見出し画像

優しさとは、その人の可能性を信じること。

たまに私は、自分を冷たい人だと思うことがあります。
いや、たまにじゃないかも。週一くらいで感じているかもしれません。

過去にも「塩対応だった」とか「しょっぱかった」とつっこまれたことがあります。でもその殆どが意識的にそうしているので、反論することなく「うん」と答えてしまいます。

持論を述べます。

「優しさ」って、曖昧なんですよ。

細かく何でも気づいてあげて、「どうなの?」「こうなの?」と聴いてあげる。聴いてもらうことが「優しさ」だとしたら、私の中にはその要素が薄いといえます。

私はどちらかといえば、「どうしたいの?」「こうしたいの?」と聴くタイプだからです。恐らくこれが、塩対応と取られる所以だと思います。

だから、意識的に塩対応してしまうのです。
それが自分に冷たさを感じるところなのでしょう。


優しさとは、その人の可能性を信じること。

何だか反省文みたいになってきました。笑
自分自身の『思考の壁打ち』です。

私の中で、そんな「冷たさ」にOKを出してしまうのには理由があります。
世の中にはたくさんの人がいるから、いろんな「優しさ」を持った人がいる。だから、皆んなが同じ「優しさ」を持ち合わせていなくてもいいだろうという考えです。

だったら、私は「どうしたいの?」「こうしたいの?」と聴くタイプの優しさを持った人という位置で良いのだと肯定するのです。

誰に何を思われようと、私は私です。


私の中の「優しさ」とは、その人の可能性を信じることです。
手取り足取り口出しせず、その人の価値観の中には立ち入らない。
恐らくこのスタンスが、私自身の子育てにも影響しているのだと思っています。

優しくないお母さんですが、何か?
子供より反抗的なお母さんですが、何か?

そう。
誰よりも子供たちの可能性を信じているだけです。


そして、こんな冷たい私でも、
どこかの誰かが求める「優しさ」の形になることができる。
そう思って、生きています。

だって、私はわたしを生きているから。





この記事が参加している募集

日常のふとした瞬間や閃きを、毎日書き記しています。 応援してくださると泣いて喜びます(T_T) Twitter:https://twitter.com/yurari_0_0