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目黒・碑文谷散歩~東京23区内最古の建築物や碑文谷鬼子母神堂などを巡る

 
 今回は、目黒の碑文谷の辺りを散歩してきたときのことを書きます。この辺りには、東京23区内で最古の建物や、碑文谷鬼子母神堂などがあります。では、早速見ていきましょう。


 まず最初に、碑文谷八幡宮に立ち寄りました。↓

碑文谷八幡宮 創建年代は不詳 旧碑文谷村の鎮守

背の高い木々がたくさん茂っていて、雰囲気のある場所です。村の鎮守の神様だそう。

碑文谷八幡宮で、ご挨拶を済ませたら、早速、東京23区内で最古の建物がある円融寺に向かいます。円融寺の入口が見えてきました。↓

円融寺入口

円融寺が、どういうお寺かというと↓

円融寺の説明板

寺伝によると、853年に開かれた古い天台宗のお寺だったのが、1283年、日蓮の高弟・日源上人によって、日蓮宗に改宗され、法華寺となり、以後約400年間にわたり栄えた名刹でしたが、信徒以外からは布施を受けないという不授不施の教義を強く主張したために、江戸幕府の弾圧を受け、元禄11年(1698年)に天台宗のお寺に戻されました。以前、雑司ヶ谷の法明寺は、碑文谷法華寺の末寺だったという記事を書きましたが、この円融寺こそ、その法華寺です。(雑司ヶ谷の法明寺の記事はこちら。↓)

なぜ不授不施派がそれほどまでに弾圧されたのかというと、日蓮宗の信者以外からは一切施しを受けないし、施しもしないという教えなので、秀吉や家康が開いた法要にも参加しなかったからだそうです。信仰の純粋さは、ときに、思いがけず、権力を無下にしたふるまいをしているかのように見られてしまうのかもしれません。

では、早速、円融寺の中に入っていきましょう。中に入ると仁王門がお出迎え。↓

円融寺仁王門
仁王門説明板

仁王門の建物は近世に大改修されたようです。永禄2年(1559年)作で都指定文化財の仁王像は、周囲を透明の板で囲まれていて、残念ながら、写真に撮ることができませんでした。もう少し仁王門に近づいてみましょう。↓

仁王門内部

上の「円融寺 仁王尊」の額の向かって右側に仁王像を彫刻した額があります。実際の仁王像は、この彫刻のように、細身で、そして少し黒っぽかったです。門にたくさん奉納された絵馬にも、この仁王像の絵が描かれていて、仁王像がこのお寺のシンボルのような存在になっているのを感じました。門の奥に見えるのが、東京23区内最古の建物です。もっと近づいてみましょう。

円融寺釈迦堂 
室町時代に建てられたこの釈迦堂は
東京23区内で最古の建物
重要文化財

古い、古いですね!都内には、室町時代にさかのぼるような古い建物はほとんどないので新鮮です。もともとの屋根は茅葺きだったそうですが、火災予防の見地から、昭和27年(1952年)に銅葺きに改めたそうです。少し横からも見てみましょう。↓

釈迦堂を横から

下の空間は、湿気対策か何かなのでしょうか。

天台宗のお寺ではありながら、日蓮宗のお寺として400年もの間、栄えた歴史があるので、日蓮宗の名残も残っています。↓

日源上人五重石塔
日源上人五重石塔説明板

『目黒区史』によれば、もともと真言宗だった雑司が谷の法明寺を日蓮宗のお寺にしたのも、この日源上人だったそうです。

 円融寺の散策はこのくらいにして、次は、近くにある法界塚と碑文谷鬼子母神堂に向かいましょう。見えてきました。↓

法界塚と碑文谷鬼子母神堂


法界塚の上に碑文谷鬼子母神堂があるようです。法界塚は何かというと、古い塚だというのは確かだけれども、古墳なのか法華寺関係の経塚なのか、よくわからないのだそうです。↓

法界塚説明板
法界塚に残る石碑など
向かって左から三つ目の石には
「鬼子母神 十羅刹女」の文字が見える

鬼子母神堂はこちら。↓

碑文谷鬼子母神堂は
紆余曲折を経て、明治時代にこの地に落ち着いたよう

この日は運が良くて、お堂の中を拝観することができました。目が悪いので、よくわからなかったのですが、彩色された小ぶりできれいな、複数の像が見えました。よく手入れされて、大切にされているお堂なのだなと感じました。調べてみると、この鬼子母神堂が、安藤氏によって元和2年(1616年)に創設されたときは、ここから600mほど離れた羅刹橋の付近(西小山方面)にあったのですが、不授不施派の弾圧で法華寺が天台宗になると、隣村の小山の摩耶寺(日蓮宗)に移され、明治の時代になると、摩耶寺の鬼子母神堂がこの法界塚に移築再建されたのだそうです。法華寺が天台宗になった時、困った檀家の人たちが、夜中に墓石を背負って、不授不施派ではない他の日蓮宗のお寺に移動したりしたこともあったそうで、不授不施派の弾圧の影響は想像以上に大きかったのかもしれません。

 せっかくなので、最後に鬼子母神堂の避難先だった摩耶寺に寄ってみました。摩耶寺の辺りまで来ると、町の雰囲気がちがって、本当に隣村にきたのだなという感じがしました。この辺りは、目黒区でなく品川区になるようです。摩耶寺の本堂はだいぶ近代的な建物になっていました。↓

本堂の左手には、天保年間(1830~1844年)に建てられた摩耶堂があり、そこには延宝6年(1678年)制作の釈迦の母・摩耶夫人像が安置されているそうですが、見ることはできませんでした。

門から摩耶寺を望む

今回歩いたルートは、こちら。↓

(参考資料
①『目黒区史』、東京都立大学学術研究会編、1970年、p.154~161
②『目黒区大観』、目黒区大観刊行会、1935年、p.183~184
③『郷土目黒』第30集、1986年
③円融寺HP
④日蓮宗東京都南部社務所HP「碑文谷向原教会」
⑤摩耶寺HP
⑥目黒区HP 「文化財めぐり(碑文谷コース)」)

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