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小説「アウスリーベの調べ」第9話

 高校へと続く通学路には朝の早い学生達の姿がちらほらと散見された。誰も急ぐ者はなく、手にしたスマホや単語帳を覗きながらゆるゆると道を歩いている。沙耶はそんな彼らの間を縫う様に走り抜けていった。後ろで一つに束ねた髪が酷く暴れ回っているのを感じたが、呼吸のリズムを崩したくなかったので構わずに先を急いだ。
 学校の正門を潜ると、バックを肩に背負い直して図書館へと向かった。もちろん一階の鍵は施錠されており、この時間帯に中へ入ることは出来ない。古書室の窓を見上げることができる東側の通路に行けばなんとかなるかもしれない、と思った沙耶は、図書館のエントランス前を通り過ぎ、その横にある狭い通路へと足を踏み入れた。そこは通路と言っても殆どの人が立ち入らず、電気メーターを読む検針員が入る程度の草地スペースだ。沙耶は脹脛ふくらはぎあたりまで背丈のある下草を踏みしめながら前へと進み、辿り着いた場所から古書室の窓を見上げてみた。窓はぴったり閉じられ、全てのものからの干渉を頑なに拒んでいる様に見えた。足元へと視線を落として周囲を見渡す。まだ息の整わない沙耶の耳には、草の根から立ち昇る涼やかな虫の音が鮮明に聞こえていた。
 手頃な小石を見付け、ガラスを割ってしまわないよう窓に向かってそれを投げた。上手く障子さっしに当たった石は甲高い音を立てたが、室内から何かの反応が返ってくる様子はない。沙耶はもう一度手頃な小石を拾い上げ、今度は窓ガラスに向けて思い切り放り投げた。石は見事に古びたガラスを突き破り、先程よりも更に鋭い音を立てた。自分でやっておきながらびくりと体を縮めた沙耶は辺りを見渡して誰にも見られていないか確認したが、目撃者は一人もいない様子だった。ほっと小さく胸を撫で下ろし、上を仰ぎ見た時、窓がゆっくり開いて中から相澤が顔を覗かせた。
「君だったのか」彼は驚いた顔をしてそう言った。

「石を投げて窓ガラスを割るとは、なんて荒々しい呼び出し方なんだ」

 他人事の様な言葉にむっとした沙耶は、腰に手を当てて相澤を見上げた。

「絵はどうするの? 今日が取引の条件にある最終日なんでしょう?」

 相澤は力なく笑みを浮かべ、ガラスの割れた窓辺へと身をもたれた。

「あれから下絵を描いてみようと色々試したんだけど、上手くいかなかったよ」

「笑ってる場合? 今度の取引が失敗したら夕莉さんは戻って来ないばかりか、今貸し付けられているあなたの体も画才も全て没収されてしまうんでしょ?」

 相澤は口を噤んだままじっと沙耶の顔を見下ろしていた。やがて気まずそうに、

「君からしたらその方がいいんじゃないのか? 取引が成功したら、君が怪物に連れ去られることになってしまうんだから」と言った。

 囀っていた小鳥は飛び去り、虫の音が止んだ。気付けば騒がしかった辺り一面が妙に静まり返っている。

「馬鹿なこと言わないで。私はもう相澤くんのことも、夕莉さんのことも、取引のことも、怪物のことも全部知ってしまっているの。あなたと夕莉さんを犠牲にしてまで、自分だけ助かろうなんて思わない」

 沙耶がそう告げると、相澤はしばらく黙り込んだ後に微笑を浮かべた。それがなんとなく子供じみた無邪気さを含んでいたため、沙耶は憐憫を乗せた溜息と共に苦笑を零した。

「いい方法があるの。あなたと話したいから、一階に降りて来て鍵を開けて」

 午前七時半を報せる学校のチャイムが鳴った。まもなく多くの生徒が校内へと雪崩込み、また騒がしい一日が始まる。

 一階の内側から鍵を開けてもらい、沙耶は相澤と共に二階の古書室へ向かった。もうすぐ朝課外の時間になるが今はそれどころではない。
古書室に踏み込むと、未完成の『Abenddämmerungアーベントディンメルング』が古いデスクの上に置かれていた。沙耶はその絵を手に取り、滲み出る様な赤をじっと見詰めた。見れば見る程に目を離せなくなる。取り込まれる前に絵を机上へと戻し、「これを完成させよう」と相澤に向かって言った。

