見出し画像

"バースデーブルー"って聞いたことありますか?

はぁい、ゆかりです🙋‍♀️
今回は「バースデーブルー」について。
もしかして、用語自体が耳慣れないかも知れませんね。
例えば、マリッジブルー、マタニティブルー、ニューイヤーブルーなど。
ブルーという表現は鬱屈とした状態を指し示すことが多いです。
バースデーブルーはその呼称の通り、誕生日前後に精神が落ち込み憂鬱になるような、こと。。。。。なのかな?
自らの経験を通して綴ってみたいと思います。
過去の自分の一部と、ちょっと対面。
*センシティブな内容を含みますので閲覧は自己責任でお願いします。

【バースデーブルーの一般的な定義と原著論文】

バースデーブルーとは↓(以下、複数の記事をまとめたものです)
自分の誕生日の前後の期間に憂鬱な気持ちに陥ること
「誰も誕生日を祝ってくれない」「昔のように盛大に祝ってもらえなくなった」といった実感がもたらす孤独感や虚無感がバースデーブルーの要因となりやすいとされている。

誕生日に自殺が増える「バースデーブルー」の仮説。
欧米諸国では、以前から提唱されていたが、日本人にも当てはまることを裏付ける統計結果が発表。
大阪大学の松林哲也氏米国・シラキュース大学の上田路子氏は、
1974~2014年に自殺や事故(交通事故、転落事故、溺死、窒息死など)により死亡した日本人207万3,656人の死亡記録をポアソン回帰分析を用いて検討。
その結果、自殺や事故による死亡者数が他の日と比べて誕生日に多いことが明らかに。
(Social Science & Medicine誌オンライン版2016年4月29日号掲載の報告)

主な結果は以下のとおり↓
・自殺による死亡者数が、誕生日はそれ以外の日と比べて50%多かった
・誕生日に死亡する人が増加する傾向は、性別、配偶者の有無、死亡時の年齢のサブグループに関係なく見られた
・高齢者において、食事に出掛けるなどの誕生日のお祝いに関連する特別な行動が事故死急増の一因になっていることが示された。
 対照的に20代では誕生日の交通事故による死亡者数が著しく増加。
 報告者らによると、誕生日のお祝いでのドライブや飲酒に起因する可能性があるとのこと。

原著論文はこちら↓
Matsubayashi T, et al. Soc Sci Med. 2016;159:61-72.

【私のバースデーブルー体感や思考の体験】

いつからだろう。
自分の誕生日の足音を感じると。
ここに居ることの罪悪感を深めて、
普段よりもさらに生きづらさに募らせていたのは。
いつからだろう。
その毎年の苦しみの習慣が、いつの間にかてのひらからこぼれ落ちて、あまり感じなくなっていたのは。

明確な時期は定かではないが、はっきり覚えている時期として一番古い記憶、それは中学校に上がった頃だろうか。
環境の変化、自らの身体や心の成長過程、それら以外にも実感を伴わない様々なこと。
梅雨だから?という理由も生命体動物人間として、ブルーになる要因に加味していたのかも知れない。
6月中旬を迎える前に、いつにも増して募らせる罪悪感と自己嫌悪感。
定義で言えば、自らのいのちが祝福されていない、という強い思い込みによって孤独感を深めていった、というところなのか。
ちょっと体感としては、しっくりこないが。
「祝って欲しい」「さみしい」という思考や渇望ではなかったように思う。
本当に自分の存在が、疎ましいもの以外のなにものでもないように感じ、内側で静かな青い炎に炙られているような感覚だった。
それが、私の場合、誕生日が過ぎてもさらに1ヶ月、つまり合計2ヶ月の間、異常に落ち込んでいる状態が続いた
当然ながら、表面上は「私、落ち込んでいます」という表出はしない。
お誕生日を祝ってくれる人もいる。
だが、お腹の真ん中が空虚な「空っぽ」という感覚が、在った。
「無い」という感覚が、確かにそこに、在った
「いつも通り」の私で、誰にも落ち込みや苦しみを気づかれないように。
力を注いでいた。

「いつも自由だね」「頑張ってるね」「マイペースだね」
外側から自然に見えるように努力することの、この上ない内側の不自然さ
今も集団の中に在る時は、その習性を残していたりも、する。
まるで意味のないことだと、本当は知りながら。

そして、実は。
お誕生日に「おめでとう」と言ってもらう度に、どう反応すればよいのか困窮していた。
あ、もちろん、「ありがとう。」とは応える。
しかし思っていないのだ、ありがたい、とは。
ここがうまく説明できないし、その思いを誰かに打ち明けたことなど、ない。
私には「おめでとう」という言葉をいただけるような価値が、あるのか。
その答えのない自問に疲弊し思考の迷宮の探索を自ら深めていたのだ。

