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小説「アウスリーベの調べ」第2話

 数枚の肖像画を手に、沙耶は美術準備室を後にした。気付けば遠くから管楽器の奏でるメロディーが聞こえ始めている。吹奏楽部の練習が始まったようだ。沙耶は小走りに廊下を駆け抜け、音楽室へと急いだ。音楽室は南校舎三階に位置しているため、北校舎にある美術室から向かうには一度屋外の渡り廊下を通り、急な階段を三階まで登る必要がある。吹奏楽の大会がある時はその急な階段を何度も上り下りして重い楽器を運び出さなくてはならないため、部員の皆からは心底憎まれている場所でもあった。
 段を登って行く途中、小さな窓からちらりと敷地内の西にある図書館の姿が見えた。先を急ぎつつも立ち止まり、窓から図書館を眺め見ると、その二階の窓が開いていることに気が付いた。普段は固く閉ざされている筈なのに、今はぽっかりと口を開けている。沙耶は少しずつ鼓動が速くなるのを感じ、開いたままの図書館二階の窓をじっと見詰めた。

……もしかして、彼が。

 するとその時、突然窓辺に人影が現れた。驚いた沙耶は慌てて身を屈め、必要以上にひっそりと物影に息を潜めた。そろそろと向こうを盗み見ると、そこに姿を見て取れたのは現代文教師の駒沢先生だった。彼は文芸部顧問と図書委員の担当教諭でもあった。腰に手を当て、細長い指先で銀縁眼鏡を押し上げる。しばらく窓外の様子を眺めた後、先生は再び部屋の中へと姿を消した。沙耶は途端に強い緊張から解放され、その後酷い脱力感に襲われた。少しの間、窓辺に背中を預けたままぼんやりと床を眺めた。

「二階に行ったこと、知られちゃったかな」

 無意識な呟きが零れ落ちる。潔癖な上、神経質であることで有名な駒沢先生が何者かが侵入した形跡を見落とす筈がない。特定され、叱責されるのも時間の問題だろう。しかしそれ以上に沙耶の胸を締め付けたのは、もう二度と図書館の二階へは行けないかもしれない、という侘しさだった。もう二度と、彼に会うことはできないかもしれない。一つだけ大きな溜息を零し、ゆっくり立ち上がった沙耶は、肩を落としたまま音楽室へと続く階段をとぼとぼと上って行った。
 翌日、沙耶の足は図書館から遠のいていた。結局駒沢先生に呼び出されることもなかったので、二階に上がっていたのを見付けた図書委員の生徒は告げ口せずに黙っておいてくれたのだろう。机に頬杖を突いてぼんやりとペンを回していると、午後一の授業で早速注意を受けてしまった。

 十月一週目の末に突入し、高校では文化祭が開催されていた。沙耶が所属する吹奏楽部は前祭と後祭に執り行われる開会式、閉会式での演奏を任されている。本祭を含め三日間に掛けて開催される文化祭は、一般人の立ち入りも許可されており、普段では考えられない程の数に膨れ上がった人波が校内を往き来していた。
 本祭の日、自由行動が許された吹奏楽部の部員達は、皆気の合う者同士で寄り合い、各クラスの教室で実施されているイベントに参加するため校内中に散り散りとなっていた。
 沙耶は美咲と、一年後輩の宮下という男子と共に校内を散策していた。

「宮下くん、何か食べたいものある?」

 美咲がそう訊ねると、宮下は「奢ってくれるんですか?」と瞳を輝かせる。「どうしようかな?」と言って苦笑している美咲が、実は宮下に気があるということに沙耶は初めから気付いていた。美咲は他人の事情や情報をよく把握しているが、自分の話を進んで誰かにする様なことはなかった。親しくしている沙耶にさえ滅多に話さない。しかし案外分かり易いところもあるので、鈍い沙耶にも彼女の感情の動きはある程度窺い知れた。
 二年六組が開催しているクレープ屋に行こう、という二人の会話を聞きながら、沙耶は周囲をきょろきょろと見渡していた。なんとなく誰かに見られている気配がする。「沙耶、行くよ」という美咲の声に引っ張られ、先行く二人の後を彼女はそろそろと付いて行った。
 二年六組の教室の前に辿り着くと、そこには長蛇の列が出来ていた。この学校の生徒はもちろん、一般の人達も長い列に並び、気付けば数学の長田おさだ先生や物理の川崎先生も列に加わっている。余りにも多い人波に、沙耶は思わず怯んでしまった。

