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目黒の大久保長安&キリシタン伝説について

 目黒の碑文谷の近くには鉄飛坂という坂があって、そこには、下のような看板が出ています。↓

鉄扉坂に建てられている看板

ここに書かれたポルトガル人テッピョウスという人物は、大久保長安伝説に出てきます。その伝説の内容について、『目黒史』は以下のように書いています。

…江戸初期、大久保石見守長安が、佐渡金山採掘のため、ポルトガル人「ヒモンヤス」「テッペヨーズ」の二人に鉱山採掘の方法を学んだということが、『慶長切支丹秘記』に記されているところから、この二人の名が碑文谷と鉄飛(鉄飛坂)の地名の起こりであるという説がある。しかし、碑文谷の地名はそれよりずっと以前にあったことはたしかであるから、これは付会の説にすぎない。

『目黒区史 本編 第3版』p.148

また「目黒史」という写本があって、そこにはヒモンヤス、テッぺヨースがルイス・ソテロの配下であったとか、目黒付近にはキリシタンの旗本が5名潜伏して、現在の大鳥神社や岩屋弁天付近を根城とし、行人坂に坑道を掘って、鉱山技術を習得したとか、長安の死後、キリシタンの取締りが強化されて、ヒモンヤス、テッピヨースが荏原に逃れたが、捕らえられて斬首に処せられたとか書かれているらしいです。この写本の「目黒史」を借覧した村上直氏(大久保長安の研究者として著名)は、大久保長安と目黒地域の直接の関係を示す資料が未発見なので、史実としてはそのまま承認できないとし、これらの伝説は、江戸中期以降の巷説を組み合わせて作成したものであるのは確かであると言っておられます。

 では、なぜ目黒に大久保長安やキリシタンを結び付けたような伝説がうまれたのでしょう。ここ最近の散策で見てきたように、目黒の碑文谷には、キリシタンのように弾圧を受けた日蓮宗の不授不施派の中心地の法華寺があり、周辺にはその末寺がありました。目黒の大久保長安&キリシタン伝説は、不授不施派がキリシタンと混同されてできたものという可能性はないでしょうか?しかし、それだけだろうか?という感じもしないでもないです。

大久保長安関係の記事は、こちら。↓

碑文谷の法華寺とその末寺についての記事は、こちら。↓


(参考文献
①『目黒区史 本編 第3版』東京都立大学学術研究会編、東京都目黒区、1970年
②村上直「講演録 江戸幕府の成立の大久保長安」『郷土目黒』第51集、2007年、目黒区郷土研究会
③伊藤豊次郎「法華寺最盛時の坊舎・末寺・名僧など」『郷土目黒』第30集、1986年)

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