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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百七話

 第二百七話 小野(一)
 
「ようやくお気づきになられましたね、うれしいこと」
涙を流して喜ぶ尼姿の女人を浮舟は不思議に思いました。
 
この方はどうやらわたくしを案じて涙を流されているのだわ。
 
そう納得するも、どうしてまったく知らぬ人が涙を流してまで喜んでいるものか。
そうとして、今もっとも会いたい御方とは、その刹那に脳裏に蘇ったのは深い眼差しを向ける薫君なのでした。
あの御方の笑顔も悲しみもすべてはわたくしのものではなかった。
その絶望こそが浮舟を現世へと呼び戻す引き金になるとはなんたる皮肉か。
そのまま己が何者であるかも思い出さずに過ごせれば、まるで生まれ変わったように心安く過ごせたものを。
浮舟は異界に身を投じた時のことを鮮明に思い出しておりました。
それと同時に死ぬほどの悲しみも甦る。
 
何故自分は永らえてしまったのであろうか。
罪の深さゆえに死ぬことも許されなんだか。
 
知らずこぼれる涙に尼君はまた浮舟を気遣うのです。
「どうしてそのように泣かれるのですか?命を繋ぎとめたのは御身にはまだ残された人生があるというもの。粗末にしてはなりませぬよ」
尼君のおっしゃることはよくわかります。
しかし何よりもその業が浮舟を苛んでいるのを知る由もない。
「わたくしはどうしたのでしょう。ここはどこなのでしょうか」
救いを求めるように問うても欲しい言葉が返ってくるはずもないのです。
「ここは小野と呼ばれる叡山の麓でございますよ。御身は御仏の御加護によって比叡の僧都に救われたのです」
小野、と言われたところで深窓にかしずかれた姫なればどの辺りかもわかるはずがありません。ですが、宇治よりも都からは遥かに遠く、老いた僧や尼君が衆生の為に修行に励むところなれば、簡素な部屋にも得心がゆきます。
御仏は悔い改めよ、という思し召しでわたくしをここへ留めたのだ、と浮舟には思われるのでした。
「目覚めたばかりですから薬湯でも召し上がってください。さぁ」
そうして慣れた手つきで体を支える尼君に浮舟は実の母を思い出さずにはいられません。
 
母上さまはどうしていられることか。
 
涙がこぼれて臥せる姫の背中を尼君は優しくさすりながら言いました。
「苦しいのですか?無理はいけませんよ。少しずつ回復なさればよろしいのです」
「わたくしは何が何やらわからずにおりますの」
「そうでしょうとも。恐ろしい物の怪に憑かれていたのですもの。御身はすでに安泰です。安心してお休みなさいまし」
尼君に差し出された薬湯は薫り高く、心地よい眠りへと誘うようで、浮舟は心を体にしっかりと繋ぎとめて眠りに落ちてゆくのでした。
 
 
夢とうつつを行き来しながら、浮舟は次第に記憶を取り戻してゆきました。
同時に俯瞰しながら反芻して己の身に何が起きたのかを把握しました。
物の怪が去ったことで目を塞ぐものが無くなり、幽冥にて体験した記憶などもまざまざと思い出され、最期に薫君を恋い慕った己の心を知ったのです。
今更ながらにそれは酷なことで、甦って尚その心が消えぬのが御仏の下された罰とも思われてなりません。
魂が彷徨う間に季節は巡り、夏になろうとしておりました。
すでに亡き者として彼岸へ渡る四十九日も済んでいるとあらばこの身はどこに置けばよいものか。
浮舟は未だ死を考えております。
それが叶わぬならば、
「どうかわたくしを尼にしてください」
と妹尼に懇願する。
「やっとこちらに戻ってこられたというのにそのような悲しいことはおっしゃらないでくださいまし」
「御仏に帰依することで功徳が得られて永らえるというお話を聞いたことがございます。わたくしもそう致したいのです」
御仏の弟子になろうという志は尊いものですし、このまま回復されるのであれば、と尼君も拒むことはできません。
「おっしゃることはよくわかりました。それでは僧都がまだいらっしゃいますので五戒を授けていただきましょう」
五戒とは、五つの戒(殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒)を守る誓いを立てて在家のまま仏門に帰依したという印を示すのです。
そして形ばかりに頭の上の方の髪を少しだけ切りました。
心から尼になりたいと望む浮舟にはこの処置は残念でなりませんでしたが、事情も知らぬ人たちの善意を踏みにじるわけにもゆきません。
「僧都さま、ありがとうございました」
「御体を大切になさいませよ」
「はい」
数珠を握り締めて手を合わせる姿はこの上なく清く美しい。
これはやはり御仏が生かされた御方であるよ、と僧都は己の行いが正しかったのを悟りました。
物の怪が語った通りに観音菩薩の護りあつい浮舟なれば見る間に回復してゆきます。
体が健やかになるにつれて美しさは輝きを増し、老人たちしかいない庵にはまるで天人を迎えたように思われて、ありがたく甲斐甲斐しく世話をやくのも詮方なきこと。
妹尼は姫がなよ竹のかぐやのようにいつか居なくなってしまうのではないかと気が気ではなく、この世にある人であるということを確認せずにはいられないのです。
「ねぇ、姫や。あなたはどこのどなたなの?そろそろわたくしたちを信用してお話下さってもよろしいではないの」
当然のことと浮舟も思うのですが、薫君と匂宮との愛憎の顛末に身を落としたことなど、どうして言えようか。
「これほどお世話になり、感謝の念でいっぱいなのをどうして隠し立てなどできましょうか。どうしても思い出すことができないのです。ただ記憶にあることと言えば死にたいと望んだことだけ。どうかわたくしの存在は世間に伏せておいてくださいまし」
若く美しい姫が死のうとするなどよほどの事情があるに違いない。
初瀬の観音さまが引き合わせてくださった縁なればこの姫はもうわたくしの娘である、と尼君はそれ以上圧して尋ねることはせず、庵の者たちにも姫の存在は口外しないようきつく言い含めるのでした。

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