「私が並んで三人分買ってくるから、二人はどこかで待っていて」

 気を遣った美咲が、そう言い残してさっさと長い列の最後尾へと並びに行った。沙耶は仕方なく宮下と共に二学年のフロアにある廊下の隅のベンチに腰掛け、美咲の帰りを待つことにした。凡そ一人分のスペースを空け、ベンチに腰を下ろした沙耶と宮下の間には長い沈黙が横たわっていた。同じ部活の後輩とは言え、話したことなど数える程しかない。沙耶は先輩の立場から何か話題を振らなければならないという義務感の様なものに襲われ始めていたが、全くと言っていいほど宮下と話すことは思い付かなかったので、気まずさを秘めたまま無言を貫くことにした。すると、

「……木村先輩」

 突然、宮下が沙耶の名を呼んだ。特に返事もせず、彼の方を見やると、何故か宮下は少しだけ顔を赤くしてこちらをじっと見ていた。

「先輩って、付き合っている人とかいるんですか?」

「……いないけど」

 沙耶がそう答えると、宮下が喉をこくりと鳴らすのが聞こえた。

「じゃあ、気になっている人とかは?」

 彼の言葉に、ふと図書館の二階で遭遇した男子生徒の姿が思い浮かんだ。しかし沙耶は頭を振る。私は『彼』の事をどう思っているのだろう。あの人は結局、何者なのだろう。
 図書館から足が遠のいているのもあり、しばらく二階にいた彼のことも考えない様にしていたが、不意を突かれたような宮下の言葉に、あの男子生徒への思いが再燃してしまった。

「木村先輩?」

 あまりにも深く考え込んでいたためか、そんな宮下の問いに沙耶は思わず「わっ」と声を上げてしまった。近くにいた人達の視線が一斉に集まる。酷く恥ずかしくなった沙耶は顔が熱くなるのを感じて下を俯いた。しばらく視線はざわざわとしていたが、やがて何事もなかった様に散っていき、二人は再び長い沈黙に沈んだ。じっとりとした気まずさが漂い始め、「……特に、気になる人もいないかなぁ」とだけ沙耶は答えておいた。
 その後、三つのクレープを手にした美咲がいそいそと戻って来た。沙耶は彼女の笑顔に一安心し、宮下と自分の間に開けたスペースに美咲を座らせた。それから楽しそうな会話に耽る二人を邪魔しないよう、沙耶は彼らから少しだけ距離を置いて残りの時間をぼんやりと過ごしたのだった。

 午後七時を過ぎる頃。陽が落ちたのを皮切りに辺りはすっかり暗くなっていた。校内の照明が未だにほとんどの教室で灯っていて、いつもなら暗い校舎が今日は見知らぬ場所の様に幻想的な輝きを放っていた。音楽室で明日の閉会式に備え楽器を整えていると、昼間に感じていた何者かの視線が再び沙耶を捉えているのに気が付いた。室内を見渡し、居残りしている数人の部員を眺め見る。しかし彼らは仲間内で取り留めのないお喋りに興じているだけで、こちらを注視している者は一人もいなかった。美咲は既に宮下と共に下校してしまい、沙耶を後ろから突然抱き竦めて驚かそうとする者もいない。何だろう? と思いつつも、特に急いで帰宅する必要もなかったので、沙耶はいつもより入念に自分の楽器を整備した。
 ぴかぴかになった銀色のフルートをケースの中に仕舞う頃、音楽準備室から姿を現した高橋先生が大きく手を叩いた。

「明日も演奏があるのよ。あんた達、さっさと帰りなさい」

 学生の頃に演劇部だったという高橋先生の声は実に明瞭でよく通る。そんな先生の注意に仕方なく返事をした部員達は、何か物足りなさをぶら下げつつも渋々と帰り支度を始めた。沙耶も自分のバッグに荷物を詰めていると、「木村さん」と高橋先生から名を呼ばれた。

「ちょっと、準備室に来てちょうだい」

 彼女はそれだけ言い残し、さっさと音楽準備室に入って行ってしまった。沙耶はぎゅっと胸が締め付けられた後、少しだけ血の気が引いていくのを感じた。他の部員達は不思議そうな顔をしてこちらを見ている。確かな根拠がある訳ではないが、先生の声音に少しだけ棘があるよう様な気がした。部員の誰かを説教する前に漂わせるぴりぴりとした雰囲気だ。
 沙耶はその場に荷物を置いたまま、恐る恐る準備室の方へ近付き、「失礼します」と言って開かれている扉を潜った。「閉めてちょうだい」と言われ、沙耶は静かに扉を閉めた。
 振り返ると、奥のデスクに腰掛けた高橋先生が腕組をしてこちらをじっと見ていた。思わずこくりと生唾を飲む。

