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小説「美しい郷」 第三話

 夕方。畑に出て先日植えたトマトときゅうりの手入れをしていると、隣の畑に克彦さんが姿を現した。
 克彦さんは今年で八十五歳になる人で、久子さん宅の隣に一人で住んでいる。トマトをくれた吉平さんは「きっちゃん」、そしてこの克彦さんは「かっちゃん」と集落の皆から親しみを込めて呼ばれている。二人の性格は対照的で、吉平さんは陽気で親しみやすく、克彦さんは寡黙でほとんど誰とも喋らない。挨拶は手を挙げたり頷いたりするくらいで、僕は移住してから一年ほど克彦さんの声を聞いたことがなかった。吉平さんも克彦さんも僕にとっては野菜作りの先生である。土の耕し方や肥料の選び方、水のやり方、苗の植え方、間引きの仕方や支柱の立て方、成長後の手入れの仕方などなど、色々なことを詳しく説明しながら教えてくれたのは吉平さんだ。しかし、どのように野菜の状態を観察するか、どのタイミングで畑を手入れしたり放っておいたりするか、どうやって季節ごとの虫や野生動物の動きを知るか、ということを教えてくれたのは克彦さんで、僕はそれを克彦さんの動き一つ一つを見て真似ることによって学び取った。学び取った、といってもまだまだ未熟な初心者の領域を出ていない。これからもそうやって克彦さんから学んでいくつもりだ。
 ここだけの話だが、僕は克彦さんのことを密かに「アナグマのおっちゃん」と呼んでいる。克彦さんの家は久子さん宅の隣であることは先に書いたが、克彦さんの畑は僕の畑の隣にある。だからこそ克彦さんの畑仕事の技を近くで盗み見ることができるのだが、その畑へ行く時、克彦さんが通るルートは久子さん宅を突っ切るか、僕の家の庭を横切るしかない。雨の日には久子さん宅を通るようだが、晴れた日にはほとんど僕の家の庭を横切っていく。移住した初めの頃はびっくりもしたが、今ではそれが日常となってしまっていて逆に克彦さんが横切らないと「大丈夫かな」と心配になってそわそわしてくる。
 僕がなぜ克彦さんのことを「アナグマのおっちゃん」と呼ぶかはこのことに関係している。ある天気のいい日、PCでひと仕事終えて部屋から窓の外を眺めていると、一匹のずんぐりした生き物が僕の家の庭をのそのそと横切っていたのだ。それがこの方。

 そう、アナグマだ。アナグマはよくタヌキやハクビシン、アライグマなんかと並べられる生き物だが、他の三種に比べて敏捷性と警戒心に欠ける。この集落でも林道を歩いているとアナグマを時折見掛けることがあるが、土手を漁っている後ろ姿にゆっくり近付いても気付かれずに結構間近で彼らの様子を観察することが出来る。
 そんなアナグマが、僕の家の庭を畑の方に向かって歩いていったのだ。その時にはまだアナグマが食べるような野菜は植えていなかったので別段警戒はしていなかった。再び仕事に戻ってふと顔を上げた時、今度は克彦さんが畑の方から僕の家の庭を横切っていった。
「あれ、いつの間に?」
 そう呟きつつも、まあ、気付かない間に横切っていたのだろうとその日は思うことにした。しかし、それから数日後。また例のアナグマが今度は畑の方角から僕の庭を横切っていくのを見た。最近よく見るな、と思いながらも仕事を続けていると、その三十分後くらいに今度は克彦さんが畑の方へ向かって僕の家の庭を横切っていったのだ。僕は思わず外に駆け出て、サンダルのまま畑まで克彦さんを見に行った。克彦さんは黙々と畑を耕していた。その時に僕は思った。克彦さんはアナグマなのかもしれない。
 それをみっちゃんに話すと腹を抱えて笑っていたのだが、彼女は「ありえるかもしれないね」とも言っていた。他の集落には住人が一人もいなくなり、苔むした空き家が建ち並んでいる場所もあるようで、そこには沢山の野良猫が住み着いてしまっている。町では空き家問題の一つとして取り上げられており、野良猫たちをどうするか未だ話し合いが続いているようだが、町の人達は冗談半分でその猫たちは以前住んでいた住人らが故郷に戻って来て、化けて暮らしているのではないかと口々に噂しているらしい。
 
 自然の多い山間の集落に暮らしていると、人間と動物、そして植物、虫、その他微生物も含め多くの生き物との境目が実に曖昧であることを強く感じる時がある。科学技術の発展に伴い、人間の手が自然の奥地まで張り込んだとしても、そのことが我々人間が他の生物より偉大であったり崇高であったりするということを示す根拠にはならない。同じ星の上で互いに生きる場所を分け合う同じ生命であるはずだ。僕はそういったことも含め、克彦さんのことを親しみを込めて「アナグマのおっちゃん」と密かに呼ぶようにしている。

< つづく >


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