたいのは、あなたはとても彼好みの女の子ねっていうこと」
「……相澤くん好み?」
夕莉はその問いには何も答えず、ただ静かな笑みを浮かべていた。
「優也くんが自分から怪物に交渉して新たな取引をしたのは知っているわ。沙耶ちゃんの言う様に、彼はあなたを犠牲にして私を取り返そうとしている。でもそれは決して私の望むところではない。そもそもこの一連の出来事に関係の無いあなたを巻き込んでしまうこと自体、間違っているもの」
夕莉の言葉に、沙耶はふっと肩の力が抜けるのを感じた。安堵が全身を覆う。
「何か怪物を出し抜く様な、いい方法があればいいのに……」
呟くようにそう言った沙耶の頬を、夕莉が人差し指で軽く突いた。
「どうしようもないと言ったけれど、実はいい方法が一つだけあるの」
そっと顔を近付け、密やかな耳打ちをする。沙耶は思わず頬が上気するのを感じたが、心なしか楽しげに笑う夕莉の瞳を間近に見て彼女も顔が綻んだ。
「……あぁ、なるほど」
「うん、そういうこと」
ころころと鈴の音が転がる。しかし途端に沙耶の表情が曇った。
「でも、それじゃあ、もし……」
「しっ」形の良い唇の上に人差し指が乗る。
「いいの。もうそれ以上は何も勘ぐらないで」
沙耶は眉を下げたが、しばらく夕莉の瞳を見詰めた後にこくりと頷いて見せた。
夕莉はにっこりと破顔し、「一つだけ、彼に伝えて欲しいことがあるの」と言った。
「伝えて欲しいこと、ですか?」
「ええ」
赤い廊下に夕莉の言葉が零れ落ち、その一滴はやがて静かな湖面に波紋を描くよう辺りへ広がっていった。沙耶は自分の制服のスカートを無意識の内にぎゅっと強く掴んでいた。
それからしばらく、二人は『二年七組』の教室で取り留めのない会話に耽った。室内の中央に当たる隣同士の席に腰を下ろし、頬杖を突いて話をする夕莉の顔を、沙耶は折り目正ししい姿勢でじっと見詰め続けた。時折相槌を打ち、話を振られたらシンプルに返す。穏やかでいて柔らかく、しかし凛とした夕莉の声音は沙耶の耳に深い安らぎを与えた。
「ふふっ」と夕莉がある時笑い、沙耶は首を傾げた。
「何ですか?」
「どうして?」
「え?」
「どうしてそんなに私のことをじっと見ているの?」
沙耶は頬が熱くなり、思わず赤い窓辺へと顔を背けた。同時に相澤への憎らしさが心に浮かぶ。「君が美しいからだよ」と彼なら簡単に言ってのけるのだろうな、どうせ。
沙耶は「夕莉さんとの話が楽しいからですよ」と答えておいた。席を立った夕莉は思い切り背伸びをした後、教室の窓辺に寄って夕暮れの窓外を眺めた。そこからは誰も居ない校庭を見下ろすことができる筈だ。
「わたしも久しぶりに誰かと話ができて楽しい。その相手があなたであることが、わたしはとても嬉しい」
そう言ってこちらを振り向いた夕莉の顔は酷く美しかったが、その目元には少しだけ青い影が差していた。しかし、もしかしたら気の早いプルキニエの微光なのかもしれないな、と沙耶はあまり深く気に留めることはなかった。
「あの、夕莉さん」
沙耶が訊ね事をしようと口を開きかけた時、突然どこか遠くからフルートの奏でるメロディーが聞こえ始めた。耳を澄ましてみると、ロベルト・シューマンの『トロイメライ』であることが分かった。まるで空気の隙間を蛇の様に這ってくる音律。一体誰がこんなにも不気味な演奏をしているのだろう、と沙耶は立ち上がって教室の外へ出てみた。しかし、そこには真っ直ぐな廊下が果てしなく伸びているばかりで、何者の姿も認めることは出来なかった。沙耶は教室を振り返り、「夕莉さん、これは?」と訊ねた。夕莉は苦笑して、
「時々、前触れもなく聞こえてくるの。誰が、何処で、何のために演奏しているのかわたしにもさっぱり分からない」と言った。
沙耶は瞳を閉じてもう一度よく耳を澄まし、その演奏に込められた奏者の意図を読み取ろうとした。なぜそのタイミングで強調し、なぜその音節でざらつくの? どうしてあなたは、そんなにも震えているの?