「単刀直入に訊くわね?」

「……はい」

「木村さん、図書館の二階へ行った?」

 沙耶はがつんと額を突き飛ばされる様な衝撃を感じ、それが全身を駆け巡るのが分かった。視線を離さずこちらをじっと見詰める高橋先生の迫力に、沙耶はすぐ観念して「行きました」と小さく返事をした。「どうしてそんなことをしたの?」と厳しく叱責されることを覚悟した沙耶であったが、先生の口から漏れ出たのは意外にも小さな安堵の溜息だった。

「……そう、よかった」

 沙耶は思わず「え?」と言った。全身を繋ぐ糸が切れ様にデスクへと突っ伏した高橋先生は、草臥れた笑みを浮かべて見せた。

「いや、実はね。先日図書館の二階に保管してあった音楽家の肖像画を私が持ち出した後、階段の扉を施錠するのをすっかり忘れていたの。そしたら、その後に私以外の誰かが入り込んだ形跡があるって駒沢先生が職員会議で報告して、ちょっとした騒ぎになったのよ」

 体を起こして関を切った様に話し出す高橋先生に、沙耶は不安と安堵の両方を覚えた。

「それで、図書委員の一年生の子が駒沢先生に問い詰められて、一人の生徒が二階に上がっていたと白状したらしいの。その日の昼休み、図書館を利用していたのは貸し出し記録からあなただけだったから、二階に上がったのが木村さんだってすぐに分かったらしいわ」

 少しずつ足元に視線を落とし、いつの間にか沙耶はスカートの裾を軽く握っていた。

「図書館の二階には貴重な物が置かれていたりするから、強盗が入ったんじゃないかっていう話にまでなったみたい。でも何かが盗まれていた形跡もなかったし、入ったのが木村さんだと分かって安心したわ」

 高橋先生はもう一度深い溜息を零し、「駄目よ。安易に立ち入り禁止の場所に入っちゃ」と静かに言った。

「……すみませんでした」

 沙耶が項垂れながら謝罪すると、先生は優しく微笑んで見せた。

「私のミスでもあるわ。お互い、反省しましょうね」

 それから準備室を後にした沙耶は、草臥れた思いのまま音楽室に戻った。照明は教壇の上にのみ灯っていて、他の部員達は皆とっくに下校してしまった後だった。バッグを手に取り、残りの照明も落として音楽室を退出する。
 別の校舎から仄かに届く光が薄暗い廊下をぼんやりと照らし出していた。沙耶はゆっくりとフローリングを踏みしめつつ、少しだけ物悲しい思いに駆られた。高校全体が賑やかに色めき立つ文化祭もいよいよ明日が最終日で、それが過ぎれば再び授業ばかりが繰り返される平凡な毎日が待っている。ふと廊下の窓硝子に目をやると、沙耶の白い顔がひとつだけぼんやりと浮かび上がっていた。図書館の二階にいた『彼』にもう一度会ってみたい。突然そんな想いが沸き起こった。その理由は彼女自身にも分からなかったが、ここ最近のぼんやりや妙な焦り、身の置き所の無い侘しさなんかは全て彼の所為である様な気がしてきた。今ではもう図書館の二階に入ることは出来ない。教師達にも沙耶の行動は既に知られてしまっている。立ち止まったついで、彼女は深々と溜息を零し、しばらくその場に項垂れ続けているのだった。
 すると不意に、何処からか寒気を催す視線を感じた。さっと顔を上げ、前方に待ち受ける階段フロアへ目を凝らす。その影に、何者かが立っている気配がした。こちらをじっと見詰める静かな眼光。それはどこか恐ろしげで、沙耶は肩に掛けていたバッグを胸元に抱き締め少しずつ後退った。

「誰?」

 そんな問い掛けに答えるよう影から姿を現したのは、背の高い一人の男子生徒だった。彼はこの学校の制服を身に纏い、すらりとした両手を脇にぶら下げていた。太陽に一度も晒されたことのない様な白い肌、くっきりとした二重で僅かばかり鋭さも孕む瞳。沙耶はその男子生徒が、図書館の二階で遭遇した『彼』であることにすぐ気が付いた。

