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ネストリウス派→アッバース朝(バグダード)→ヨーロッパ(トレド)という流れ~『イスラムがヨーロッパ世界を創造した 歴史に探る「共存の道」』(宮田律著、光文社新書)を読んで


 ネストリウス派(景教)について調べているうちに、イスラムとかアラブ世界についての認識不足を改めて実感するようになり、もう少しイスラムの世界について知りたいと思っていたところ、光文社のnoteで『イスラムがヨーロッパ世界を創造した 歴史に探る「共存の道」』が新書として出版されるという記事を読んだ。目次を見たら、面白そうだったので、早速読んでみた。(目次はここで見られます↓)


「なるほど~」と思うことはいくつもあったが、ここでは、これまで、このnoteで触れてきたネストリウス派(景教)や天文学に関わることだけ、書いてみたい。

 その前に、まずは、ネストリウス派とイスラムのアッバース朝の関係について簡単に見ておこう。ネストリウス派(景教)の最盛期というのは、中国に大秦景教流行中国碑が建てられた頃(781年)からはじまっていて、これは、中央アジアから西方が、イスラムのアッバース朝によって治められた時代にあたっている。昨今の情勢からは、キリスト教とイスラムは、あまり仲が良くないという印象を持ちそうになるが、この時代はそうではなかったようで、アッバース朝の首府がバグダードに移ると、ネストリウス派は、カトリコス(ネストリウス派のトップのこと)の座を、ペルシアのセレウキア・クテシフォンからバグダードに移し、アッバース朝と密接な関係を持つようになった。実際、ネストリウス派のカトリコスは、アッバース朝のカリフの外交使節として、ビザンティン帝国やローマへ派遣されることもあったという。教会の権力争いに敗れ、自分たちの基盤から追い出され、アウェーである東方に勢力を伸ばしたネストリウス派は、生き残るために、常に時の権力の保護を受けてきたから、ネストリウス派がアッバース朝に歩み寄ったのは不思議なことではない。では、なぜイスラムのアッバース朝が、キリスト教のネストリウス派と関係をつないだのだろう。端的にいうと、アッバース朝は、ネストリウス派のもつギリシアの知(アリストテレスの哲学やガレノスの医学など)を必要としたらしい。ネストリウス派は、シリア語を介して、ギリシアの知を取り込んでいたし、ギリシア語文献を読むことができたのだ。アッバース朝7代カリフのマムーンは、860年、バグダードに「知恵の館」を創設し、組織的にギリシアの知をアラブ語に翻訳させた。ギリシア語に通じたネストリウス派のフナイン・イブン・イスハークは、そこの学頭として活躍した。

 ところで、くだんの宮田律氏の『イスラムがヨーロッパ世界を創造した』(光文社新書)によれば、バグダードではこの「知恵の館」を中心に、数学、天文学、物理、化学、医学などの分野が目覚ましく発展したが、この館のアラビア語文献が、ムスリムによって、トレドに持ち込まれ、ラテン語に翻訳されることで、中世ヨーロッパの哲学・科学研究の発展の基礎が築かれたという。また、トレドで、アラビア語からラテン語に翻訳されたものの一つに、プトレマイオスの天文学の体系である『アルマゲスト』があって、これを翻訳したのは、北イタリアのクレモナからトレドに赴きアラビア語を習得したイタリア人学者ジェラルドだという。アリストテレスやプトレマイオスをベースとした天文学が、イエズス会士たち~おもにイタリア人の~によって、戦国から江戸初期の日本や、明の時代の中国に持ち込まれたことは、以前、書いたけれども、こうしてみてみると、(とても粗い見方ではあるけれども)シリア語を基本とするネストリウス派によってギリシア知がイスラムのアッバース朝のバグダードに持ち込まれてアラビア語に翻訳され、それがムスリムによってトレドに持ち込まれてラテン語に翻訳されてヨーロッパの学問の基礎になり、それが更にヨーロッパ出身のイエズス会士たちたちによって、日本や中国に持ち込まれたと言えそうである。
(「知恵の館」には、インドの知も持ち込まれたことを追記しておく)

(ネストリウス派とアッバース朝、知恵の館について、もう少し詳しい記事や、参考文献が気になる方は、こちらをご覧ください。↓)



(標題の写真は、大秦景教流行中国碑。wikipediaより)


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