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令和源氏物語 宇治の恋華 第百十二話

 第百十二話  迷想(二十二)
 
一体自分の想いはどこへ行きつくのであろうか。
薫は未だ迷宮に捉われているような心地でおります。
車に揺られながら手には中君への土産に見事に赤く色づいた蔦を抱き、一方ではまだ見ぬ姫に焦がれている。かつて本気で出家を志した自分が今もっとも遠い処にあるのを一度灯った恋の炎の怖ろしさに身を捩る薫なのです。
自分の真の父もこのように苦しんだのであろうか、と自然に亡き父・柏木の気持ちを斟酌するようになっているのでした。
中君に差し上げる手紙はもしも宮が読まれてもよいように事務的な書面をしたためました。それは後見人として生きると決めた薫のけじめであり、愛しい人への心遣いでもあるのです。
案の定中君の側にいらした匂宮は薫からの消息ということですぐに警戒心を見せました。
「見事に色づいた蔦だなぁ。どれ、この蔦に絡めて色めかしいことでも書いてあるのではなかろうか」
ろ、中君から早々に手紙を取り上げました。
「なんとも面白味のない手紙だな。私がいるので遠慮しているのか」
些か鋭い点もありますが、宮の邪推は留まるところを知らないのが中君にとっては辛いところです。ほんの少しばかり嫉妬心を煽ってこちらに関心が向いたらばしてやったりと考えていたものが、覿面以上で四六時中妻の動向を窺うようになりました。
拗ねてふくれる中君の様子が可愛らしくこれではどんな罪をも許してしまいそうだ、と宮が考えるのはやはり薫君との間に何事かあったのではないかという疑念から。
「さぁ、私は見ないから薫に返事を書きなさいよ」
そう言いつつも、目の隅で見張っているのです。
宮が嫉妬深いのは仕方のないことなのですが、そうまで二人の仲を疑うのはご自分が薫の立場であればこのような女人を前にして素通りはせぬ、という奔放な恋愛経験に照らしてのこと。相手の気持ちを汲んで手を出さぬ、という心理は到底物語にしかないものだと信じていらっしゃるのです。
庭の薄が風にそよいで手招きするのを妖しの者と見まごうという話はよく聞きますが、今の宮にとっては中君を手招きする手に見える。
 
 穂に出でぬ物思ふらし篠薄
     招く袂の露しげくして
(あの風に靡く篠薄はあなたのようではありませんか。薫君の招きに心が動いているのではありませんか)
 
なんとも情けない御心よ、と中君は返しました。
 
 秋はつる野辺の気色も篠すすき
    ほのめく風につけてこそ知れ
(秋が終わるようにあなたもわたくしに飽きているのだというのを薄のそよぐ気配にも感じておりますわ)
 
「まったくいつまでもつまらぬ疑念に捉われるのは愚かだな。これは私が悪かった。意地悪を言うのはよそう。それよりも去りゆく秋の宵が惜しい」
宮は琵琶を引き寄せて爪弾き始めました。
「菊というのは実に清廉な花だね。なぜ今菊の花を連想したかというとだ、これは昔の話らしいが、何某の親王が菊の花を愛でながら琵琶を弾いていられるとその類稀なる調べに誘われて天人が舞い降り、秘曲を授けたのだとか。今はなかなかそうした話も聞かないものだね」
そう言いさして宮が手を留められたのを中君は惜しく感じました。
「もう少し聞きとうございます。どうかわたくしの知らない曲などを奏でてくださいませ」
「それではあなたも何か弾いてくださいよ」
と筝の琴を中君の方へ押しやりました。
「父上が生きておられた頃にはよく弾いておりましたが、もう腕が鈍ってしまってお聞かせするのも心苦しいですわ」
前言の手前、辛いことはもう言わぬと決めた宮ですが、もしも薫が所望したならば恥ずかしがりながらも弾いたであろう、と嫉妬ゆえの想像力を働かせるとやはり面白くないのです。
「夫婦の間のことですよ。六条院の姫は拙い手と恥じながらも隠し立てせずに聞かせてくださいました。おしなべて女人は従順に素直であるのが好もしいとあなたとは仲良しの薫中納言もおっしゃっていたものだがなぁ」
またも辛いことを言われる、と溜息を吐くと中君も意地を張らずに琴を引き寄せました。
宮の琵琶の黄鐘調(イ調)に合わせるのに盤渉調(ロ調)で合わせられたのは筝の絃が少し緩んでいたためか、宮はちらとそれを見てとると女君の機転に笑みをこぼされました。
筝を掻き合わせる手もなかなかで興に乗った宮は催馬楽(さいばら=民謡を雅楽風にアレンジしたもの)の「伊勢の海」をお謡いになる。
 
 伊勢の海の 清き渚に 潮かひに
 莫告藻(なのりそ)や摘まむ
 貝や拾はむや 玉や拾はむや
 
秋の夜長を水入らずで、女房たちもうっとりと聞き惚れるのでした。
やはり二条院が自分の身を置くところと宮は物忌みだのと理由をつけて数日六条院には渡っておりません。
すると痺れを切らした夕霧の左大臣が二条院へとやって来ました。
ものものしい隋人達はきらびやかに着飾り、贅沢な装束を着けた大臣は若々しくて美しい。その迫力に二条院の面々はやはりご威勢が違うと気圧されるのです。
「ささ、宮さま。このままあちらへお供致しましょう」
まるで当然のように振る舞われる傲岸さは大臣故のことでしょうか。
中君はこれから先もこのような惨めな思いが付き纏うのであろうと気が塞ぐも、ただ宮さまの愛に縋って生きるより他はありません。
産み月が近づくにつれて体は辛くなり、姉の大君も体が弱く儚くなったことからもしやこの出産で命を落とすのではあるまいか、と慄く中君ですが、この子だけは産んでみせようと気を保たれております。
そうしているうちにもその年は暮れようとしているのでした。

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