「あなたは、あの時の」

 高鳴る鼓動を抑えつつ、恐る恐るそう語り掛けると、男子生徒はじっと沙耶の瞳を見詰めたまま、「追い出されてしまったよ」と言った。静かな声音にやや落胆の色が窺える。
 自分の所為で彼が図書館の二階に居座っていたことが知られ、駒沢先生に追い出されてしまったのだと早合点した沙耶は、「……ごめんなさい」と小さく言った。しかし、

「何のこと?」と返した彼は小さく首を傾げて見せた。

「だって、私の所為であそこに居られなくなったんでしょう?」

 すると彼は小さく微笑み、

「僕の居場所は何処にでもあるよ」と言った。

 沙耶はこくりと生唾を飲み込み、「あなたは誰なの?」と訊ねてみた。

「二年七組の相澤あいざわ優也《ゆうや》」

 聞いたことのない名前だった。沙耶が通う高校は普通科と特進理数科に別れており、一組から五組は普通科、六組と七組が特進理数科という構成になっている。一学年三〇〇人近い生徒の皆と関わることなど不可能な上、沙耶は普通科の二組に所属しているため、七組の生徒との関わりは殆ど無い。強いて言えば、この文化祭や体育祭の時期に偶然役割が被って交流するくらいだろう。そのため聞いたことのない名前があっても、それほど不思議なことではない。しかし……。

「私は二組の木村沙耶です」

「知っているよ」

 沙耶は驚いて息が止まった。「どうして?」と訊ねようとしたが声が出なかった。相澤はそれを知ってか知らずか沙耶の方へ徐に歩み寄り、まじまじとその顔を眺め始めた。予想以上に近い距離まで接近され、沙耶は思わず身を固めた。俯いて、頬が熱くなるのを感じる。

「綺麗な顔をしているね」

 そんな言葉が聞こえた。「えっ?」と言って顔を上げると、間近に迫っていた相澤と目が合った。彼の瞳は底の見えない深海へと沈んでいく様な不気味な色をしていたが、何故か沙耶はその底知れない雰囲気にぐいぐいと心を奪われていった。

「そんなことないよ。私、自分の顔が嫌い」

「僕にはとても綺麗に見えるけどね」

 あまり言われたことのない言葉にどぎまぎした。更に熱くなる頬。両手を当ててみると、自分の手の冷たさに驚いてしまうほど火照っていた。指の間からちらりと覗き見る相澤の顔は非常に整っていて、それが更に沙耶の体を熱くする。目を反らしては見る、また目を反らしてはもう一度見る、ということを繰り返した。これ以上、彼に近い距離に居られると心臓が参ってしまいそうだったので、沙耶は少しだけ後退って相澤から距離を取った。彼はそんな沙耶を見て小さく笑みを浮かべていた。

「あの日、どうして君は図書館の二階へ来たんだ?」

 そんな問い掛けに「好奇心に負けて」と答えるのはとても恥ずかしかったので、

「階段の扉が開いていたから」と小さく答えた。

「怖くなかった?」

 沙耶は「少しだけ」と答えた。すると相澤は「ははっ」と笑い、腕組をした後に暗い窓外の方へと目をやった。時折顎を擦りながら、何やら考え事をしている様子である。
 そんな彼の横顔にしばらく見惚れていると、突然ぱちりと音がして廊下の明かりが全て落ち、非常灯だけになった。まだ音楽準備室に残っていた高橋先生が帰宅するため消灯したのだろう。一瞬視界が眩み、次第に目が慣れ始める。準備室の方からは、高橋先生が扉の鍵を閉めてすたすたとこちらへやって来る足音が聞こえた。慌てた沙耶は咄嗟に「相澤くん、高橋先生が来ちゃう」と小声で言い、ここから早く離れてと伝えようとした。何故か彼を他の人に会わせない方が良い様な気がした。しかし、声を掛けた暗がりに相澤の姿は無かった。辺りをきょろきょろと見渡しても、その気配すらすっかり消え失せてしまっている。
 呆然としたまま佇んでいると、間近で足音がぱたりと止んだ。

