見出し画像

「助けて」と言える勇気が救うもの。


子供という存在は、可愛いが憎たらしい。そう思わないか?
寝顔を見れば天使だけれど、昼間の癇癪を目の当たりにすれば、悪魔そのものだ。
キレイ事ではないのだ。

相談できる親もいない。夫に相談すれば、「保育園は働いている人しか子どもを預けられないよ」と、視点の合わない返事。

夏の暑さ。繰り返される癇癪を前に、叩くだけではおさまらず、足蹴にした。そして、私は泣き崩れた。



子供が泣く時、思い切り泣く時、その姿をみる時、
「そんな風に泣けるなんて、うらやましいな」と私は思う。

大人になると、そんなに無邪気に全身で泣くことができなくなるのだ。
人目も気にせず、スーパーや電車の中で、大声で泣いている子供を見るといつも思うのだ。私もあんな風に泣きたいと。


10年以上も前。あの夏の日は、そんな風に泣いてみたいという願望が溢れ出た瞬間だったのかもしれない。
だが、家の中で大声で泣いても、誰も相手にしてくれない。
母親が大声で泣き喚いている情景は、子供にとって恐怖でしかなかったのだ。

気づけば、娘と、息子と、私は3人で号泣していた。

頭が痛くなるほど泣いて、泣いて、嗚咽して、少し呼吸が正しくできるようになってから、思い出したように電話を手に取った。

自治体の子育て相談窓口の番号を、しばらく眺めていた。
呼吸は整ったが、涙は止まっていなかった。
時間が止まったかのようだったが、外から蝉の声がするのを、冷静に聴いている自分もいた。

電話の向こうの声は、「お母さん、つらかったね。もっとお話聞きたいから、こっちに来れる?」そう言ってくれた。

ああ、子供に酷い言葉を投げつけて、叩いて、蹴った私の話を、聞いてくれる人がいるのかと。これは、懺悔しにいくのかもしれないと。
もう半分どうでも良くなったような、それでも聞いてくれるのならと、子供たちを連れて子育てセンターに向かった。


あの夏は遠い。
あの夏は遠い。


「助けて」と言える勇気が救うもの。


子供たちは大きくなって、私の背丈を超えた。
笑いながら、時にガックリしながら、私の部屋に話をしに来る。
「お母さん聞いて、あのね・・・」
その日にあった楽しかったことから、人間関係の悩みや進路の相談まで、ここに来るのがいちばんと言わんばかりに話をしてくる。

手を止めて、話を聞く。
とにかく聞いて、聞いて、気持ちを整えてあげる。

そんなやりとりをしていると、
あの夏の遠い日のことを思い出すことがある。

あの時、電話口で私の口からいちばん初めに出た一言は
「助けてください」だった。


誰かに相談することは、恥ずかしいことではない。
誰かに相談することは、心を整えることだ。

あの日の「助けて」が救ったのは、
笑顔で話し合っている、今の私たちだ。

聞いてくれる人は、必ずいる。

そして、そんな人に近づきたくて、
今日も私は、誰かの声に耳を傾けるのだ。


この記事が参加している募集

日常のふとした瞬間や閃きを、毎日書き記しています。 応援してくださると泣いて喜びます(T_T) Twitter:https://twitter.com/yurari_0_0