「どうやって?」

 沙耶は夕莉から教えてもらった方法を彼に伝えた。相澤は最初、「なるほど」と納得した様に頷いていたが、やがて落ち着きなく古書室中を歩き回り始めた。ぶつぶつと独り言を呟いては時折頭を抱え込んだりしている。彼が一体何に悩まされているか少し分かる気がしたが、沙耶は敢えて声も掛けず見守ることにした。夕莉の提案に答えるのは飽くまで相澤であることを彼女は重々承知しているのだ。
 しばらくして、すっと憑き物が落ちた様に顔を上げた相澤が「画材がない」と言った。

「絵の続きを描くには美術室にある画材が必要だよ。イーゼルもそこにある」

「……まったくもう」

 溜息を付いた沙耶は軽く腕組をした。朝課外の時間が終了して朝礼が済み、その二十分後には一時限目の授業が始まる。そうすればこっそりと美術室に忍び込んで画材を取ってくることができる筈だ。薄暗い室内に浮遊する埃を見詰めながら、沙耶は今日がどの学年も美術の選択授業がない日であることをなんとも幸運に思った。準備室には崎村がいるかもしれないが、授業以外、滅多に美術室の方に姿を現すことはないので、派手な物音さえ立てなければ問題ないだろう。

「そう言えば、相澤くんの姿が見えているのは私だけ?」

 壁に寄り掛かっている彼にそう訊ねた。

「恐らくね。でも確信は持てない」

「どうして?」

「君が所属している吹奏楽部の顧問は、確か高橋先生と言ったかな?」

「うん」

「一度だけその人と校内で擦れ違った時、僕を見て首を傾げていたんだよ。彼女に僕がどう見えていたのか見当も付かないけれど」

「……あの先生、時々勘が鋭いから」

 手近な古い椅子に腰を下ろし、沙耶は相澤一人に画材を取りに行かせる案を却下した。いくら高橋の勘が特別鋭いと言っても、他の人間に相澤の姿が見えないとは限らない。今の時間帯、まだ遅刻してくる生徒がいたり、朝の巡回をする警備員や校内を掃き掃除している清掃員がいたりするので、彼らと出くわす可能性は十分にある。校内をふらふらほっつき歩いていたら呼び止められるのがオチだ。沙耶はしばらく古書室に潜伏し、やはり一時限目の授業が始まったタイミングで美術室に向かうことにした。
 手持ち無沙汰に古書室を見渡していると、初めてここへ踏み込んだ時のことが思い出された。真っ暗で酷く不気味な場所に、整った相貌の相澤が居たのだ。あの時は外側から雨戸が閉ざされており差し込む光は一切なかった。
ふと、体が重くなるのを感じた沙耶は深い溜息を零した。ここで、夕莉さんが……。
 昨晩見た夢をぼんやりと思い出す。以前、美咲からこの部屋で亡くなった女子生徒がいる、という話を聞いた時にはやや肝を冷やしたが、今ではなぜかちくりとした胸の痛みと共に腹の底がじんわり熱くなる。