「誰?」

 スマホの明かりを向けられ、眩しさにさっと手で顔を覆った。「木村さん?」と言う高橋先生の声が聞こえ、沙耶は「はい」と小さく返事をした。先生はスマホのライトを足元に落とし、「びっくりした。まだ帰ってなかったの? 何か忘れ物?」と問うた。
 沙耶は咄嗟に、「閉会式で演奏する曲の楽譜を持ち帰って、もう一度見直してみようと思いまして」と返した。高橋先生は「そうなの」と小さく溜息を零し、自分のバッグから楽譜のコピーを一部取り出すと沙耶へ差し出した。

「私のを貸すわ。明日には返してちょうだいね」

 沙耶は楽譜を受け取り、「ありがとうございます」と礼を言った。
 先生は去り際、彼女を指差しながら「もう悪いことしちゃ駄目よ?」と意地悪そうな顔をして言った。沙耶も苦笑しながら、「もうしません」と返した。手を振りながら去る高橋に、小さくお辞儀をしてその日は別れた。

 翌日。沙耶は朝早く登校して音楽室の掃き掃除を済ませた後、二年七組の教室前に足を運んでみた。早めに登校していた数人の生徒が室内でお喋りをしていたが、別段沙耶が廊下をうろついていたことに首を傾げるような者はなかった。もちろん、相澤優也の姿もない。
 各教室横の廊下には正方形の個人ロッカーが設置されており、各棚の上部には生徒の名前が記載されたテープが貼られている。沙耶はそれを指でなぞりつつ、相澤の名前がないか探してみた。しかし、五十音順に並ぶ生徒の名前の中に彼の名を見付けることは出来なかった。小さな落胆と共に零れ出る溜息。昨日、相澤と話しながらなんとなく気付いていたが、やはり彼が二年七組の生徒であるというのは嘘のようだ。
 肩を落として音楽室に戻ろうとしていると、「沙耶」と背後から名前を呼ばれた。ぱたぱたと駆けてやって来る美咲が、いつにも増して明るい表情を浮かべている。

「沙耶、どうしよう。昨日凄く嬉しいことがあった」

「どうしたの?」

「あのね」

 そっと身を寄せてきた美咲は、沙耶の耳元で宮下への告白が成功したことを告げた。沙耶は彼女が宮下と付き合うのは時間の問題だろうと踏んでいたが、それを自分に話してくれるとは思ってもいなかった。余程嬉しかったのかもしれない。

「おめでとう」

 沙耶が微笑んでそう言うと、美咲は恥じらう様な笑顔を見せた。

 後祭も閉会式を迎え、吹奏楽部による最後の演奏が行われた。沙耶はフルートを演奏しながら会場中を見渡してみたが、何処にも相澤の姿を見付けることは出来なかった。沙耶の前席で演奏する美咲の後ろ姿をぼんやりと見つつ、ふと昨日のことを思い出す。相澤が発するバリトンの声音、穏やかで物静かな口調、どこか惹きつけられる底知れない瞳。沙耶はいつしか、彼のことをもっと深く知りたいという思いで胸がいっぱいになっていた。

 閉会式も無事に終了し、会場に運んでいた楽器を吹奏楽部の皆で再び音楽室へと戻す作業に取り掛かった。大きな楽器は男子に任せ、沙耶は軽い楽器や細々とした小道具をてきぱきと音楽室へ運んだ。
 何度目かの往復で誰もいない体育館の舞台裏に赴いた時、物陰からじっとこちらを伺う『黒い影』の存在に沙耶は気が付いた。その影の持つ眼は青白い光を帯び、その姿は人間の様でありながら、よく見ると酷くかけ離れた異形の様相を呈していた。沙耶は思わず悲鳴を上げようとしたが、目にも止まらぬ速さで掴みかかって来た黒い影は、彼女をあっという間に物陰へと引きずり込み、冷たく大きな手でその口を完全に塞いでしまった。あまりの恐怖に涙を流しながらも沙耶は必死に身を捻じって抵抗した。獣の様な体毛がびっしりと生えた体を拳で叩いたり、足で蹴ったりして暴れてもみたが、全く意にも介さぬ様子でそいつは彼女のことをじっと見下ろしていた。閉ざされた口で沙耶がうんうんと唸っていると、異形の化物は自分の口元に長い人差し指を当て、「しーっ」と言った。

