見出し画像

浅草鳥越フランシスコ会の施療院と伊達政宗、そこからの松平忠輝と大久保長安


 前回、慶長18年(1613年)に浅草鳥越で殉教したキリシタンの殉教碑を見てきた話を書いた。↓

当時、浅草鳥越には、フランシスコ会のルイス・ソテロが建てた施療院があり、1613年の殉教者たちは、そこにいた人たちであった。このとき、実は、ルイス・ソテロも捕まったのだが、伊達政宗の助命運動により助かった。この三年前、政宗の侍女が病に伏したとき、政宗は、ソテロに修道院付属病院のプルギヨスという医者の来診を請い、ソテロはそれに応えていて、二人は知り合いだった。政宗は、ソテロを将軍の同意を得て準備中の遣欧使節の必要人物だとして、ソテロの出獄を成功させた。実際、この年の10月、ソテロは支倉常長一行とローマに向かって船出した。

 ところで、ソテロを助命した政宗の娘・五郎八姫は、家康の6男・松平忠輝に嫁いでいた。二人が結婚したのは、慶長10年(1606年)のことで、この頃、忠輝は信濃国川中島の城主(海津城→松城のちの松代城)であったが、慶長15年(1610年)には、越後国高田が加封され福島城、後に新築の高田城に移った。忠輝が、慶長8年(1603年)に川中島に移封されたとき、大久保長安がその付家老となったが、浅草鳥越のキリシタンや、武田家家臣・高坂弾正(春日虎綱)の子という甚内が浅草鳥越で処刑された数か月前、長安は亡くなり、大久保長安事件が起こっていた。大久保長安事件とは、長安が不正に富を蓄えたとかキリシタンと接近したなどとされ、その子孫が断絶することになった粛清事件である。このとき、忠輝に影響はなかったようにみえるが、のちに忠輝も、大坂夏の陣での遅れなどの理由で、元和2年(1616年)、改易を言い渡され、五郎八姫とも離縁することになった。改易になった忠輝は、伊勢国朝熊、飛騨国高山、信濃国諏訪と移動し、諏訪の高島城では50年以上を過ごし、驚くことに90代まで生きた。そのお墓は、諏訪の貞松院にあって、波多野通敏氏によれば、忠輝はオコリ(瘧)の神様と言われているらしい。

 前回、浅草鳥越のフランシスコ会の施療院があった場所に、高坂弾正(春日虎綱)の子だという甚内をオコリの神様として祀った甚内神社があること、海津城主だった高坂弾正(春日虎綱)の長野市松代にあるお墓もオコリに験があるようだということを書いたが、今回は、松平忠輝までオコリの神様だという。この周辺、なんだかオコリづいている。

(標題は、浅草鳥越のキリシタン殉教記念碑)

(参考文献
①『切支丹大名記』シュタイシェン著、吉田小五郎訳、大岡山書店、1930年
②『東京きりしたん巡礼』山田野理夫著、東京新聞出版局、S.57年
③内山善一「江戸の切支丹」『切支丹風土記 東日本編』、宝文館、S.35年
④『松平忠輝』諏訪忠輝会、信濃民友社、1955年
⑤黒田基樹「松平忠輝文書の基礎的研究」『駒沢大学史学論集(25) 1995-4』
⑥中村保名「松平忠輝領の配置に関する一考察 大久保長安を中心に」『駒澤大学史学論集(30) 2000-4』
⑦『大久保長安と八王子』八王子郷土資料館、H.25)

大久保長安って何やった人?武田家と何か関係あるの?と思った方は、こちらの記事をご覧ください。↓




この記事が参加している募集

探究学習がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?