「ここで一人ぼっちは寂し過ぎるよ」

 彼女の呟きに相澤が顔を上げた。

「夕莉が命を落とした日、無くなった筈の絵もこの部屋に落ちていたんだ」

「……確か完成した絵は、怪物と一緒に何処かへ消えた筈よね?」

「戻ってきたんだよ。でも、その時にはもうキャンバス上に夕莉の姿は描かれていなかった」

「絵の中の、画角とは違う場所を彷徨っているから?」

「そうかもしれない」

「……そして、夕莉さんの姿が描かれていない絵を崎村先生が見付けたのね」

 相澤は頷いた。

「夕莉の遺体が発見されて警察の現場検証が済んだ後、彼が美術準備室にあの絵を保管してくれていたんだ」

 二人の間に長い沈黙が舞い降りた。沙耶は崎村の胸中に想像を巡らす。度々、自分の所へ遊びに来ていた生徒がある日突然亡くなり、その傍に落ちていた絵を受け取って毎日通う仕事場に保管しておく、というのはどういう心境なのだろう。前任の美術教師から託されたとは言え、作者が失踪し、関与した生徒が亡くなるという絵を前に崎村は何を思っていたのだろう。「以前にも似た様なことがありました。あの部屋にはやはり何かが?」そう言っていた駒沢の訝しげな表情も思い浮かばれる。沙耶は悶々とする胸の内にいつしかやるせない気持ちとなり、再び一人で重い溜息を零すのだった。

「やっぱり、描くしかないな」

 不意に相澤がそう言った。沙耶は顔を上げ、彼の瞳を見詰める。

「描くしかない。それが今のあなたにできる唯一のこと」

 相澤もじっと沙耶の目を見詰め返していたが、彼が今何を考えているのか沙耶にはちっとも分からなかった。哀しんでいるのか、喜んでいるのか、諦めているのか、希望を抱いているのか。もしかしたら後悔しているのかもしれない、と思ったが、相澤が自分に胸の内を語ってくれることはこの先もきっとないのだろうな、と彼女は小さな苦笑を浮かべた。
 朝課外の終了と共に朝礼を報せるチャイムが鳴り、数分後には一時限目の開始を告げるチャイムが鳴った。沙耶はゆっくり立ち上がり、床に置いていた自分のバックを古本の並ぶ棚に突っ込んだ。

「美術室に行こう。時間は限られてる」

 相澤と共に、周囲の様子を窺いながら図書館を後にした。
 一時限目の授業が始まった校内はしんと静まり返っていたが、耳を澄ませば授業を進める教師らの声が何処からかぶつぶつと聞こえていた。沙耶と相澤は物音を立てないよう足早に美術室がある北校舎へと向かった。渡り廊下の端にある視聴覚室の時計を一瞥すると、針は午前八時五十二分を指していた。いつもならこの時間帯、沙耶は自分の席に着いてクラスの皆と共に退屈な授業を受けている筈だ。日常は変わらず営まれながら、誰も自分達の異質な動きに気付いていないということが彼女を不思議とわくわくさせた。この不思議な高揚感とやらがやがて規則破りを犯す快感に変化し、遂には歯止めが効かない事態になってしまうのだろうな、と沙耶は一人でくすくすと笑った。相澤は後を追いつつ、そんな彼女の様子を妙な面持ちで静かに眺めていた。
 薄暗い美術室に辿り着き、二人は恐る恐る室内を覗き込んだ。しかしその場所に人の気配なるものは一切なかった。相変らずしんとしていて、古びた画材や絵具の香りがひんやりとした空気に溶け込んでいる。沙耶はゆっくりと鼻で息を吸い、鼻孔の奥に広がる物静かな空気に心を満たしていった。緊張感が高まり、集中の糸がぴんと張った、その時。

「画材を集めよう」

 突然耳元で相澤の声が聞こえた。沙耶は「ひゃっ」と大きな声を出してしまい、慌てて自分の口を両手で塞いだ。いきなりのことに驚いたのと、元々敏感な耳元で話されたことが原因だった。静まり返った北校舎一階の廊下には確実に彼女の声が響き渡った。
 沙耶は口を押さえつつ扉の影に身を潜め、相澤も身を低くして周囲の様子を窺った。しかし、崎村や他の誰かが声を聞き付けてやって来ることはなかった。

「変な鳥が鳴いたとでも思ったんじゃないかな」

 静かに笑い始める相澤の脇腹を、沙耶は顔を真赤に染めながら人差し指で強く小突いた。
 その後、収納されている場所をよく知る相澤がてきぱきと必要な画材を揃え、荷物を小脇に抱え込んだ二人はいそいそと図書館二階の古書室へと戻っていった。
 
