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私が杉について熱く話してしまうのはなぜなのか考えました。

こないだ畑をやっている友人が私が借りている畑を手伝ってくれて、たくさんお話ししました。

また先週、生活クラブに食品を買いに行ったときは、出店していた第三世界ショップさんと話が弾みました。

それぞれ杉の話に関心をもってくれて、私も話していて熱を帯びました。

でも、杉のことは以前ほど前のめりでなく、いうなればあえて「ほっといて」いるのに、どうしてそうなるのか考えてみました。

自尊心がくすぐられて快感を得ていた。

どちらの方も、私の話に関心を傾けて聴いてくれました。本当に関心を持ってくれている、と感じました。

それゆえ自尊心をくすぐられ、快感を得てどんどん話したくなったのだと思います。

これは怖いです。

でも、関心を寄せられて気持ちいいのはあたり前で、それに良いも悪いもないですから、そのことに気づいて、自分が話したいことだけを話し続けないよう、キャッチボールを心がけることだと思います。

相手の可能性が拡がるのを感じて、私の目も輝いた。

畑をやっている友人から、そんなに好きなものがあっていいですね!と言われました。

たぶん私の目が輝いていたんでしょう。

でも、あとで疑問に思いました。

杉を敷くのは好きですが、自然のなかを歩くのも好きだし、旅も好きだし、演劇をするのも好き。

杉を敷くことだけが、あふれんばかりに好き! というわけではありません。

思い返すと、どちらの方も、「自分で杉を買って自分で敷く」という発想がなかったと言い、私が経験したことを伝えたら目が輝いて、相手の世界が今まさに拡がるのを感じました。

それで私の目が輝いたのだと思います。
歓び、軽く興奮していたように思います。

話をきいてくれて嬉しいという感情の奥に、相手の、いや、お互いの可能性が同時に拡がるような歓びがありました。

何かが突き上がりました。

この純粋な何かを一番大事にしたいです。

もどかしいんです。

このことを、見落とせません。

衣食住そして芸術は人間にとって必要ですが、住については、自分でどうしたらいいかわからない、と、関心の外にある人が多いと感じます。

自分で木を敷けるなんて想像しなかった、という人がほとんどではないでしょうか。住まいについては自分ではやれないと思いこみ、思考の外に追いやっています。

これは、もったいないです。

畑を耕して野菜を育てるより、床に杉を敷くことの方がはるかに単純でカンタンです。杉を敷くのなんて畑の畝を立てるようなもんです。(違うか?💦)

暮らしのすべてをお金でなんとかするつもりの人には何も話すことがありませんし、そもそもご縁がありません。

でも、そのことに少しでもモヤモヤしている人となら話ができるはずです。

そして、すでに「暮らしを自分のものにしよう」と動いている人で、もう、ドンピシャみたいな人には、「あなたが敷かない意味がわからない」という気持ちになります(笑) 

それと、自分で漆喰を塗る人は結構いるように思います。

ホワーイ??

いや、いいんですよ、漆喰は。

杉床と漆喰は、食におけるごはんと味噌汁みたいなものです。もっとあたり前になってほしい。

でも、壁は塗るのに、なぜ床は敷かない?

居心地を左右する度合いを考えたら、まず床でしょ!という気持ちです。

話せば、そうか!となるんですが、そういうもどかしさで、私の話がいつの間にか熱を帯びてしまいます。そして腑に落ちてくれると、ノッてくるわけです。

だから、私が杉のことを熱っぽく語ってもそれは愛とか情熱とかじゃありません。

自尊心がくすぐられ、共感しあい、もどかしくもなり・・そういった感情に揺さぶられながら、相手と響き合う、ということが起こっているのです。

いま思えば、それは前から何も変わっていない気がします。以前は、無駄に前のめりだったのかも??

なんか、スッキリしました😊



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