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顕神と私のともだち 

「顕神の夢ー幻視の表現者」

久留米市美術館 2023.8.26ー10.15

展覧会「顕神の夢 ─幻視の表現者─ 村山槐多、関根正二から現代まで」は、人知を超えた「何か」の訪れにより得た、霊的な体験を創作源とする表現者に着目するもの。近代から現代にかけての日本の作家51人を取り上げ、超越的な存在との関わりという視点からその表現を見直してゆく。


縋る目をしている人に出会うことがある。その人達は生きる事を諦めてはいない。その中には時に「今この瞬間を逃せばもう終わりかもしれない」と思わす人も居る。本気が、縋る目の中に見える。だから、手は差し伸べられる。

縋る目で、彼らは絵筆を握っていたに違いない。居るのか居ないのかよく分からない神様を、ともだちのように心に据えて。

人間はたぶん、神様に出会うために生まれてきてはいない。人間はたぶん、ともだちに出会うためにこの星に生まれてきた。心を通わす人、言葉を交わす人、できれば分かり合える人と。ぎりぎりの所でも縋る目で、本能でそれを探し続けている。彼らが絵筆を握り続けたように。

生命は初めから生きることを目的に人体にセットされている。意志とは真逆であっても、無意識であっても、各臓器は必ず生きる事を選ぶ。電源ボタンは探しても見つからない。精神は命を守るための最後の砦となる。人間の生命は精神を歪めてまでも、生きることを選ぶ。その苦悩が縋る目の中に宿る。



レビー小体型認知症は、幻視や幻覚を特徴とする認知症の一種とされている。
彼女は、小さな履き物屋を営みながら大切な息子さんをエンジニアに育てあげた立派なお母さんだった。優しく穏やかな人だった。その彼女にレビー小体型認知症という病はしばしば残酷な幻覚を見せた。ある日、私が彼女の部屋に入ると彼女はまさに幻覚の最中に居た。「人が居る。燃えてる人が居る。火がこっちに来る。私も燃える!」涙と鼻水でぐちゃぐちゃの真っ青な顔で彼女はそう叫んでいた。縋る目が私を見ていた。手を握りただただ「大丈夫」と言うしか私にはできなかった。

レビー小体型認知症は比較的記憶が保持され易い認知症とも言われている。数日後、残酷にもあの日の事を記憶に留めていた彼女は、穏やかさを取り戻した顔で私に言った。「あのとき、人影が見えていた。本当に怖かった。私の手を握ってくれてたでしょう。ありがとう」彼女は見えていたものを「人影」と称した。人間ではない、これは幻ということを彼女はあの時、分かっていたのだ。



境界線が目の前に現れる。あちらの世界と、こちらの現実の境界線。氾濫し混線した情報の海が荒波のように襲い掛かり、幻が目の前に迫り来る。その狭間で「私」が揺るがされる。壊れていく世界、化け物のような私の頭、私が消されていく、私がなくなる、その恐怖。肉体から現実が離れれば、もう会えない。肉体から時間が離れれば、もう会えない。命が肉体に縋る。肉体が現実に縋る。そうしなければ、もう会えなくなる。


私は私でなくなるからだ。


彼女が恐怖していたものとは幻そのものではなく、壊れていく自分自身ではなかったか。そう思い知ったとき、胸が塞がれそうな気持ちになった。
「自分の苦悩など誰にも分かるはずがない」人はそう思う時、胸に手首に腹に、見つからないはずの電源ボタンを探し始める。病は今後ますます彼女の脳内を変容させていくのかも知れない。彼女の時間軸の糸は今、頼りなく掠れそうになりながら垂れ下がっている。それがやがて消えてしまうことも、神様が定めた末路なのかもしれない。しかし、ともだちでありたいという私のこの気持ちは、そのか細い糸に小さな結び目を作ってはくれないだろうか。誰かの時間軸の糸に別の糸を絡ませ、結び目をつくること。それは神様の所業ではない。それは共に現実を生きる目の前の他者、にんげんにしかできない所業。
偶然、または運命。そうやって私の脳内の細かな網目、そして彼女の網目もまた、偶然と運命が絡み合って作りあげられて来たものだから。


何か彼女に声を掛けなければと思った時、足元にきちんと揃えられた彼女のボロボロの靴が目に入った。大好きだと思ってくれている人のことを彼女に思い出して欲しかった。「靴がもう古くなってしまってますね。息子さんに電話して新しい靴を買ってもらうように伝えましょうね」私がそう言うと彼女はにっこり笑ってくれた。「私はね、昔履き物屋さんをしてたんよ。だから息子にはいい履き物を買ってもらわんとね」彼女はそう言って笑ってくれた。優しいお母さんの顔をしていた。その笑顔は、一人のエンジニアにとっての大切な笑顔だ。



神様、仏様、その他さまざまな異世界が描かれた絵に混じり、じっとこちらを見つめる一枚の自画像があった。その目と見つめ合いながら「私はこの人のともだちだ」とふと思った。

その縋る目に確かに見覚えがあったからだ。


ここに居てもいいんだよと、縋る目の絵描き達にこの星のともだちは微笑んでくれただろうか。神様ではない、肉体という現実を持ったにんげんのともだちは、彼らに微笑んでくれただろうか。

あちらの世界とこちらの現実。その狭間の境界線に縋る目の中の世界を、祈るような気持ちで見続けた。

R5.10.11




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