見出し画像

豊島区雑司ヶ谷 鬼子母神巡り~加賀前田家の人々と『甲陽軍鑑』関係者~

 今回は、池袋や目白にほど近い雑司ヶ谷の鬼子母神堂とそれに関係する場所~清戸鬼子母神堂、雑司ヶ谷鬼子母神堂、法明寺~を巡っていきたいと思います。その過程で、この辺りは、加賀前田家のみならず、『甲陽軍鑑』の成立に関わった人物とも縁があるんだなぁと気付いたので、その辺りのことを書きたいと思います。

 散策を始める前に、まず鬼子母神とは何ぞやという話です。鬼子母神はインド由来の神様で、もともとは、子だくさんながら、他人の幼児をとって食べる残虐な存在だったのですが、お釈迦様に末の子を隠されたことで、これまでの過ちに気づき、その後、安産・子育ての神になることを誓い、人々に崇敬されるようになったといわれています。日蓮がこの鬼子母神を重視したので、日蓮宗では、鬼子母神は、子を守るだけではなく、信徒・宗徒の外護神として崇められているそうです。今回散策する鬼子母神堂も法明寺も日蓮宗と関係が深い場所です。

 さて、雑司ヶ谷鬼子母神のHPによると、雑司ヶ谷の鬼子母神のご尊像は、永禄4年(1561年)清戸の地で掘り出され、星の井(清戸鬼子母神境内にある三角井戸)で清められたといいます。そこで、まず今回はこの清戸から散策をはじめることにしました。東京メトロ有楽町線・護国寺駅で降りて、徒歩約6分。車がびゅんびゅん走る大通りから一本中に入ると、別世界がひろがっていました。↓

都会のエアポケットのような空間
清戸鬼子母神堂
ここで、のちに雑司ヶ谷鬼子母神堂のご尊像となる像が、永禄4年(1561年)、掘り出されたという

一歩中に入ると↓

鬼子母神像が出現したことをアピールする石標が

この辺りから掘り出された鬼子母神像は、こちらの水で清められたそうです。↓

掘り出された鬼子母神像はこの辺りで清めたという
しかし、なぜ三角形の井戸になっているのだろう??
三角井戸の横にたてられた看板

吉祥天像も一応、載せておきます。↓

雑司が谷七福神の一つ 吉祥天

こちらは、あまり古くなさそうですね。
この鬼子母神出現所の裏は、かつて弦巻川が流れていて、今は暗渠になっています。出現所は、うっそうとして薄暗いので、晴れた明るい時間に訪問されることをおすすめします。

さて、こちらで掘り出された鬼子母神像は、東陽坊(のち大行院と改称、その後、法明寺に合併。東陽坊の建物は、前田利家によって寄進されたといいます。)に預けられましたが、紆余曲折を経て、天正6年(1578年)に、「稲荷の森」と呼ばれていた現在の雑司ヶ谷の鬼子母神堂の辺りに村人たちによって堂宇が建てられました。雑司ヶ谷の鬼子母神堂は、その後、寛文4年(1664年)前田利常の三女・満姫によって、立派な本堂が建てられ、現在に至ります。

 では、いよいよ雑司ヶ谷鬼子母神堂を目指していきましょう。てくてく10分ほど歩いて、都電荒川線の線路を渡ると、参道の入口が見えてきました。参道に入る前に、振り返って、パチリ。↓

雑司ヶ谷鬼子母神参道入口近くから
路面電車の都電荒川線を望む

では、参道に入っていきましょう。↓

雑司ヶ谷・鬼子母神参道入口
参道はずっとケヤキ並木になっている
このケヤキ並木は、天正年間(1573~92年)に植えられたらしい

この辺りは、秋に来るのが好きなのですが、新緑のころも悪くないですね。
今回の本題から少し話は逸れるのですが、この参道の右側の少し奥に入ったところに、手塚治虫が暮らした並木ハウスがあるので、そちらの写真も載せておきますね。↓

トキワ荘から移った手塚治虫が暮らした並木ハウス
昭和28年(1953年)築のこのアパートは、
何と国登録有形文化財

参道に戻って歩きます。しばらく来ないうちに、新しく建て替わった建物が多くて驚きました。背の高い並木を除けながら、旧い建物を壊したり、新しい建物を建てたりするのは大変そう。さて、参道突き当りを左に曲がると雑司ヶ谷鬼子母神堂が見えてきました。↓

奥に見えるのが雑司ヶ谷鬼子母神堂の本堂

もう少し近づいてみます。↓

この写真では見にくいが、
元禄9年(1696年)の仁王像がある

境内に入ってすぐ左を見ると樹齢700年の大公孫樹がお出迎え。↓

東京都指定の天然記念物の大公孫樹
高さは32m以上
応永年間(1394~1428年)に僧日宥が植えたというから
奥の鬼子母神堂ができる前から、ここに存在していたことになる