「静かにしろ。何もお前を取って食おうとは思わん」

 獰猛な獣が唸り上げる様な声だった。沙耶は心臓が張り裂けそうになるのを我慢しつつ、ぼろぼろと涙を零しながら抵抗するのを止めた。

「いい子だ」

 そう言うと、彼女の口を塞いでいた大きな手は力を緩め、そのままするりと首元へ下りていった。

「俺はお前を見に来ただけだ。何もしない。分かったな?」

 沙耶は小さく頷いて見せた。化物は彼女にのしかかったまま、上からその顔をまじまじと眺め始めた。

「なるほど、確かに美しい娘だ。これは欲しい」

 そう呟きつつ、化物は耳元まで裂けていそうな大きな口でにんまりと笑って見せた。
 とその時、「沙耶?」と名前を呼ぶ美咲の声が舞台裏の入口付近から聞こえた。彼女の声に気付いた化物は、さっと沙耶の首から手を放すと、あっという間にどこかへと姿を消した。
 絞められていた喉元が一気に開き、勢いよく吸い込んだ空気で酷く咳込む。慌てた様子の美咲が傍まで駆け寄って来て、「どうしたの? 大丈夫?」と訊ねた。差し出された手を借り、ゆっくり起き上がる。美咲は沙耶の背中を擦りつつ、スカートが捲れて露になっている大腿に気付き、すぐに整えてやった。

「何があったの?」

 心配そうな声に、沙耶は小さく首を振って見せた。

「暗くて足元が見えなかったの。何かに躓いて転んじゃって、埃を吸っちゃったのかも」

「本当? 泣いてるじゃない」

 訝しげに顔を覗き込む美咲。沙耶は目元に残っていた涙を拭き、彼女から視線を反らした。

「もしかして沙耶、誰かに襲われたんじゃないの?」

 勘の良い言葉に思わずびくりと身を固めた。あまりにも不自然な沙耶の緊張に何かを察した美咲は、近くの壁に立て掛けられていたモップハンドルを手にした。

「まだここにいる? 沙耶を襲ったやつ」

 声を震わせながら部屋中を見渡す。しかし、まだあの化物が近くでうろついているとは考えられない。

「本当に転んだだけだよ、美咲」

 沙耶がそう言うと、振り向いた美咲は少しだけ影が差した様な顔をして、「本当?」と訊ねた。沙耶は「うん、本当」と言って小さく頷いた。モップハンドルを構えていた肩の力が抜け、美咲は沙耶の隣にぺたんと尻を落とした。彼女の手がゆっくり伸びて来て、涙に濡れた沙耶の手を優しく握る。

「沙耶を見ているとなんだか危なっかしくて怖いの。お願いだから、気を付けて」

 そう言う美咲が沙耶の嘘に気付いていたのかどうか分からない。しかし沙耶はひとまず安堵した。この暗がりに一人でないことが今は途轍もなく心強い。それが親しい美咲であるのだから尚更だ。しかし、先程襲われた化物の様相をふと思い出し、彼女は言い知れない不安が腹の底に沸き起こるのをじわじわと感じ始めていた。

 文化祭が幕を下ろして二日後。学校は再び授業尽くめの毎日となっていた。三年生の大学受験もいよいよ三ヶ月後に迫り、否が応でも教師陣からの張り詰めた緊張感を感じる。しかし、沙耶は一向に学業へ集中できずにいた。あの恐ろしい化物に襲われてからと言うもの、彼女は極度に暗闇を怖がるようになった。再び青白い眼で射竦められ、誰も助けに来ない暗闇の中に引きずり込まれて今度こそ身の毛のよだつ様な恐ろしい目に合わされるのではないだろうか、という不安に常に苛まれていた。あんな化物がこの世に存在しているとは誰も信じてくれないだろうし、誰かにその存在を語ること自体、更なる恐怖を引き連れて来る元凶になるかもしれない。もし唯一、話せる相手がいるとするのならば、それは相澤優也しかいない気がした。沙耶は首元を手で擦りつつ、密かに彼の姿を思い浮かべた。しかし音楽室の廊下で見失って以降、相澤は沙耶の前に姿を現していない。学校中を探し回ってはみたものの、一向にその姿を見付けるは出来なかった。相澤に初めて会った図書館二階の部屋へと続く階段扉も今では固く施錠されており、再侵入するのはもはや不可能である。
 神出鬼没でいつも暗い所から現れる。もしかしたら彼も、自分を襲撃した化物と同じ類の存在なのではないだろか、と沙耶は空恐ろしい考えに囚われた。

「相澤くんも、化物?」

 しかし頭を振ってそんな考えなど頭の中から追い払い、沙耶は毎日の生活の中へと静かに埋没していくよう努めるのだった。


~つづく~

⇩次回(第3話)はこちら

⇩第1話はこちら


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