そんな私が、"バースデーブルー"という定義があることを知り、
一般定義とはなんとなく一致しない意味合いがあったとしても。
「あ、私だけじゃなかったんだ。」と理解して、数年後。
JICAボランティアとして派遣されたコロンビアで迎えたお誕生日の時季。
今から9年前に気づいたこと。
前年まで確かに、ともに過ごしてきた"バースデーブルー"。
6月に現れず、誕生日を迎えて異国で祝っていただいた後にも現れなかった。
という、現実。
むしろ、照れくささとともに感謝の念すら、感じることが、できた。
この時に初めて、Facebook投稿で自らが中学生の頃からバースデーブルーに苦しんできた、ということをカミングアウトすることさえ、できた。
日本からほぼほぼ地球の裏側にある異国の地。
そこに在る自分といういのちを感じられたということが
もしかして私の心の中のかたまりを最速で溶かしてくれたのかも、と思う。

【思うことは】

自分の外側に意識を向けて、内観内省は一人でじっくりする割には、自分を雑に扱ってきたかも知れない。
今ならそう思うことを自分にゆるせる。
ありがたい、と感じることのなかった自分の未熟さを痛感もする。

ただこの過去の苦みや痛みすら。
自分の一部なんだ、と。
最初から、ゆるすゆるさないの話ではない、というところまで統合されつつある。

しかしまだまだ道半ば、未知半ば。
「わからない」が口癖の私は、きっと。
わかりたくないだけなんだ、ここにいたいだけなんだ、と。
進め、あかりを辿って。
闇を携え、光の道を、ただ歩め。
きっと、何があっても。
大丈夫なんだ、絶対的に大丈夫

本当はきっと、知っている。
知らないふりがしたいだけ。
まだ、きっと、知らないふりをしていたいだけ。
覚悟を、決める。
何故こんなにも怖いのか、何をこんなにも恐れているのか。
答えは、私の内側に
きっと息を潜めて、かくれんぼしている。

【結びに】

こんなにも、ものや情報が溢れて。
私たちは、本当に豊かになったのだろうか。

ものごころついたときから内在していた、世界と自分への違和感は、一体何のために持っていたのだろうか。

本当に、いろんなことの答えは本人の内側に在るのだろうか。

そんなことを考えても考えなくても。
私たちは等しく1日24時間という数値化された時間を有している。
体感だけでなく、本当は時間の流れが現実的に早くなっているそのことに。
気付こうが気付くまいが、時間は砂時計の砂が落ちるよりも明確に、流れて過ぎ去っていく。

いのちの灯りを、ただ燃やし、目の前のことに丁寧に取り組むこと。
効率化やスピードがそれほど大事なのか、と疑問に感じる。
時間はかかるだけかかるのだから。
いのちを頂き、育み、器が朽ちるまで、ただ進むだけだ。

あのバースデーブルーに苦しんだ私の20年以上続く1年に2ヶ月間の時間。
無駄だったとは思わないが、もったいなかったとは、ちょっと思う。
誰かに打ち明けていたら、違う今があったのだろうか。
今ではわからないし、わからなくても、まぁいいのかも知れない。
これまでの全てが今の私を創ってくれたのだ、と思う。

今年は、過去の自分からは、全く想像だにしなかった心の凪を感じています。
もちろん、いつも穏やかでいられるわけではない。
感情と感覚をしっかり味わう歓び
例えそれがかなしさやさみしさやくるしみであっても。
このありあまるほどの幸せで憂鬱な地上で、確かに感じる私が、在ることに。
今までのこと、全てに。
自分の心をなだめたり、理論で納得させたり、ではなく。
ただ、通って来た確かな自分だけの道として。
ありがたい、ありがとう

最近また関心がムクムク湧いてきている星読みでいうと、私太陽蟹座の死と再生、感受性、感情豊かとかを割とすくすく謳歌してるのかも!

何らかの生きづらさを、もしあなたが抱えているのなら。
そこから本当に抜け出したいという望みがあるのなら。
どうか一人で抱え込まないで。
顔を上げて、周りを見渡せば。
あなたの生きづらさや苦しみをほんの少し渡してみたとしても快く持ってくれる人や、あなたにそっと寄り添ってくれる人が、います。
一人で生きている人間なんてただのひとりもいないのです。
大切に気づいて、しあわせは築くもの

最後まで読んでくださり、ありがとうございます
あなたの明日が今日よりももっともっと軽やかなものとなりますように
今日も感謝


サポート、ありがとうございます💗 世界の子ども支援に大切に使わせていただきますね!!!