はっと我に返った時、すぐ傍に夕莉がいた。彼女は沙耶に向かって何かを差し出している。夕暮れの光をきらりと弾く銀色の細長いもの。見覚えのあるその物体をしばらく眺め、沙耶は徐に夕莉の瞳を見上げた。目が合った彼女はにっこりと笑って見せた。
「あの曲、もう何度も聞いていて飽きてしまったの。何か別の曲を弾いてくれないかしら」
夕莉が差し出していたのは、音楽室に保管している筈の沙耶のフルートだった。
沙耶はそっと自分の楽器を受け取り、不具合はないかチェックした後、夕莉の瞳を見て一度だけ小さく頷いた。静かに呼吸を整え、目蓋を閉じて『ある調べ』を奏で始める。
夕莉も瞳を閉じて沙耶の演奏に耳を澄ました。いつしか『トロイメライ』の演奏は消え去り、沙耶の奏でるメロディーだけが教室中に響き渡っていた。それは哀しげでいて酷く切ない音律ではあるが、決して孤独を嘆く様な愚かさは携えていない筈だ。
薄く目蓋を開き、紅の光に照らされている夕莉の顔を盗み見た。彼女は美しいまま眼を閉じ、そっとメロディーに耳を澄ましている。沙耶はその様子を相澤に見せてやりたい、と思った。そうすればきっと、何もかも上手くいくだろうから。
「この曲、知らないわ。沙耶ちゃんが作曲したの?」
静かに訊ねる夕莉に沙耶は首を横に振って見せた。譲り受けたものです。あなたのために。
「……曲名は?」
Aus Liebe。
粉々に砕けて混沌としていた沙耶の胸の内は少しずつであるが形を成し、多彩な絵具で見事に色分けされつつあった。
相澤くん。あなたがこの曲を奏でているのね。私はこんな曲知らないもの。不思議と指が動いて、フルートへ送る息のタイミングも無意識。まったくもどかしい人。私はあなたの様に絵を描くことは出来ない。だから私の中に刻まれた情景を描く仕事はあなたが請け負い、あなたの中にあるメロディーを紡ぎ出す仕事はこうして私に譲ってくれているんだ。あなたは現実で楽器を奏でることは出来ないから。それなら私は身を任せる。あなたの想いが、今目の前にいる美しい人の元へ届く様に……。
けたたましい目覚まし音が鳴り、沙耶は勢いよく飛び起きた。うつ伏せの寝相から一気に身を起こしたため、背中の筋が少しだけぴきりと痛んだ。カーテンを閉め忘れていた窓辺には朝日が零れ落ち、窓外からは鳥の囀りが聞こえている。しばらくぼんやりとした頭で枕を見下ろしていると、「ふふっ」という微かな笑い声が何処からか聞こえた気がした。
「……夢?」
ベッド脇のデスクに置いていたスマホを確認する。午前六時五十二分と表示されていた。急いでベッドから降りて姿見を覗き込むと、後頭部に酷い寝癖がついていた。昨晩、穴を掘る様に布団の中へと潜り込み、そのまま眠ってしまったツケだ。
「嘘でしょ」
絶望的な思いのまま慌てて髪に櫛を通していると、不意に手が止まるのを感じた。窓辺できらきらと光っている朝日を見詰めながら、今日が自分と相澤、そして夕莉に残された最後の日であることに気が付いた。もう一度だけ姿見に映った自分を眺め、沙耶は口を「へ」の字に結んで一息に髪を後ろで束ねた。しつこい寝癖なんかに構っていられるか。ぱちんと髪ゴムを弾かせ、皺くちゃな制服のまま中身の変わらないバッグを手に取り、一階へと続く階段を慌ただしく駆け下りていった。
~つづく~
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