 相澤が絵を描く準備をする間、沙耶はじっとその手元を眺めていた。人の手によって何かが整えられたり、何かが作られたりする様子を見ているのが彼女は好きだった。必要な材料が手に取られ、必要な分だけ切り取られ、必要な加工が施される。他人のリズムが生み出す繊細な音は、決して自分の手で奏でることは出来ない。自分で奏でようとしても、結局自身のリズムに吸い寄せられていって味が無くなったり、それを避けようとしてリズムをずらした結果、聞いていられない程わざとらしくなったりする。やはり、自分に出来ないことはそれができる他人に任せるのが一番いい。

「準備できたよ」

 いつしか瞳を閉じていた沙耶に、相澤はそっと声を掛けた。目蓋を開いて彼の顔をしばらく見詰めた後、沙耶は一つだけ頷いて『赤い絵』の乗ったイーゼルの後ろに立った。イーゼルから彼女が立つ位置までは六歩の距離である。

「リラックスして、自分の好きな姿勢を取ってみて」

 いきなり好きな姿勢と言われてもぴんと来ず、沙耶はしばらくもじもじと思案していた。その間じっとこちらを見詰める相澤の目線も真剣さを増してなかなかに気まずい。

「適当でいいんだよ。真面目だなぁ」

 彼が苦笑したので、頬を燃やして「うるさい」と言った。結局、手を前に組んで正面を向くというありきたりな姿勢を取ると、適当でいい、と言っていたくせに、相澤が「うん、そうか」と腕組をして唸り始めた。

「駄目なの?」

「いや、駄目じゃない」

「じゃあ、何?」

「髪を解いてみてくれない?」

 彼の提案に沙耶はぎくりとした。寝癖が酷いからそれを誤魔化そうと後ろで一つ結びにしてきたのだ。見逃してくれないだろうかと思い、「嫌って言ったら?」と訊ねようとしたが、沙耶は一つだけ嘆息して仕方なく髪を解くことにした。私がしゃしゃり出ている場合ではないのだ。
 ゴムから解き放たれた髪が肩の下まで垂れる。不意に硝子の割れていた窓から風が吹き込み、彼女の髪をふんわりと靡かせた。窓の方へと顔を向ける。

「……それだ」

 相澤がそう呟くのが聞こえた。
「え?」と振り向いた時、彼はもうキャンバスに絵を描き始めていた。沙耶はきょとんとした顔で相澤をしばらく見詰めたが、小さく息を吸って朝日の揺れる窓辺へと視線を戻した。触れてみた後頭部に今朝の爆発はあまり残っていなかった。制服の上着ポケットに両手を突っ込む。夕莉が何処かでこちらを見ている気がした。計り知れないほど遠く、あるいは手を伸ばせばさわれる距離。耳を澄ませば風の向こうに「ふふっ」と笑う彼女の声が聞こえ、瞳を閉じれば暗闇の向こうで静かに佇む彼女と目が合う。

「……後悔していませんか?」

 しかし夕莉は何も答えなかった。顔を綻ばせたまま、じっとこちらを見詰め続けている。
 沙耶はふと、すぐ傍に何者かの気配を感じて目蓋を開いた。相澤が間近に立っていた。身を引くことも、目を反らすことも出来ないまま、彼の瞳をじっと見詰める。手が静かに伸びて来て優しく頬に触れた。互いの鼻先が接する寸前まで距離が縮んだ時、「そこにいるのか」と相澤が訊ねた。
 無意識に涙が零れ落ち、それでも彼から目を離せなかった。

「……いるよ」

 そんな答えに相澤は無邪気な笑みを浮かべた。
 やがて傍を離れた彼はイーゼルの前へ戻って再び絵を描き始めた。沙耶は目元を拭ってぐすりと鼻を啜り、窓際に置かれた古いデスクの下に無数の紙が散らばっているのを見た。遠目にもそれが下絵のデッサンであることが窺える。今朝、古書室に踏み込んだ時にも気付いていたが、それらは相澤が描いたもので間違いない。殆どの紙上に沙耶の姿が描かれていた。ちらりと相澤の表情を窺ったが、彼は既に絵を描く虜となっていた。


~つづく~

⇩次回(第10話:最終話)はこちら

⇩第1話はこちら


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