大公孫樹のすぐ横には武芳稲荷が。↓

武芳稲荷は、鬼子母神の地主神を祀った古社だという

かつて「稲荷の森」と呼ばれたのは、ここのことでしょう。
武芳稲荷の右横には、江戸時代から続く駄菓子屋の川口屋さんがあります。↓

川口屋
江戸時代は飴で有名だったそう

さて、いよいよ本堂です。↓

この本堂は寛文4年(1664年)、
加賀藩主前田利常公息女で
家光の養女として広島藩主浅野光晟に嫁いだ
満姫(自昌院伝英心日妙大姉)の寄進により建立され
以後も拡張した
戦災を免れ、現在は国の重要文化財に指定されている

この建物の建立にあたって、満姫(自昌院)が、嫁ぎ先の広島から大工58名を招聘したそうです。
「鬼子母神」の看板を見ると、角のない鬼の字が使ってありますが、これが正式な書き方。というのも、こちらの鬼子母神像は鬼形でなく、羽衣・瓔珞をつけ、吉祥果を持ち、幼児を抱いた菩薩型の美しいお姿をしているから、「鬼」に角はつけないのだそうです。

 次は、この雑司が谷・鬼子母神堂を管理した東陽坊(のちの大行院)と関係する法明寺に行ってみます。雑司ヶ谷鬼子母神を出るとすぐ法明寺の入口です。↓

威光山 法明寺入口

この辺りは、桜が植えられていて、桜の時期がとてもきれいだそうですが、今回はすでに葉桜になっていました。↓

威光山 法明寺

この辺一帯は、雑司ヶ谷の鬼子母神堂以外は、戦災で焼けてしまって、この建物も昭和のものだそうですが、それでも素敵ですね。
さて、今回は、この法明寺の墓地で思いがけない人のお墓を見つけました。先日、甲府の信玄ミュージアムに行って、こんな展示を読んだのですが、↓

甲府市の信玄ミュージアムの展示より
『甲陽軍鑑』をまとめた小幡景憲について書かれている

なんと、法明寺には、ここに書かれた小幡景憲一族のお墓が、あるそうなのです!↓

法明寺の名墓の看板

早速、見に行ってみます。看板があるわりに、墓域に入ると何も看板がありません。戸惑いますが、Google Mapを見ると、小幡景憲一族の墓という表示が出てくるので、それを見ながら、見つけました。古いものから新しいものまで小幡景憲一族のお墓が並んでいたのですが、小幡景憲のお墓は、どうやらこちらのようです。↓

写真右奥に見える白い建物がサンシャイン60
こんなところに小幡景憲は眠っていた

『甲陽軍鑑』の成立に関わった小幡景憲は、幼い頃、満姫(自昌院)の外祖父にあたる秀忠に仕えていたのですが、後に満姫(自昌院)の嫁ぎ先である安芸浅野家に仕えるようになったそうです。満姫(自昌院)による立派な雑司ヶ谷の鬼子母神堂建立と法明寺中大行院(もと東陽坊)をつないだのは、小幡景憲ではないかとおっしゃる方もおられます。年表を確認すると、景憲が亡くなった翌年から、満姫(自昌院)による雑司が谷の鬼子母神堂の建立がはじまっていました。清戸で出土した鬼子母神像を初めに預かった東陽坊(のちの大行院)の建物を寄進したのは前田利家のようですし、利家の孫である満姫(自昌院)が、雑司ヶ谷に立派な鬼子母神堂を建立しようとしても不思議ではないかもしれません。また満姫(自昌院)による建立が始まった翌年の寛文5年(1665年)は、法明寺開山日源上人の三百五十遠忌にあたっていたので、鬼子母神堂の新築は、その報恩事業だったとも推測できるそうです。また、この頃の法明寺は、信徒以外からは布施を受けないという日蓮宗の不授不施派のお寺でした。早くに亡くなった母親の代わりに、幼い満姫(自昌院)を養育した祖母・寿福院(利家の正室まつの侍女から利家の側室になった)は熱心な法華信徒で、満姫(自昌院)自身も不授不施派の上人たちに師事していたのですが、満姫(自昌院)が雑司ヶ谷に鬼子母神堂を建て始めた時期は、不授不施派の迫害期にあたっていたそう。満姫(自昌院)はこの鬼子母神堂を建てることで不授不施派を外護しようとしたのではないかとも言われています。この時期の不授不施派の僧や信徒たちは、かくれキリシタンのような信仰生活をしいられ、雑司ヶ谷の鬼子母神堂の建立の始まった翌年の寛文5年(1665年)には、幕府が不授不施派の弾圧に踏み切り、同年、法明寺の日了上人が讃岐丸亀に流され、元禄4年(1691年)には、幕府が不授不施派を禁制とし、満姫(自昌院)も表向きだけ天台宗に改宗したりしました。元禄11年(1698年)には、本明寺の本寺の碑文谷法華寺が棄却され天台宗になり、本寺を失った法明寺は身延山末寺となりました。その約二年後の元禄13年(1700年)、満姫(自昌院)は亡くなり、雑司ヶ谷の鬼子母神堂造立は、満姫(自昌院)から法明寺別当東陽坊(のちの大行院)に引き継がれます。以後、権力による規制を受けながらも、雑司ヶ谷の鬼子母神堂は、庶民の力によって支えられていきます。吉宗の時代以降は、代々将軍家も法明寺に御成し、秘仏の鬼子母神像が開帳されることもあったようです。

