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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百十三話

 第二百十三話 小野(七)
 
尼君たちが暮らす草庵に手紙をしげく贈るのも気恥ずかしく、かといってあの麗しい姫君を諦めることはできぬ、と中将は悶々とする日々を過ごしております。
何よりどのような事情で世を儚んでいられるのか。
若く美しい女人にはあまりにも不似合いなこととて、しみじみと気の毒に思われるのです。やはり自ら出向いて心を開きたいと願うのはか弱き人を庇護したいという殿方自然の本能か、そこに色めいた心があるのは否めまい。
 
中将は紅葉色づく頃合いに小鷹狩りにかこつけて小野へと赴きました。
今日こそは姫君と言葉を交わしたいと取次ぎに少将の尼を呼びました。
「少将、恥ずかしながら姫君の御姿を垣間見てからどうにも心が落ち着かない。私のせつない気持ちをうまく姫君に伝えておくれ」
少将はやはり中将にこれからもお越しいただきたいという気持ちがあるもので、わざわざ草を踏み分けてお越しになった志のほどを説いて聞かせますが浮舟の心が動くはずもありません。
袖で顔を隠して拒絶する姿に尼君は嘆息し、代わりに中将へ対面することとしました。
「中将さま、せっかくお越しいただきましたが、やはり姫は気が進まぬようでございます」
「姫君は私が浮ついた気持ちで来たとお思いでしょうか。世は儘ならぬものゆえ私は常日頃からの出家の願望も果たせずにおります。そんな考えを持っているせいか妻とは気が合わず、どうせ御仏に帰依できぬ身の上なれば同じような物思いを抱える御方とただ徒然を慰め合いたいだけなのですよ」
「たしかに姫のような方はお話し相手に相応しかろうと感じますが、当の姫が夫を持たぬと申しておりますのでわたくしからはなんとも。どうやら本気で出家を志しておられるのが如何にも心配なのですよ」
尼君が本音を漏らされて項垂れるのをなんとかこの人を味方につけて姫と逢いたいと願う中将なのです。
「聞けば物の怪に攫われて行き倒れていたということですので、よほど恐ろしい目にお遭いになったのでしょう。御仏への加護を求めるあまりに勢いこんで出家などなさっては若い身にはより辛いことともなりかねますぞ。無礼なことはけして致しません。ただお慰めしたいだけなのです」
このような好青年なればもしや言葉を交わして姫の気持ちも変わるのではあるまいか、と期待する尼君はやはり浮舟を説得しようと考えるのです。
「中将さまからのお言葉もったいないとは思いませぬか。このような浮世離れした庵では心を掛けてもらえるようなこともなく、如何にも頼りないのですから温情を無下にしてはいけませんわ」
「わたくしのような者がどうして立派な中将さまにお言葉など返せましょうか。野の花はただそこにあるのが分を越えぬと心得ております」
取りつく島もない無情な姫君に中将は嘆きながら詠みました。
 
 松蟲の聲をたづねて来つれども
     また荻原の露にまどひぬ
(今日こそあなたのお声が聞けると待ちわびていたものが叶わぬとは、荻原の露に濡れて悲しく帰ると致しましょう)
 
せめてこの返事だけは、と縋っても浮舟は首を縦には振りません。
ちらとでも隙を見せれば付け込まれる殿方の情熱を怖じているからです。
尼君は仕方なくまた中将へ返しました。
 
 秋の野の露分け来たる狩衣葎(かりむぐら)
     しげれる宿にかこつかな
(荻原の露を踏み分けて濡れた狩衣なれば、姫がつれなくしたとこの宿を恨んで泣かないでください)
 
姫の頑な姿勢に女房たちは深い溜息を漏らします。
「ちょっとお話しされたところで不心得な振る舞いなどなさいません君ですのに」
「夫婦の契りとまで考えられずとも気軽にお言葉を交わせばよろしいのにねぇ」
などと聞こえてくるのを、尼とそれに仕える者たちでありながら、手引きでもしそうである、と浮舟は不安に揺れるのでした。
御仏に帰依しているからと心映えが深く人を思いやる気持ちがあるかというとそうではないもので、草の庵にいらっしゃる面々はどうにも華々しかった昔ばかりを懐かしんで浮舟の心を斟酌なさろうとはしない。
中将に優しい言葉をかけられるのを喜び、姫君と中将を娶せようというのはあまりにも惨いことと気付くことができないのです。
いくら中将が立派に見えてもあの清廉な薫君を知り、輝くばかりの匂宮に愛された女人なればどれほどの殿方も物足りなく、かの方々へ顔向けできぬような身の上にはなりたくない、という矜持もあるのです。
もはや二度とお目にかかることがなくとも、浮舟は死線を越えてしなやかに強い意志を持つようになりました。
姫君のあまりの強情さに興冷めした中将は白けた気分で座を立ちました。
どれほど姫を気遣うような言葉を並べ立てたとて、やはり他の浮かれた貴公子となんら変わるはずもない。
今となっては匂宮に幻惑された己を愚かしいとさえ感じる浮舟なのです。
 
 山里は秋こそ殊にわびしけれ
   鹿の鳴く音に目をさましつつ
(山里の秋というものはことさらにわびしく感じずにはいられない。鹿の鳴く声がまた寂寥感を増して眠ることもできまいよ)
 
中将は懐から笛を取り出すと赴くままに奏で始めました。
その調べの哀切さに尼君は涙を禁じえません。
「中将さま、この月の美しい宵を愛でずにお立ちになるのは惜しくはございませぬか」
「いやもう、ここまで姫に嫌われては身を置く場所もあるまいよ」
「姫君は恥ずかしがっておられるだけですわ」
このまま中将をお返しするのが寂しくて尼君は中将へ向かって詠みました。
それはあたかも浮舟が望んでいるように。
 
 ふかき夜の月をあはれと見ぬ人や
     山の端ちかき宿にとまらぬ
(深更の月の美しさに心動かされない人などおりません。あなたは情趣を解する御方ですのでこの庵を見捨てて去ってゆくことはないでしょう)
 
整いもしない歌である上に嫌らしく、まるで自分の心とは反対であるものを浮舟は頬を紅潮させて憤慨しました。
中将は些か脈があると見て取ったのか喜色を浮かべて返すのです。
 
 山の端に入るまで月を眺め見む
    閨の板間もしるしありやと
(それでは月が山の端に姿を隠すまで眺めていると致しましょう。姫君の寝所に月の光が差し込み入るように私も側に寄れるかもしれませんので)
 
なんと不躾な、と浮舟はこの風流ぶった人たちの応酬に顔を青くしました。
無理にでも関係を結ばされそうで、たとい罪深いといわれてもそうなる前に再び命を絶とうと気を張るのでした。



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