 最後に、少し長くなってしまいますが、法明寺と雑司ヶ谷鬼子母神堂の間にある観静院に立ち寄りたいと思います。こちらは元々、今はなき大行院(もと東陽坊)内にあったようです。↓

観静院

現在、ここは雑司が谷七福神の弁財天がいらっしゃるぐらいで↓

観静院内 雑司が谷七福神の弁財天

特にこれといった看板もないのですが、江戸時代後期に書かれた『遊歴雑記』によると、大行院(法明寺中もと東陽坊)には、小幡景憲の像と、小幡景憲願主の六体の老僧像があったそうで(戦災で、こうした像も失われてしまったのでしょうか??戦前に出版された『雑司谷若葉集』には、この像たちのモノクロ写真が掲載されていました)、大行院と小幡景憲との関係の深さを再確認するようなエピソードだと思いました。『遊歴雑記』には、さらに面白いことが書いてあって、大行院中観静院には梅園天満宮があり、それが、なんと肥後と関係があるそうなのです。延久2年(1070年)、菊池肥後守が霊夢によって天満神の聖像を七体彫刻し、そのうちの一体を梅園に勧請し、梅園天満宮と称し、それを菊池氏が代々崇敬したのだけれど、加藤清正が再三懇願し、これを譲り受け尊敬したが、清正の死後、息子の忠廣が宝庫に納め置いたところ、家臣の矢島宗吉という人がそれを貰い受けて安置した。しかし、手狭な家でもあるし、汚れるのを恐れていたところ、観静院の三世が矢島氏と縁があったので、この聖像を肥後から雑司が谷に運び、以来、この聖像が観静院の護法神になったとのこと。観静院にそういった案内板もないので、にわかに信じがたかったのですが、日蓮宗のポータルサイトの観静院のページには、以下のように書かれていました。

「慶長年間(1596~1615)に創られたお寺です
1200年以上の歴史のある威光山法明寺(いこうざん ほうみょうじ)の塔頭(たっちゅう)です
本堂の脇陣には 北野天満宮の御神体と
同木から造られたと伝わる
梅園天神(うめぞの てんじん)が祀られており
観静院の守護神として 創建当初から 鎮座されています」

菊池氏や加藤氏、矢島氏については書かれていませんが、梅園天神がこの観静院の守護神として創建当初の慶長年間から鎮座していたのは、間違いなさそうです。

 以上、随分長い記事になってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます!今回歩いたルートはこちらです。↓

追記:『切支丹風土記 東日本編』には、法明寺に、十字紋を刻する墓碑が見られるのは興味深く、中でも岡村家のお墓の上部には切たけクルス紋があり「岡村鈍魯斎~」と書かれた文字が見え、鈍云々の名は、ポルトガル系の切支丹風を思わせると書かれ、岡村家のお墓の写真も掲載されていますが、『東京きりしたん巡礼』によれば、現在このお墓は不明とのこと。今回、私も見つけることができませんでした。ネットで「法明寺 岡村家」と入れて検索したところ、国立情報研究所HP内の池上悟氏の「幕臣成瀬家一族の墓所と墓石」という論文がヒットし、そこに「徳川吉宗に従って列した御家人の岡村家」の墓所が法明寺に遺存していると書いてあるのをみつけました。『切支丹風土記 東日本編』に出てくる岡村家と関係あるのかは、わかりません。

(参考資料
①『雑司ヶ谷鬼子母神堂 雑司ヶ谷鬼子母神堂開堂三百五十周年・重要文化財指定記念』法明寺著、勉誠出版、2016年
②『雑司ヶ谷鬼子母神』日本女子大学総合研究所、H.28年
③豊島区文化財ブックレット2『豊島区の文化財と史跡』豊島区教育委員会、R3年
④『豊島区史跡散歩』伊藤栄洪、堀切康司著、学生社、1994年
⑤『豊島風土記』豊島区立豊島図書館編集、S.51年
⑥『江戸地誌五十編 雑司が谷村風土記』矢島勝昭訳、1997年
⑦「大行院観静院の事実」『十方庵遊歴雑記 水鳥記 高陽闘飲 : 後水鳥記 5編 上・中・下 (江戸叢書 ; 巻の7)』、江戸叢書刊行会、T.5年
⑧『雑司谷若葉集』兜木正亨著、聖典輪読会、S.14年
⑨『豊島区の歴史』林英夫著、東京ふる里文庫3、S.52年
⑩内山善一「江戸の切支丹」『切支丹風土記 東日本編』、宝文館、S.35年
⑪『東京きりしたん巡礼』山田野理夫著、東京新聞出版局、S.57年
⑫「鬼子母神へようこそ」雑司ヶ谷鬼子母神HP
⑬日蓮宗ポータルサイト
⑭池上悟「幕臣成瀬家一族の墓所と墓石」『立正大学大学院紀要三十七号』、2021年、国立情報研究所HP経由でオンライン上で閲覧可能)

この記事が参加している募集

探究学習がすき

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?